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テラーノベルの小説コンテスト 第4回テノコン 2025年1月10日〜3月31日まで
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帰る場所がなかった。



どうやって鞍馬の元を離れたのかもう覚えていない。


必死に鞍馬の腕の中から逃れて、近場の公園まで辿り着いた。とにかく必死だったことだけ分かる。



スマホを開いても、京之介くんからの連絡が一切来ていないことが怖かった。


まだ鞍馬からの画像を見ていないのか、見たうえで何も言ってこないのか。



水を含んだ服の裾を絞って、公園のベンチに座る。酷く寒かった。もうすぐ春とはいえまだ寒いし、川の中に入った後だと更に寒い。




震える指で電話をかけた相手は――……チャラ男だ。




『ハーイ。どしたんすか?』



いつも研究室で聞いている明るめの声音にすごくほっとして泣き出しそうになってしまったが、何とか堪える。



「……ねえ。鞍馬の弟の連絡先知らない?」

『えっインスタなら知ってますけど……去年部の新歓来てたんで。どうしたんすか、何で俺?』

「私の知り合いのうちであんたが一番顔広そうだった。送ってくれない?」

『まぁ、いいっすけど』



あっさり鞍馬の弟の連絡先を共有してくるチャラ男。


この軽々しさが鞍馬と京之介くんを繋げることに繋がったのかと思うと、有り難い反面恨めしかった。



「ありがとう。……ねえ」

『はいはい?』

「随分前に言ってた、鞍馬の親の話なんだけど」

『どの話ですか?鞍馬が頑張ってるって話?』

「そう、それ。水難事故がどうとか言ってたでしょ。あの話の続き聞かせて」

『あー、溺れた時に損傷負って、鞍馬の家族はそれを面倒がったんですって。酷いッスよねーいやまあ俺もざっとしか聞いてないんで詳しいことは鞍馬に聞いてくださいって感じですけど……。てか何で?何かありました?』



ただでさえ寒いのに、全身に寒気が走った。



何それ。笑ってたじゃん。鞍馬、あの時、笑ってたのに。


ラブホで事後に、会ったことある?って聞いたらそれを肯定して笑ってたくせに。



「……何もない。また学校で」



それだけ言って通話を切り、すぐにチャラ男から送られてきた連絡先に連絡する。


チャラ男からは【なんだったんすか笑】というメッセージが来ていたが無視だ。



チャラ男から連絡先を聞いたことと、同じ大学の院生であること、“鞍馬の彼女”であることを加えてメッセージを送る。


できるだけ早く通話するか、直接会えないかと。



そうすぐに返信は来ないと思ったので、とりあえずコンビニでタオルと下着を買ってトイレで体を拭いたりしていると、返信が来ていた。



【今からでも会えますよ】



フットワークの軽さは鞍馬に似ていると思った。







感染症の蔓延防止措置により飲食店がほぼ全て営業時間短縮しているため、この時間帯にゆっくり話せるような場所はなかった。



代わりに大型ショッピングセンターの中の衣料品店に集合し、近くにある休憩所の椅子に座った。



先に着いた私は衣料品店で新しい服を買って着替え、濡れた服は買った時にもらったレジ袋に入れた。


髪は自然乾燥だが、もうほぼ乾いている。



透明の仕切りの向こうに居るのは、眼鏡をかけた爽やかイケメン。


テレビの中にいてもおかしくないくらいの俳優オーラに、この休憩所は似つかわしくないと思った。


彼の手元にあるのは私がさっき奢ったココアだ。


わざわざ来てくれたんだし、奢るくらいは普通だと思って渡した。



「用件は何ですか?僕に惚れました?」



そんな冗談にツッコむ気力も今はない。



私が余程酷い顔をしているのか、鞍馬の弟は可笑しそうに笑って


「冗談ですよ、兄さんのことですよね?」


と聞いた。



「鞍馬が昔水難事故で損傷を負ったって聞いて、」

「それについて詳しく知りたいんですか?」



弟は特に意外そうな様子は見せない。私の知りたい内容は大方予想できていたようだった。




「低酸素脳症の後遺症です。脳機能に障害が残りました」







自分が買ったお茶のカップを握り締めて、覚悟しながら次の言葉を待つ。



「最初に様子が可笑しいと言い出したのは父親でした。水難事故の後兄さんは凄く忘れっぽくなって、何度も同じことを言ったり大切な予定を忘れたりしました。その頃から行動へのやる気も著しく欠如して、それまでは成績もクラスで一番だった兄さんが急に勉強を一切しなくなった。兄さんと仲の良かった母さんが何を言っても響かなかったし、家族全員が諦めモードに入ってました」



