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それから約一ヶ月――三月中旬も終わる頃。
まだ春休みも半ばのその時期に、帰省から帰ってきたチャラ男がいつものメンバー四人のグループLINEで飲みに誘ってきた。
鞍馬とはあれ以降連絡を取っていなかったので気まずかったが、四人での飲み会を断るほど避けるつもりもないので承諾した。
適当に日程調整をし、集まったのは居酒屋。
変わらずチャラ男と女学生は隣で、私が会っていない間に何か関係が進展したのか少し距離感が近かった。
鞍馬はいつも通りで何もなかったように接してくれる。あのドタキャンについては触れもしない。
これまで数多くの人間関係を終わらせてきたであろう鞍馬らしい器用さだなと思った。
私たちは上手にただの“同じ研究室の学生と院生”に戻れたのだろう。
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飲み会が終わった後、チャラ男と女学生は二人で同じ方向へ帰る様子だった。
「じゃあ俺らこっちなんで。鞍馬、瑚都っち襲うなよ」
「襲わないよ。何だと思ってる?」
「お前手ぇ早いから信じれん」
冗談っぽく笑ったチャラ男が私たちに背を向けて帰っていく。
鞍馬と二人きりは少し緊張するが、何となく鞍馬はもう私に手を出さない気がした。
この男はきっと引き際を十分に弁えているから。
雨が上がった直後のようで地面が濡れていた。
以前より会話はうんと少なく、鞍馬は女だから仕方なく送るといった雰囲気を醸している。
「あの二人付き合うのかな」
「ん~、知らなぁい。まぁあいつのことだし付き合うことはできそうだけどね」
チャラ男と女学生の仲について、鞍馬はあまり興味がないようだった。
「鞍馬は最近何してるの」
連絡を取っていないため、春休み中の鞍馬が何をしているのか全く知らない。
「仕事かな。休みのうちに稼いどかないとね」
「ふーん。女の子と遊び呆けてるのかと思ってた」
「まぁセックスは普通にしてるけど、ずっとしてるわけじゃなくてちゃんと働いてもいるよ」
橋を渡ろうとした時、鞍馬が土手の方へ降りていくので私も慌てて後を追った。
「ちょっと、まだ帰らないの?」
「夜の川好きなんだよね。水面を光がゆらゆら揺れててさ」
土手の上に立つ鞍馬の顔が、あの夏の少年と重なる。
あの時よりずっと背が高くなって男前にもなった鞍馬を前に、その儚げな笑い方だけは変わっていないと思った。
同時に、鞍馬の後ろにある木を見て、どこかで見たことのある光景だと既視感を覚えた。
後ろを振り向くと川沿いにソフトクリームのお店があるのが見えた。
「鞍馬、戻ろう」
「何で?土手を歩いて帰ろうよ。こっちからでも帰れるよ」
思わず早く橋の上に戻ることを提案した私だが、鞍馬はそう言って先を行く。
何だか焦るような気持ちで鞍馬を追って横に並んだ私は、鞍馬を守るように川側を歩いた。
「瑚都はさ、何で俺のこと覚えてたの」
「え?」
「普通忘れるでしょ。子供の頃に一度会っただけの人間なんて」
鞍馬はポケットに手を突っ込んだまま、私と歩幅を合わせて歩いていく。
何で覚えてたか?忘れられるわけがない。あんたは私が殺したんだから――……なんて、そんなこと口が裂けても言えないから、代わりに当たり障りなく答えた。
「死んだと思ってたから。目の前で行方不明になった男の子のこと忘れられると思う?トラウマだよ」
トラウマなのは間違いなかった。鞍馬と再会したての頃は息が苦しくなった程に。
「そっか、トラウマか。」
何が嬉しいのかクスクスと笑った鞍馬が、
「瑚都」
私の名を呼んで急に立ち止まった。
顔を上げると、これまでで一番と言っていいほどゆっくりと鞍馬の顔が近付いてきて、唇と唇が重なる。
何故だか避けることができなかった。
いつもと何ら違わないキスのはずなのに、鞍馬からされたキスの中で初めて感情のようなものを感じた。
随分と長く触れるだけのキスをした後唇が離れていき、私の顔を見て鞍馬が言った。
「ばいばい」
どん、と肩を強く押される。
何が起こったのか分からなかった。
