第二話 視線の行方
リハーサルの終わり、スタジオの空気は少し緩んでいた。
汗の匂いと柔軟剤の匂いが混ざり、床には足跡とテープの切れ端が残る。
メンバーはそれぞれ荷物をまとめ、他愛もない話で腹を抱えて笑っている。
そんな中で、ソンホは鏡の前で髪を整えながら、無意識に隣を見た。
テサンは、譜面やスケジュールをぱらぱらとめくっている。
だが視線は紙の上にはなく、何度もソンホの方へ向いていた。
少し前までは互いに意識することすら気恥ずかしかった距離が、いまは静かに縮まっている。
ソンホはこの胸騒ぎの正体を知りたくなかった。
知ってしまえば、自分の中の均衡が崩れる気がしたからだ。
「テサニ、今日のあのターン、もう一回合わせよっか」
ソンホが言うと、テサンはぱっと顔を上げた。目が綺麗に見開かれる。
「はい、ヒョン。俺、そこだけ絶対にミスりたくないです」
その声に、ソンホの胸が一瞬高鳴る。
軽い冗談のつもりで放った言葉が、いつの間にか彼の中で重くなっていると気づくたび、舌先が冷たくなる。
テサンの真面目さは時に武器のように効いて、ソンホは抵抗する力を失ってしまう。
帰り道、メンバーでタクシーを待つ列の端で、テサンが小さな紙袋をソンホに差し出した。中にはホットコーヒーと、小さなメモが一枚。
メモにはまるで小学生が書いたのかと思うくらい不器用に書かれた「ゆっくり休んでくださいね テサンより」という文字。
ソンホは一瞬戸惑ってから、ふっと笑って受け取る。
「ありがとう、テサニ」
「別に、ヒョンがいつも頑張ってるからです。俺、見てるんで」
見てる——その短い言葉に含まれる深さに、ソンホはどう反応していいかわからなかった。
見られることに慣れているはずなのに、「自分」だけを見られているのは別物だった。
宿舎に戻ると、メンバーがそれぞれ疲れた様子で散っていく。
リビングに残ったのはいつもどおり少数で、ソンホはソファに沈み込む。
テサンは何気なく隣に腰を下ろし、膝と膝が触れるか触れないかの近さで座る。
身体の距離は短いが、どちらもそれをあえて言葉にしない。
「ヒョン、こないだのインタビュー、すごく良かったですよ」
「そう? あれはみんなのおかげだよ」
「ヒョンだけじゃないです。ヒョンがいるから、チームが落ち着くんです」
テサンは言葉を選びながらも、色を交えずに真っ直ぐに伝えてくる。
ソンホはその誠実さにうろたえ、でもどこか救われる気持ちにもなった。
自分が姫のように振る舞うのはむしろ周囲を守るための仮面で、そこには確かな孤独が隠れている。
誰かにそれを言葉にしてもらうのは、ずっと怖かった。
テサンは急に、近くにあったブランケットの端を自分の手で引き寄せ、ソンホの膝の上にかけてくれた。
動作はほんの小さなものだが、意図がある。
それを受け取る瞬間、ソンホは胸の中で細い糸が結ばれていくのを感じた。
「ねえ、テサニ」
「はい、ヒョン」
「時々、こうして近くにいてくれると、安心するよ」
言葉にした自分に驚きながらも、ソンホは素直だった。
テサンの顔がふっと和らぐ。
彼は照れ隠しのように手を振り、低い声で言った。
「俺も、ヒョンの横がいいです。これからも、見ていたいです」
その「これからも」という言葉に、ソンホは未来の一瞬を見たような気がした。
大げさな情熱ではなく、日常の中に忍び込む誠実な熱。
テサンの矢印は、そんなふうに静かに、しかし確実に彼を射抜いていた。
夜、ベッドに入ってもソンホの頭の中は静まらない。
テサンの視線、表情、行動、そして紙袋の温もりさえも。
彼に向けられるものが「仕事上の後輩としての好意」なのか、それとももう少し私的な感情なのか。
答えをつけることができないまま、ソンホは自分の胸の奥に、小さな違和感と甘さが混じった何かが育ちつつあることを認めた。
窓の外に街の灯りが淡く揺れる。
ソンホは暗闇の中で、自分がどんな答えを出すべきかまだ知らないまま、ただ一つ確かなことだけを抱きしめていた――目の前の後輩が、自分を見つめ続けているという事実。
思えば、それは恐ろしいことでもあり、同時に最も安らぐことでもあった。
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