店主は当時の光景を思い浮かべているのか、どこか寂しげな表情でティーカップの中で揺れる水面を眺めている。
聞きたい事、気になる点がいくつもあったが今は口を挟んではいけないような気がして僕は黙りこんでいた。
喉の乾きを覚え、紅茶を少し飲んでみるとハーブの香りが鼻をつきぬけ、蜂蜜の甘さが残った。ああ、これあいつが好きな紅茶だ。
そう思いピタリと思考が止まる。あいつって誰の事だ?
「……私は、何よりも彼のことが好きだったんだ」
口調は淡々としているのに、ひしひしと伝わる感情は激しいものだった。
その言葉を聞いた時、胸にもやがかかったような嫌な感じがした。
それが表情に出ないよう気をつけながら、テーブルの下で右腕を握りしめる。
店主は話を続け、僕は静かにその話に聞き入った。
私は大人になり、画商だった祖父の店を継ぐ事になった。
彼の絵は、単なる落書きからスケッチブックを切り取った1枚の絵まで何でもすぐに買い手が現れた。
私も絵を描く人間だったために、それがどれほど羨ましかったか、憧れていたのか、己の才能の無さに絶望したかを彼は知らないだろう。
何一つとして、私が彼に適うものはなかった。どれだけ努力しても、隣に並ぶことさえできない。彼はずっと遠い存在で、触れられるほどの距離にいても近づきたいと思うほど離れていくような存在でもあった。
それでも私は彼が好きで、彼の全てが欲しかった。彼に、なりたかった。
彼を追いかける日々は幸せで、そんな日々は苦痛でもあった。
私は彼に思いを告げた。好きだと、恋人になって欲しいと懇願した。
「…あきらの事を、そんな風に見ることはできない」
何故かと聞いても彼は首を振るばかりで、明確な理由は言わない。
「そんな顔するな、いつかきっと他に大切な人ができるよ」
そう言われた途端、何かの糸がプツリと切れた気がした。
「はぁ? 馬鹿にしてんだろ。他に好きな人なんかできるはずがない!!先生は何も分かってない!」
私は声をあげて、感情に任せた最低な言葉をぶつけた。今まで心にしまっていた熱い感情と、蔑みの言葉を。
「…見捨てられたくせに!なんで来るはずもない奴を馬鹿みたいにずっと待ってんだよ」
「…」
初めて、彼の瞳が揺らいだ。酷く傷ついた表情をさせて、一瞬で夢から覚めたような心地になった。
「ごめ、ん」
「…お前の言う通り俺は、惨めだろうな」
そう言った彼の瞳は暗く濁り、見た事のない色に少し怖いと思ってしまった。
「俺だって、どうしたらいいか分からないんだ。生きる意味も理由もないのに、死ねないだけで生き続けて。後どれだけ耐えれば、俺は楽になれる?」
その時、彼は私よりも遥かに深い何かを抱えていることに気がついた。そして私が彼に与えられるものは何も無いことにも。
私にとって彼が生きる理由だというのに、彼にとって私は生きる理由にもならない存在だった。
私は、 彼を傷つけてしまったこと、己の浅はかさや不甲斐なさ、彼にとって私の存在は何でもない事に絶望した。
ある夜、衝動的に包丁を手に取った。死んでやろうと思った。私が死んだら、彼は泣いてくれるのかとそんな事を考えながら包丁を振り下ろす。
「…やめろ、やめてくれ」
気がつけば彼が目の前にいて、私へと手を伸ばしていた。
私は震える手で、切先を彼に向ける。
「あきら」
包丁を握る私の手を、彼の暖かい手が覆った。振り払おうと力任せに腕を振るが、彼はそのまま私を抱きしめた。
「……う…」
耳元で唸り声をあげ、私を抱きしめる腕に力を込めた。
訳が分からず、私は混乱した頭で彼の腹部に刺さった包丁の柄を震える手で握っていた。
頭の中は真っ白で、何も考えることができない。
「ごめん、ごめんな」
宥めるような声と優しく頭を撫でられ、 初めて出会った時の事を思い出した。
ああ、彼は私が可哀想だから優しくしたんだ。
彼は誰にでも優しくて、私はそれを特別だと勘違いしていた。
でもその優しさに救われたから、私は、俺はここにいるんだ。
ぽろぽろと涙が溢れ、彼の肩を濡らす。