話の内容に違和感を覚えた。


鞍馬やこの弟が今通っているうちの大学は相当な学力がないと入れない名門だ。


勉強を一切せずに入れると思えないのだけど……と思っていると、追加の説明が来た。



「で、水難事故から五年ほど経った時ですかね。ちょうど中学三年生でいよいよ受験期って時に、兄さんは今度は交通事故に遭いました。食事中左側に置いてあるものにだけ気付いてなかったり、左側にある物を認識できてない状態が続いてたから、できるだけ外に出る時は付いていくようにしてたんですけどね。事故りやすいんで。人にぶつかることもしょっちゅうでしたし。まぁ、案の定左側から来る車に気付かず激突ですよ」



事の重大さをいよいよ実感し始めてしまい、苦しくなる。


あの時私がすぐに大人に伝えていれば――……。



「その事故の後、不思議と兄さんは治りました」

「治った……?」

「そう。記憶障害も遂行機能障害も半側空間無視も、全てなくなりました。不思議ですよね、事故に遭って逆に治るなんて。まぁ、僕たちの目にはそう見えたというだけなんで、実際完全に治ったのかは分かりませんが」



拍子抜けした。


え、治ったの?




「ただ――……交通事故の後、家族全員が兄さんのことを“人が変わった”と言い出しました」




緊張してお茶を一口も飲めない私の前で、弟がココアを一口飲んだ後続けた。



「僕も思いましたよ。性格変わったなって。感情のコントロールがうまくできてないって感じで。温厚な人だったのに子供っぽくなったし怒りっぽくなったし、女遊びも激しくなって、結構だらしない生活してるような印象受けましたね。勉強自体はするようになって進学校に進学しましたけど、入学してすぐクラスメイトに暴行して停学処分食らって、同性の友達は一人もいませんでした。社会的行動障害ってやつらしいです。水難事故の影響が遅れて出てきたのか、交通事故の影響なのかは分からないですけど」



私はそこまで昔と雰囲気が変わったようには思わなかった。変わったにしても年月がそうさせただけだと思っただろう。


でも家族がこう言うなら間違いなく、その事故以降鞍馬は変わったのだ。




「停学中の兄さんが僕の当時の彼女に暴力を振るったから喧嘩になって、僕が頭おかしいんじゃねーのって言ったら、急にキッチンから包丁を持ってきて僕のことを押し倒しました。“俺はおかしくない”ってね。


“俺がおかしいんだとしたら、おかしくさせたのはあの女の子だ”って意味の分からないことを言って泣きながら、僕を殺そうとしたんですよ」




視界がぐらりと揺れる。




「買い物から帰ってきた母さんが泣き叫んで兄さんを突き飛ばして、“いい加減にして”って怒鳴りながら僕を守るみたいに抱き締めました。兄さんのことを睨みながらね。僕ね、あの時の兄さんの顔忘れられないんですよね。兄さんの障害が酷くなった辺りからどう扱っていいか分からなくなってた僕や父さんと違って、母さんだけはずっと兄さんの世話を丁寧にしてたから。一番信じてた人に裏切られた気分だったんじゃないですかね?まあ、ザマミロって感じですけど」




汗が背中を伝っていく。




「兄さんが僕を殺そうとしたって話はその日の晩に父さんにも伝えられて、母さんはリビングで夜中ずっと泣いてました。“手に負えない”って。父さんは考えるような顔をして母さんと一緒にずっと起きてたみたいです。その日から、兄さんは僕たちの家の異物になりました。父さんも酷く冷たくなって、両親は僕にだけ優しくするようになりました。高校を卒業したら祖父母の家に預ける、もう無理だと母さんは言いました」




手の中にあるお茶を飲む気にはもうなれなかった。


今何か口にしたら吐く気がした。




「これくらいですね僕から話せるのは。今はマシになったというか隠してるみたいですけど、兄さんが衝動を抑えられないのは変わってないと思うので近付かない方がいいですよ。僕みたいに殺されかける、なんてこともあるかもしれないですし。……まぁ、既に何かあったから僕に連絡してきたんだと思いますけど」




