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「死にたい君に、依存する。」出会い編②
春の日差しが、子ども福祉施設の廊下に影を落としていた。高校二年生になった若井は、使い古されたモップを動かしながら、床の掃除に精を出していた。高一の頃、自宅から近いところで働きたいという単純な理由で始めたアルバイトだったが、慌ただしくも充実した日々を送っていた。
「若井」
背後から先輩職員の声が響き、手を止めて振り返る。先輩の隣には、俯いたまま立つ同年代くらいの少年がいた。少し大きめのエプロンに身を包み、視線を床の一点に落としている。大人しそうで、どこか影のある雰囲気を纏っていた。
「今日から入る大森くん。お前、確か手話できたよな?」
「あ……はい」
「耳が聞こえないみたいだからさ。色々教えてあげてよ」
「分かりました」
若井の妹には難聴があるので、日常的な手話ならある程度扱えた。先輩の言葉に頷きつつ、チラリと少年の顔を覗き込む。一瞬だけ視線が交差したものの、少年は弾かれたように再び目を伏せてしまった。
「じゃ、よろしくな」
先輩はそれだけ言うと、スタスタと忙しなく廊下の奥へ去っていった。残された空間に、静まり返った気まずい時間が流れる。
若井は胸の奥で返事をしてくれるだろうかと不安を抱えながら、指先を丁寧に動かして手話を紡いだ。
「初めまして」
少年はゆっくりと顔を上げると、同じように手話で応えた。
「初めまして」
滑らかな返答に少し安堵した若井は、胸に手を当てて笑みを浮かべた。
「僕、若井っていいます」
少年はオドオドとした上目遣いでこちらを見つめ、小さく首を縦に振るだけだった。名前を言い返してくれるのを待ってみたが、沈黙が続くので、仕方なくこちらから問いかける。
「えっと、お名前って……?」
「ぁ、…大森…元貴です…」
控えめに、彼は名前を教えてくれた。若井は脳内で復唱しながら頷く。
「これから仕事のことは俺が伝えることになったので、よろしくお願いします」
「よろしくお願いします……」
伏せがちな瞳と小さく縮こまった背中。まるで小動物のように怯えている姿を見て、若井の心に「大丈夫かな、一緒に上手くやっていけるかな」という一抹の不安がよぎる。
ふと見ると、元貴はポケットから小さなメモ帳を取り出し、何かを素早く書き留めていた。まだ業務の説明すら始めていないのに何をメモすることがあるのだろうと不思議に思いつつも、若井は努めて明るく声をかけた。
「えーっと、とりあえず控え室行きましょう」
そう促すと、元貴はメモ帳を閉じ、コクリと頷いた。若井が歩き出すと、その数歩後ろをちょこちょことついてくる。歩幅を緩め、振り返りながら尋ねた。
「ここの施設は来たことありますか?」
「小さいときに……ちょっとだけ……」
「あー、そうなんですね」
短いやり取りの後、再び沈黙が訪れる。気まずさを抱えたまま廊下を進み、ようやく控え室のドアを開けた。
「まず、来たら出勤カードをここにスキャンしてください」
そう言って機械を指さしながら動作してみせると、元貴は真剣な眼差しで見つめる。
「ぁ、はい……カードを、スキャン……」
「そしたら、この名札を首にかけてください」
「名札……分かりました」
「名札入れはここの棚にあるので、ここから自分のを取ってください」
「たな、……分かりました」
元貴は頷くと、またしてもメモ帳を開き、真面目な顔つきでペンを走らせ始めた。
さっきから気になっていたが、指示をひとつ出すたびに細かくメモを取っている。そこまで熱心に書き留めなくても大丈夫なのにと思いながら、若井はその小さな背中を不思議そうに見つめていた。
メモを取り終わったのを確認し、若井は再び話し出す。
「仕事内容は、基本的に部屋の掃除とかプレイルームの整頓、書類の整理とか、雑用がメインです」
「…………」
元貴は小さく頷きながら言葉を受け止め、メモ帳にペンを走らせる。その手元をちらりと覗き込むと、平仮名が多めの歪な文字が並んでいた。お世辞にも綺麗とは言えない字だったが、一字一字を一生懸命に書き留めている。真面目なんだな、と若井は胸の奥でぼんやり思った。
しかし、それから日を追うごとに、元貴が先輩職員に怒られる場面が増えていった。
「大森くん!!」
鋭い声とともに、五十代ほどの女性の先輩の手が元貴の肩をバシッと強く叩く。ビクッと体を震わせ、驚いた表情で振り返る元貴。
「あ……そんなに強く……」
見かねた若井が口を挟もうとしたが、先輩の勢いを止める隙はなかった。
「ねぇこれ何回も言ってるよね!?明日来る子のおやつはピンクの袋!これ今日の子と混ざってるんだけど!」
「ぁ、あ……ぅ、……」
元貴は先輩のまくし立てる顔を見つめながら、今にも泣き出しそうに身を縮めた。何か酷く怒られていることだけは伝わっているものの、口の動きや表情だけでは何を言われているのかまで読み取れていない。怯えたように肩を揺らしている。
「っ、ちょっとすいません、俺が伝えます」
若井は二人の間に滑り込み、背中で先輩の圧を遮ると、元貴の視線に合わせて丁寧に手を動かした。
「明日のおやつはピンクの袋に入れてね。今日のおやつと混ざっていたみたいだから、一緒に分け直そう」
手話の内容を理解した瞬間、元貴の表情がサッと青ざめた。
