るなちゃんの家の玄関の前に立ったのは、偶然だった。 忘れ物を届けに行っただけで、深く考えてはいなかった。だが、閉ざされた扉の向こうから漏れてくる声に、私は思わず足を止めた。
「またあの子と一緒にいたの?」
「……別に、友達だから」
「やめなさい。あの子はあなたをおかしくする」
「おかしくなんか……」
「黙りなさい!」
母親の怒声が響く。食器を置く音、硬いヒールの音。
るなちゃんの返事は小さく、かすれていた。
「私はあなたの母親よ。あなたは私だけを見ていればいい。外の人間なんかに惑わされるんじゃない」
「……それって、檻と同じじゃない」
「親に逆らう気? あの子とは会わせない。学校にも連絡する」
そこで、沈黙が落ちた。
その直後に、甲高い音が響いた。倒れる椅子の音か、食器が割れる音か分からない。ただ、空気が一変したことだけは分かった。
――そして。
夜。
るなちゃんから電話がかかってきた。
「……あみ」
その声は、いつもの彼女とは別人のようだった。低く、かすれて、底なしの暗闇を抱えていた。
「私ね、どうしたらいいの…?」
息が止まった。
耳の奥で、遠くに落ちるような鈍い響きがした。
「お母さんが……全部取り上げるって言ったの。あみとも、これから先、会うなって」
彼女の声は焦りと不安が入り交じった、そんな声だった。
「私、もうお母さんの人形みたいになるのは嫌で、私もみんなみたいに普通の女の子になりたくて……」
「だから私…お母さんのこと……」
この先は言わなくたって私にもわかる。きっともう取り返しのつかないことになってしまったのだろう。
血の匂いが受話器越しに広がるような錯覚に襲われた。
るなちゃんはしばらく黙っていた。やがて、低く呟いた。
「……ああ、どうしよう。これで、もう、戻れない」
その声は、絶望に染まっていた。パニックでも取り乱しでもなく、ただ深い底に沈んでいくような。
「私、もうきっと普通になんてなれない。でもね……あみだけは、まだ側にいてくれる?」
言葉が鋭く胸を突いた。
そのとき私は悟った。るなちゃんにとって、私だけが最後の拠り所になってしまったのだと。
「……逃げよう。私と一緒にどこか遠くへ」
無意識にそう口にしていた。
それ以外の答えは、もう考えられなかった。
夜の街角、るなちゃんは待っていた。
顔は青ざめ、手は震え、袖口には赤黒い染みが広がっている。私を見ると、彼女はかすかに微笑んだ。
「来てくれた……やっぱり、あみは私を捨てないんだ」
その笑みは、もう学校で見せていた明るさとは別のものだった。
光を失い、闇に縋りつく笑み。
そして私は、その闇に引き込まれるように彼女の手を握った。
2人は走り出す。
もう、帰る場所のない夜の中へ。