弟が立ち上がり、そろそろ帰る準備をするかのように上着に袖を通す。



「……君は鞍馬が嫌いなの」



私の問いに一瞬きょとんとした弟は、笑って言った。



「面白いこと聞きますね。


逆に聞きますけど、自分のことを殺そうとした人間、いつまた殺そうとしてくるか分からない人を好きになれますか?いくら家族でも」





そして、




「この世で一番怖いのは頭のおかしい人間ですよ。知能がある分厄介だ」




そんな忠告のような言葉を残して行ってしまった。






残された私は、しばらくそこから動けなかった。



鞍馬がお姉ちゃんと接触していたなんて私を動揺させるための嘘だろうと思っていた。


でも違う。鞍馬は実際自殺に追いやったのだ、お姉ちゃんを。私から大切なものを奪おうと。


殺すつもりはなかったにしても、死にたくなるくらいの後悔を植え付けようとはしたのだろう。



私はお姉ちゃんのお腹にいたのは京之介くんの子供だと思っていたけれど――事実は異なるのだ。



お姉ちゃんが自殺したのは、相手が彼氏ではない男かつ、責任を取れない未成年、しかも高校生であったことも要因だったんだろう。



今なら分かる。


お姉ちゃんが京之介くんを置いていったのは、本当に、何の罪もない京之介くんをもう巻き込めないと思ったからだ。






どうしてお姉ちゃんが死んだのだろう。


私が死ぬべきだったのに。










帰り道、鞍馬に電話をかけた。人に電話をかけていいような時間ではないが、鞍馬なら出てくれるだろうと思った。


ワンコール、ツーコール、……鞍馬が出るまでそう時間はかからなかったはずなのに、随分と長い時間のように思えた。



『もしもし』



ある程度落ち着いてもう平気な気がしていたのに、その声を聞いた途端手が震えた。



「……話がしたい」

『あんなことされたのによく俺に電話かけてこれるね?』



くすくすと笑う鞍馬の声音はいつも通りだった。



ねえ鞍馬、私鞍馬と会ってないと分からなくなるんだよ。


どっちが本当の鞍馬なのかな。



私の隣で子供みたいに笑ってた鞍馬と、私を突き落とした鞍馬のどっちが。



「ごめん。……本当にごめん……」



分かってる。取り返しのつくことじゃない。



「鞍馬から家族を奪ってごめん」

『……』

「私、嘘ついてた。本当は鞍馬が川に落ちたこと、誰にも言わなかった」

『知ってるよ。誰も助けに来なかったから』

「……」

『瑚都の従兄も。必死に水面から顔を上げた俺と目が合ったのに、見て見ぬふりして瑚都を助けてた』

「京之介くんはそっちを見ただけで、人だって分かってなかった。京之介くんは何も悪くないから、そこは分かってほしい……」



違う、こんなことが言いたいんじゃない。




「ねえ、何で私のこと助けたの?」




震える声でそう聞いた。



私を突き落とした瞬間の鞍馬は、本気で私を殺そうとしていたに違いないのに。


鞍馬が助けてくれなかったらきっと私は今頃死んでいた。



電話の向こうからはライターの蓋を開けたり閉めたりする音だけが聞こえ、


いくら待っても鞍馬は何も答えなかった。




「……とにかく、直接話がしたい」




危機感がないって言うならそうなんだと思う。


きっと私は馬鹿なことをしようとしてる。



でも――これまで一緒に過ごしてきた時間があるせいか、鞍馬のことを完全に悪い人だと思えないのだ。




それに私が逃げ惑ったとしても、結局どこかで鞍馬は私に接触してくるだろう。


だったら、今ここで会っておいた方がいい。



私は私の犯した罪と向き合わなきゃいけない。




少しの間があった後、電話の向こうの鞍馬が言った。




『じゃあ、家の前で待ってて。迎えに行くから』






マンションへ戻る頃には早朝近くになっていた。


外から見て電気がついていなかったので、ほっとして階段を上がった。



しかし鍵を差し込んで回しドアを開けた瞬間、暗闇の中で京之介くんが立っていることに気付き、濡れた服の入った袋をその場に落としてしまった。



何も言えずにいる私に向かって、先に言葉を投げたのは京之介くんだった。



「誰と会うてたん?」



何も答えられなかった。鞍馬が私の中に入った感触がまだ残っている。



「何でこんな時間になった?」

「……」



京之介くんがゆっくり私に近付いてくる。私は靴を履いたまま動けなかった。


言葉を発しようとしたが、息が詰まったようになかなか声が出なかった。



「見た……?」



ようやく絞り出した声ですら随分と掠れていた。


京之介くんがすぐには返事しなかったことから察してしまった私は頭が真っ白になって、謝罪の言葉を口にする。



「京之介く、ごめ、」

「知っとったよ。瑚都ちゃんが浮気しとることくらい。あいつ、分っかりやすぅ挑発してきはるんやもん。瑚都ちゃんが気付かんような位置に、周到にキスマ付けて返してきよるんやから、大したもんよなぁ」