雨で地面が湿っていることもあり、足を滑らせて体が川へと落ちていく。
水の中に落ちる間際、土手の上から感情のない瞳で私を見下ろす鞍馬が見えた。
「瑚都ちゃんは、俺のこと置いていかんでな」
「川に連れてかれんといて」
「まぁ、そん時は俺が助けたらええか」
――――……助けて京之介くん
なんて
この場にいないあの人に
一度は裏切ったあの人に
助けを求める権利は
きっともう私にはない
必死に上に上がろうとして、けれど水の勢いに流され死を覚悟した私を引き上げたのは――――私を突き落とした張本人である、鞍馬だった。
お互いビショビショの状態で土手に上がり、私だけが酷く咳き込んでいた。息を吸う度に痛かった。
息すらままならない状態で、鞍馬に信じられないという目を向ける。
鞍馬はそんな私に向かって、笑っていた。
「何で俺は助けちゃったんだろうね?このまま溺れ死なせればよかったのに」
濡れた髪を搔き上げるその姿すら絵になる男だ。
でも今はそれに見惚れられるような精神状態ではない。
「……何で笑ってるの?ふざけたで済まされないと思うんだけど……」
「だって瑚都、なかなか思い通りになってくれないからさ」
目を細める鞍馬が急にまた誰だか分からなくなった。
「本当は、あの旅行で妊娠させるつもりだったのに」
回らない頭で何とか計算する。
ピルを飲んでいなければ周期的に危険日に合致していた時期ではあるだけに、冗談とは全く思えなかった。
「何それ……?そんなことさせるわけないでしょ……?」
「そうかな?瑚都のオネーサンも、ちょっと無理矢理迫れば生でヤらせるアバズレだったよ?」
「…………は?」
笑いにも似た吐息が漏れた。
何を言ってるの?
「凪津さん、でしょ。ちゃんと調べた上で近付いたから間違えてないはずだけど。高校生の俺には大変だったよ?瑚都たちの特定を依頼するための金用意するの。情報も僅かだったし、瑚都がどこに住んでるか把握するまでに一年近くかかった」
……何も分からない。
高校生の俺?何年も前から私を探してたってこと?
「頭、おかしいんじゃないの」
何も分からないけど、これだけは分かる。
鞍馬の視線がふっと冷たくなった。
「おかしいよ。あの日からおかしくなっちゃったんだ」
私の胸ぐらを掴んだ鞍馬。
恐怖で力がうまく出なくて、そのまま押し倒されてしまった。水を吸い込んだ服が酷く重たい。
鞍馬がキスをしようとするから激しく抵抗すると、歯と歯がぶつかって血が滲んだ。
無理矢理顔を掴まれ、動くなと言わんばかりに唇を噛まれる。
「見て?これ」
私の上に跨っている鞍馬が、自分のスマホの画面を私に見せる。
トークの相手は京之介くんで、過去に撮った鞍馬との性行為中の写真や動画が、沢山送信されていた。
停止しそうになる思考を無理矢理動かして、どうして鞍馬が京之介くんの連絡先を知っているんだと考えた。
そういえば、去年の飲み会でチャラ男が京之介くんと連絡先を交換していた。
あそこ経由で繋がってもおかしくはない。
鞍馬の手が服の中に入ってきて、震えて動けない私の敏感な部分に触れる。
私の全く濡れていないそこに、鞍馬のものが無理矢理入ってくる。
抵抗したら何をされるか分からないことが怖くて何もできなかった。
「泣いてる?可愛いね。もっと泣いてよ。もっと苦しんで。俺はもっと苦しかったんだから」
声もなく泣く私の上で、鞍馬が笑う。ずっと笑っている。
その下半身は緩く動いていて、こんなに泣いてる女を前にして何で勃てるんだと本気で疑問に思った。
「……何、で、こんなことするの」
頑張って考えた末に出た言葉は、それにしては在り来りだった。
「お前が俺の人生をめちゃくちゃにしたから」
どういうこと?分からない。水の音が妙にうるさい。血の味が不快で吐き出したくなる。
「――自分たちだけ幸せになろうなんて、なんて愚かで浅はかで身の程知らずなことだろうね?」
鞍馬がパッとスマホを持つ手を離し、思考が追い付かず硬直する私の隣に、そのスマホがボトリと落ちる。
「一緒に地獄に堕ちてよ」
甘いタバコバニラの香りすら
どろどろに融けていくような心地がした。
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