「……っ…せん、せ……ごめん…」
「落ち着け、俺は大丈夫だから」
彼が私から腕をほどき、向き直って頬に触れた。本当に彼は何ともなさそうな表情をしている。しかし、下を向くと血溜まりが出来ていて何故これで平気な顔が出来るのか意味が分からなかった。
はやくどうにかしないと彼が死んでしまう。焦りは思考をめちゃくちゃにしていく。
どうにかしないといけないのに、どうすればいいのか何も分からず、ただ視界が歪むばかりだった。
「っ…」
彼が腹に刺さった包丁を自ら抜いた。一瞬眉間に皺を寄せたが、それだけだった。
その時、私は信じられないものを目にした。
瞬く間に傷が治ったのだ。
深かったはずの傷口が、最初から何も無かったかのように綺麗さっぱり無くなっている。
「ほら、大丈夫だって言ったろ」
彼はそう言って、混乱したままの私の頭をわしゃわしゃと撫でた。
彼は、普通の人間ではなかった。年を取らないのか容姿は全く変わらないし、怪我も瞬時に治る。もしかしたら、私が思っている以上に彼は長い時を生きてきたのかもしれない。
彼は滅多に自分のことを話さない。私がいくら聞こうとも、上手く誤魔化されてしまう。でも、そんな彼の過去を少しだけ知れたことがあった。
私がまだ子供の頃の時の事。彼のアトリエに入り彼が描いた様々な絵を鑑賞していると、ひとつの絵に目が止まった。普段風景ばかり描く彼が、人物を描いてることに驚いたのだ。
「先生これ誰?」
「ああ、それは…」
絵を瞳に映した彼は、そっと笑みを浮かべた。
「一緒に旅をした仲間、かな」
「旅?」
「2人で世界中を旅してたんだ。今は、もう居ないがな」
どこか寂しそうな表情をする彼に、私は更に質問を投げかける。
「どうして? 」
「…分からない。気がついたら、どこかに消えてしまっていたんだ 」
「なにそれ、酷いやつだね」
私がそう言うと、彼は声をあげて笑いだした。
「はは、そうだな。本当に酷いやつだった 」
笑っているのにその目には涙が滲んでいる。
「…何も告げずに居なくなったあいつの事を、俺はまだ信じたいと思っている。ずっと、戻って来てくれるのを待ってるんだ」
愛おしそうに彼は絵に触れる。
私はその絵の中の人物が羨ましいと思った。
今思えば、それは私の欲しいものを全て持っていた。妖艶な雰囲気のある綺麗な顔立ちは、彼の隣に並んでも霞むことはないだろうし、何よりも彼に愛されているのが羨ましかった。
「あの絵を、彼はいつも愛おしそうに見つめていた。私はあの絵が嫌いだった。何度も燃やしてしまおうかと考えたが、彼が1番大切にしているものを奪ってしまえば嫌われるんじゃないかと怖くて何もできなかった」
店主の話はまるでひとつの物語のようで、簡単に信じられる話ではない。だが嘘をついてるいるようには見えず、僕の直感がこれは真実だと告げていた。
パチリと、店主と目があった。深い皺が刻まれた顔が僕を見た途端、不愉快というように歪んだ。
「彼は私を選んでくれなかったが、それでも彼は私を大切に思ってくれていた。幸せだったよ。お前が、現れるまでは 」
「…は」
「お前はあの絵にそっくりだ。憎たらしいほど似ている」
似ているだけで、何だというんだ。僕は『彼』について何も知らないというのに。
いや、確かに僕は知っている、知っているはずだ。
なのにどうして、何も思い出せない?
僕は思考を巡らせる。何かがおかしくて、言葉に表せない違和感を感じるのにそれが何なのかは分からない。
大切なことを、忘れている。
考えて、考えて、それが1つにまとまった時、 僕は椅子から立ち上がった。それは僅か数分にも満たない時間だった。
「…話の続きはまた今度にしよう」
何かを言おうとした店主に背を向け、僕は何かに追われるように外に出ると、沈みかけていく夕日に向かって駆け出した。
コメント
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もしや…?海…?なのか!?分からんけど、楽しみに待ってます!ゆっくりと…