顔から血の気が引くのが分かる。


ただでさえ暗いのに、目の前が真っ暗になった気がした。



「ごめん、違う、違わないけど、やっぱり京之介くんに対して誠実でいたいって思って鞍馬とはもうそういう関係終わらせてて、」

「――“鞍馬”?」



ぴく、と京之介くんの眉が動く。


その声が凄く低くて黙ってしまった。



「瑚都ちゃんの口からその名前聞くん、 腸煮えくり返りそうなくらい腹立つわ」



――怒ってる。当たり前だけど、京之介くんの顔がこれまで見たことないくらい怖かった。




その時、ヴー、ヴー……と私のポケットの中のスマホが震えた。


それはずっと震え続け、着信であることを伝えてくる。


バイブ音が止まってからおそるおそるスマホを手に取ると、鞍馬から不在着信と、【着いた】というメッセージが来ている。


私と京之介くんの間に数秒の沈黙が走った。



「ごめん……私、あの子に謝りに行く……」



泣きそうな声で必死に伝えた。



「私……っあの子に酷いことしちゃった。あの子の人生壊しちゃった……」



私の行動で傷付いているであろう京之介くんに対して言うべきことじゃないのは理解している反面、もうすっかり頭が回らなくて、それしか頭になくて、口が先に動いてしまう。




「行かせへんって言ったら?」




出ていこうとする私の腕を掴み、ドアにぶつけるほどの勢いで私を壁に押し付けた京之介くんは裸足のまま玄関の土間に踏み込み、半ば無理矢理私にキスをした。



「あんなもん見せられて、放すと思った?」



カチャリと片手でベルトを外す音がしたかと思えば、買ったばかりの私のズボンもずり下げられる。


ピルを飲んでいることを知っていてもいつもゴムを付けてくれる京之介くんが、初めて生でねじ込んできた。



「痛っ、……きょうのすけく、痛い、」

「こういうの好きなんやろ?」

「違う……っ」

「何がちゃうねん。」



かなり強引に事が行われているにも関わらず、相手が京之介くんなせいで下がすぐに濡れてくる。水音が玄関に響いた。


一度抜かれ、強引に廊下に押し倒される。


履いていたヒールの靴が衝撃で脱げ、床とぶつかった背中が痛みを訴える。



「……ッ」

「痛い?……ごめんな」



京之介くんの手が私が起き上がろうとするのを阻むように首を掴んだ。



「ごめんな、ぜんぶ、俺のせいにしてええから。今だけは俺のことだけ見て」



京之介くんは泣いていた。


その涙が顔に落ちてきたその瞬間、心臓が引き裂かれそうなくらいの後悔が襲ってきた。



「やないと、俺、瑚都ちゃんのこと殺してまいそう……」



私の首を掴んでいる手に徐々に力が籠もっていく。



「あいつのこと好きなん?」

「っ、ち、が、」

「違う?動画の中の瑚都ちゃんは言うてはったで。俺よりあいつのこと好きやって」



違う。そんなものはあの行為を盛り上げるためのペラペラの紙切れでしかなくて。


私はどの瞬間もずっと京之介くんだけが好きだった、なんて。浮気した側の言い訳でしかない。



「瑚都ちゃん、男誑かすんうまいなぁ。いつの間にか俺もズブズブになっとるわ。でも、その責任は取ってくれんのやろ?」

「……っ」



首を絞める力が強くなっていて、もう声が出ない。




「今ここで瑚都ちゃんのこと殺したら、俺だけのもんになる?」




京之介くんの目が本気だった。




その時、ガチャリと玄関の扉の開く音がして体が揺れた。





「声、外まで響いてるよ」



同時に京之介くんの手が私の首から離れ、ようやく息が吸えるようになる。



私を押し倒す京之介くんの真後ろの玄関に鞍馬が立っていて。


きっと凄く情けない顔をしているであろう私を見下ろす鞍馬は、いつも通り煙草を咥えていた。



そこでやっと、鍵をかけていなかったことを思い出す。



「臭いねん。消せや」



