「……10or11」
その掠れた呟きは、果たして届いたのか―――。
とうとう余力が底を尽き、首に巻きついた手を剥がすことさえ出来なくなった。
(俺は、ここで)
(全部俺が、悪かったのか)
(産まれてきたことから)
(全て――)
目の焦点が合わず、瞼が光を失いそうな瞳を隠す。
(ああ)
(もう、)
「……えっ….。きゃあっ!!?」
母親の甲高い、素っ頓狂な悲鳴が響いた刹那――。
彼の首に伸びていた手が剥がれ、締められていた気道に空気が一気に流れ込む。
「っ――!?ゲホッ…..っア”っ!!!ガハッ…..!!あっ….エ”ホッ」
突然の空気の流入に大きく咳き込み、それでいて何とか肺に酸素を取り込もうと、また咳き込む。
「エ”ア”っ…..ヴっ」
気が動転し、何が何だか分からないまま床に手を付く。
収まらない咳に対して、胸に強烈な圧迫感を覚えながら、苦しむ。
目も開けられないほどに。
締められていた時とは別の苦痛に涙を浮かべながら、彼はなんとか一命を取り留めることが出来た。
対して、母は第三者の介入により、完全に取り乱していた。
「なんなのあなた!!」
「どっから入ってきたの!!?」
「出てってよ!!」
「誰よ!!!」
「警察呼ぶわよ!!?」
――まるで自分が完全なる正義のように、後暗いことなど何一つないかの如く『誰か』を批難し続けている。
「是非、そうしてください」
「まあ、この場合困るのは、おそらく貴女ですけどね」
丁寧な口調とは裏腹の言葉。
明るく、しかし怒りが込められた声。
おそらく、『誰か』のもの。
ようやく目を開けることが出来た彼は、この時初めて、動転しながらも周囲の状況を確認することが出来た。
物が散乱した、いつものリビング。
閉め切られたカーテン。薄暗い室内。
首を絞めていた母は、今は自分の目の前に背を向けてへたり込み、後ろから見て分かるほどに動揺し、怯えている。
母の目の前には、見知らぬ青年。
喚く母を無言で見下ろしていた。
白髪に、紫の瞳、茶色のベスト。
いつ、どうやって入ってきたのか分からない彼。
鍵は閉まっていたのではなかったか。
状況を把握するのに、かなりの時間を要した。
そして理解した。
彼こそ、噂のあの人。『雑誌の人』。
合言葉で自分を助けに来てくれたのだと。
「っのぶ……!!信っ!助け…….」
今まで自分のしてきたことを忘れ、母は自分に縋り、助けを求めてくる。
目の前の青年が怖い。
何するの?自分を殺す?なんで?
自分だけでも助かりたい。
そんな浅はかな考えが、手に取るように分かる。
どこまでも自己中心的な母。
目先の感情に囚われ、母親らしいことなど1つもしてくれなかった母。
「お願いっ…….」
「産んであげたんだからっ」
「少しは親孝行しなさいっ……!!!」
「助けてよ!!!!」
この言葉を聞いた瞬間。
彼は、母親に対する何かが完全に崩壊する音を聞いた。
「往生際の悪い。助けてもらいたかったのは、彼の方でしょう」
そう言い放った青年の顔は、僅かに曇っていた。
殺人未遂の容疑で警察に連行される間、彼女はずっと暴れていた。
「信!!産んであげた恩を忘れたの!!?」
と、ずっと叫んでいた。
――そんな母を見ながら、様々な感情が思い起こされる。
今まで、母をどこかで信じたいと思っていた自分。
見てくれるなら、と沢山母のために働いた。
産んでくれた恩だって感じていた。
感じなければならないと思っていた。
母親からの愛情が欲しかった。
――でも。
それも、もう終わり。
信はなんの感情もない瞳で一瞥したあと、二度と彼女の方を見ることはなかった。
気が動転しているであろう信に気を利かせ、警察はまず青年に事情を聞いた。
様々なことを聞かれたが、1番疑問だったのが
「なぜここにいたのか」
というもの。
彼は、「たまたま近くを通りかかった」とだけ答えた。
ただ、その説明では納得しないのが人間というもの。
警察ならば尚更だ。
すると、警察の1人が「あっ!!」と何かに気づいたような声をあげた。
「あんた、この前の通り魔の時の人じゃないか!?」
どうやら、あの時にいた警察の1人らしい。
隣町には警察署が無く、紅葉町と管轄が同じなのだ。
まさか同じ警察がいるとは。
「2度もこんな場面に居合わせるのは不自然じゃないか?何者だ?」と疑念の目を向けられる。
「僕は―――」
「彼は僕の叔父なんです!」
咄嗟に口をついて出た言葉。しかし、こうなったら止まらない。
「僕、母に虐待されていて」
「前から叔父に相談していたんです」
「たまに電話とかメールとかして」
「バレるとまずいので、携帯の履歴は全て消してるんですけど」
「今日、心配した叔父がたまたま見に来てくれて」
「それで……」
嘘をつくと人間は早口になり、情報量が多くなる。
しかし、そんなことを気にする余裕などない。
「ほ、ほう。そうなのか?」
「ええ。連絡がいきなり途切れたので」
「心配になり来てみたのです」
「そしたら中から声が聞こえていて」
「鍵も空いていたので、勝手ながら入らせてもらいました」
「後は、先程お話した通りです」
「そ、うなのか」
「ご苦労だったな」
「恐縮です」
鍵だって閉まっていた。
第一、声が外に漏れるなど有り得ない。
しかし、とても自然に、信の嘘に合わせる青年。
まるで、全て事実であるかのように。
どれほど経っただろう。
現場を見終えた警察がみな引き上げ、家には青年と信、2人が残された。
先に口を開いたのは信だった。
「あの、ありがとうございました」
助けてもらったこと、嘘に合わせてもらったこと。
この言葉には両方が込められていた。
「いえいえ。当然のことをしたまでです」
そういう青年は、先程から部屋全体を見渡しては、とても曇った表情を浮かべている。
そして、目の前の信を見るなり、心配そうな表情を浮かべた。
――この時、青年の脳内にはある光景が蘇っていた。
今この状況に似た光景。
とても既視感のある、昔の記憶。
その光景を振り払うように、彼は頭を左右に振り、口を開く。
「では、握手してくれますか?」
「……?握手ですか?」
「えっと」
「助けてもらったお礼とか、なにか」
「いえ」
「僕は握手だけでいいんです」
てっきり金品など、価値のある物を要求されるかと思った信は、あまりの驚きに目を見張った。
「ほんとに、それだけでいいんですか」
「はい」
そう言うと、紫の手袋を外し、手を差し出してくる。
青年に対する疑問は沢山ある。今すぐにでも聞きたい。
しかしそれ以上に、あまりにも簡単な頼みに疑念を抱いた。
でも、助けてもらった。
そう思い、信はそれに従うことにした。
――ギュッ
「っ!?」
漏れそうになる声を何とか抑える。
冷たい。
冷たすぎる。
まるで氷を掴んでいるみたいだ。
溢れ出るそれらの言葉を全て飲み込む。
「ありがとうございました」
「では、僕はこれで」
青年は背を向け、玄関に向かおうとする。
―――次の瞬間、信は
「俺も一緒に連れてってください!!」
と、生まれて初めての、自分でも驚く『お願い』をした。
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