「あ……すみません、すみませんっ、」
元貴は何度も何度も頭を下げた。見ていて痛々しいほどに何度も体を折り曲げて謝る姿を、若井はただ静かに見守るしかなかった。
子どものおやつを仕分けするキッチンに戻ってくると、静まり返った部屋に押し殺したような小さな声が響き始めた。
「ぅ、う、……っ、ぅえ、」
こらえきれなくなった元貴の目から、大きな涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。若井は何と声をかければいいのか分からず、立ち尽くしてしまった。ちらっと横目で見ると、元貴は涙で視界を濡らしながらも、必死に指先を動かしておやつの袋を仕分けしている。
「あの」
トントン、と元貴の肩を優しく叩く。振り向いたその顔は真っ赤に腫れ上がり、頬には幾筋もの涙がはっきりと伝っていた。
「そんな……落ち込まなくてもいいですよ。あの人いつもあんな感じなんで」
若井は気持ちを和らげようと言葉をかける。だが、元貴の涙は収まらない。
「すみません、すみませんっ、ぼくが、うまくできないからっ」
言葉を詰まらせながら、何度も頭を下げ続ける。
「だからそんな謝らなくても」
「すみませんすみませんっ」
怯えたように肩をすくめ、ボロボロと涙を流しながら謝罪を繰り返す元貴。その痛々しい姿に、若井は困惑し、かける言葉を必死に探す。
少し考えたあと、頭を下げ続ける元貴の前に、そっと屈んで顔を覗き込んだ。目線を低くし、怯える彼の視線を優しく受け止める。
「落ち着いて。大丈夫だから」
ゆっくりと、大きく手を動かす。
「俺も最初は怒られてばっかりだったよ。あの人の教え方、すっごい分かりにくいし」
若井が少しおどけたように眉を下げてみせると、元貴の手がぴたりと止まった。しゃくりあげながら、赤い目で若井をじっと見つめ返す。
「……ほんと、ですか……?」
「ほんとほんと。だから大森さんが悪いわけじゃないよ」
若井は仕分け台の上に散らばったおやつの袋を手に取った。
「ピンクの袋が明日で、青い袋が今日。俺がピンクの方に入れるから、青いのをお願いできる?」
「……っ、はい……」
元貴は袖でガシガシと涙を拭うと、まだ少し震える手でおやつの袋を手に取った。二人で並んで作業を進めると、あっという間に仕分けは終わった。
「もうできた」
若井が親指を立ててみせると、元貴の顔にほんのり安堵の色が浮かんだ。すると元貴はまたポケットからあの小さなメモ帳を取り出した。ページを開き、何かを書き留める。その様子を眺めていた若井は、ふと気になっていたことを尋ねた。
「ずっとメモ取ってるけど、なに書いてるの?」
元貴はまたビクッと肩を跳ねさせ、メモ帳を隠すように胸に抱え込んだ。
「あ……すみません…っ…」
「怒ってないよ。単純に気になっただけ。見せたくないなら無理にはいいけど」
「……ちが、えっと……」
元貴は躊躇しながらも、ゆっくりとメモ帳を若井の方へ差し出した。開かれたページには、業務の手順や施設で働く職員の名前が細かく書かれていた。それはもう、書く必要がないと思うほど些細なことまで。
『きたら、カードをピッてする。なふだ、首にかける。たなのなか、ちゃいろのたな』
『わかいさん おしえてくれるひと』
そして、その隅っこには、小さな字でこう書かれていた。
『ごめんなさいを言う』
『めいわくかけない』
「……みなさんが言ってること、わからないこともあって……」
目を伏せたまま、ぽつりぽつりと話し出す。
「教えてくれたことも、すぐ覚えられないから……だから、忘れないように……書いておかないと、また怒られちゃうから……」
その言葉を聞いた瞬間、若井の胸がぎゅっと締め付けられた。
彼が初めオドオドしていたのも、何度も謝っていたのも、今まで何度も理由が分からないまま怒られてきたのだろうなと思った。細かくメモをするのも、彼なりの生きる術なのだろう。
「大森くん」
若井は彼の痛みを優しく包み込むように、ゆっくりと言葉を渡す。
「俺がいるときは、なんでも聞いて。他の人が言ってることも、全部俺が伝えるから」
元貴は目を見開き、若井の顔をじっと見つめた。やがて、その瞳にじわじわと温かい涙が溜まっていく。
「……ほんとに……?」
「ほんと。約束する」
若井が力強く頷くと、元貴は今日初めて顔をほころばせて小さく笑った。
「……ありがとうございます……若井さん」
安心したように笑う元貴の様子に、若井の心もじんわりと温かくなっていった。
コメント
5件
待ってました!更新ありがとうございます。続き楽しみにしてます!
更新ありがとうございます😭 出会いはこんな感じだったのか🥲元貴くんのひらがな多めで沢山メモを取ってるところジーンときました、生きるためにできることをしてる元貴くん、偉くて切なくて苦しいです😭そんな中優しく接してくれる若井さんに安心してるのがとても好きです🥹 続き楽しみにしていますꈍ ꈍ♡
第17話読みました…元貴くんのメモ帳に「ごめんなさいを言う」「めいわくかけない」って書いてあったところ、すごく胸に刺さりました。理由もわからず怒られ続けてきたんだろうなって想像すると切なくなる。でも若井さんの「俺が伝えるから」って手話は、本当に救いでした。耳が聞こえないってだけでこんなに生きづらさがあるんだなって、改めて考えさせられる回でした…。続きがすごく気になります🌙