立ち上がった京之介くんが鞍馬と向かい合った。



鞍馬は表情を変えずに京之介くんを数秒見つめ合った後、



「このマンションって禁煙?」



と倒れたままの私を見下ろして聞いてくる。



「禁煙……」

「ふーん。」



鞍馬が足元に煙草を落とし、踏み潰して火を消した。



「瑚都のこと迎えに来ただけのつもりだったんだけど、これってもしかして修羅場なのかな?」



鞍馬は目の前に京之介くんが居てもあまり気にしていない様子で笑った。



私がはだけた服を必死に直して立ち上がろうとした時、



「つーか瑚都の部屋初めて来たかも」



友達の家にお邪魔するようなノリで一歩踏み出した鞍馬。


その瞬間に京之介くんがその胸倉を掴んで壁に打ち付けた。



「っ、ってぇ……」

「何勝手に入ってこようとしてんねん。その前に言うことあるんちゃう?」



京之介くんがここまで暴力的な行動に出るのは初めて見たため、びっくりしてその場を動けなかった。



「俺、人の女に手ぇ出しといて謝罪もせん躾なってない猿の玉は潰せって教わってんけど。」



殺気しか感じられないその台詞に、鞍馬がゆるりと口角を上げた。



「何、ヤル?喧嘩」



――――鞍馬は衝動を抑えられない。



弟に聞いたことを思い出し、慌てて立ち上がり両腕を使って京之介くんを鞍馬から引き剥がし、鞍馬と京之介くんの間に立った。


何とか離すことには成功したが、二人とも今にも殴り合いそうな雰囲気で、人の喧嘩を止めるのにこんなに命の危機を感じたのは初めてだった。



「っていうかさぁ、“人の女”って何?」



ふ、と鞍馬が吹き出した。そして。



「お前こそ人の飼い犬にツバ付けてんじゃねーよ」



京之介くんを挑発するような言葉を口にする。



絶対にわざとだと思った。




「――鞍馬」



京之介くんが何か言い返す前に、窘めるようにして鞍馬を呼んだ。


まずはこの場をどうにかしなきゃいけない。


落ち着かないと。今だけはしっかりしなきゃ……私が京之介くんを傷付けた当事者なんだから。



「余計な挑発するのはやめてほしい」



私の声はまだ、泣きそうに震えていた。




「京之介くん」



それから京之介くんを見上げ、両手でその顔を私の方に向けさせて言う。



「ごめん」

「……」

「謝って済むことじゃないけど、私浮気した。京之介くんを裏切ったし、傷付ける結果になった」

「……うん」

「……全部私が悪い。今後のことは好きにして。私から、離れる、なり……」



言っていて涙がぼろぼろ溢れてきた。



――嫌だ。離れたくない。好きだよ京之介くん。


でも私がそれを言うのは身勝手だと思うし、全て私が悪いから、必死に呑み込んだ。



自業自得ってこういうことを言うんだろうな。



「さっきそういう関係もう終わらせてた、って言うてたんは何やったん?」



京之介くんの声音の中に私を責めるような色がないことが余計に辛かった。


もう私には何も期待していない、という風に。



「……二月に、鞍馬にもうセックスしないって言った。今はもうしてない」



しかし、言い終わらないうちに京之介くんの手が私の襟に伸びてきて、そこを少しだけ捲った。




――そこには、数時間前土手で鞍馬に付けられたキスマークがあるはずだった。




「何度も思ったよ。俺の勘違いちゃうかって」

「……」

「ほんまにただの虫刺されで、瑚都ちゃんなんもしとらんのちゃうかなって。してはったとしても、途中でやめてくれるんちゃうかなって、待ってた。ずっと」

「……」

「でも、これが瑚都ちゃんの答えなんやな」

「ち、が」

「俺また嘘つかれなあかん?」

「……」

「苦しい。もう無理やわ」



自嘲的に笑う京之介くんに、かける言葉も言い訳もなかった。






「さよなら。瑚都ちゃん」




襟から京之介くんの手が離れていき、それが別れの合図だった。


京之介くんが部屋から出ていった後、私は壁に背中を預け、ズルズルと床に座り込んだ。



……何やってんだろ、私……。




「マジでフるんだ。面白」



鞍馬だけが冷静で、テレビドラマを観た後のような口ぶりでそんなことを言って、靴を脱いで中へ入ってくる。


もう鞍馬の相手をする気力も、話す気力もなくなってしまった。


今日は色々ありすぎたのだ。正確には、昨日から今日にかけてだけど。



私は大きな溜め息を吐いて髪をぐしゃぐしゃと掻き乱した。



「あーあ。酷い顔」



鞍馬が屈んで私の顔を覗き込んでくる。



「……ごめん。やっぱり話すの今度にさせて。今冷静じゃない」

「冷静じゃない、って。冷静に俺と何話すの?電話でも思ったけど」

「とにかく、今は鞍馬と話し合える状態じゃないんだって。分かるでしょ」

「俺が憎い?」



これに関しては当たり前でしょ、と言い返そうとして、鞍馬の瞳がどこか寂しげなのに気付き黙ってしまった。


鞍馬に対してまた色んな感情がぐちゃぐちゃになって息が苦しかった。まるであの水の中にいるみたいだ。



「可哀想だね、瑚都。すごく好きだったのにね」



体育座りして丸まりまた泣き出す私を、鞍馬が横から抱き締めた。



「っ離して……」

「やだよ。今日は瑚都の傍にいる」

「何で、あんたはいつも、」

「瑚都は悪くないよ」

「……っ」

「俺が瑚都を誑かしただけ。瑚都は何も悪くない」




分かってる。


事故は両方が愚かじゃないと起こらない。


なのに鞍馬は息をするように、全てを自分のせいにしてしまう。


薄っぺらくて非論理的な言葉で頭を空っぽにして全てを投げ捨てさせようとする。


無条件に慰めてくれる。どれだけ私が悪くても。




何でこんな時まで、それは変わらないの。




「……苦しい……」

「苦しいの?」

「苦しい、心臓痛い、ずっと痛い……っ」



腕の中で啜り泣く私の背中を鞍馬が撫で続けている。



「京之介くんに捨てられたのも、自分の責任だって分かっててどうしようもないから痛い、自分が鞍馬の人生滅茶苦茶にしちゃったことも取り返しつかないって分かってるから痛い、そのせいで鞍馬にずっと恨まれてることも、全部痛い、何で私、同時に失わなきゃいけないの、友達も、恋人も……っ」



私を抱き締める鞍馬がふっと笑う気配がした。



「俺のことまだ友達だって言ってる?」

「そうだよ、好きだよ鞍馬のこと!あんなことされても嫌いになれない、頭おかしいよね私」



いっそ憎み返せたらどんなに良かったか。


あの時鞍馬が必要だったのも、鞍馬を心の拠り所にしていたのも、勝手に友達だと思っていたのも、責任を感じて同情してしまったのも事実だ。



「もう殺してよ、私のこと。そんなに憎いなら楽にして。何でも言うこと聞くから。生きてる意味ない、お姉ちゃんも京之介くんもいない世界でどうにもできない罪抱えてまで生きてる意味ない……」



自分の口から出た言葉に、ああ、私の生きる意味とはあの夏からずっと、こんなにも脆かったのかと自覚した。


さっき京之介くんの手の中で死ねたら良かった。お姉ちゃんの元へ行けばよかった。



なのにどうして私は今、この香りに包まれてこんなにも安心しているのだろう。



「何でもする?本当に?」



鞍馬の声音がこれまでにないほど優しかった。


私はこくりこくりと頷く。涙が頬を伝い、顎から床へと落ちていく。




「じゃあ、」



ずっと俯いているから、鞍馬の表情は見えない。ただ――……




「……俺と一緒に死んで」




私を抱き締める鞍馬の体温が酷く熱かった。


か細い声でそう要求する鞍馬は、何故か泣いているようだった。







口が裂けても言えない

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