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赤羽美琴がグラスを置いたとき、青い瞳の女の指が止まった。
(……思い出しかけてるわね)
「貴女の中の“何か”が……私を、まだ手放していない」
美琴の瞳がわずかに揺れる。
「……どういう意味?」
燈はその問いに答えず、棚の奥から黒い瓶を取り出す。
「これは、貴女にしか飲めないワイン。昔、私が初めて味わった味よ」
「昔……?」
「ええ、忘れたかしら?でも当然かもしれない。だって貴女は“私”を捨てたんだから」
その言葉に、美琴の手が止まった。
——脳裏を走る、古びた手帳のページ。
ポートマフィア時代、己の異能を封じるために訪れた“ある場所”。
(まさか……あのときの)
燈の瞳が、美琴を刺すように見つめていた。
「私が誰か、もう思い出してるんでしょう?」
「……あなた……“燈”っ……」
燈の唇が、わずかに歪む。
「“蒼原 燈”。それが今の私。でも本当は、貴女が棄てた“力”の名前——」
美琴の胸の奥に、冷たい何かが差し込む。
(異能が、具現化して……?)
「……そんなこと……」
「太宰治には私のこと、きっと思い出せないわ。彼は異能を無効にする。彼、私に会っても何も言わなかったもの」
静かに、しかし確実に、燈は言葉を重ねる。
「でもね、美琴。私は、ずっと見ていたのよ。彼が、貴女に笑いかけるのを」
その声音は、まるで氷が砕ける寸前の音のようだった。
「私は、ずっと彼の隣にいたかった。ずっと……」
美琴の手から、カードが滑り落ちる。
——その瞬間、店内の照明がふっと落ち、沈黙が襲った。
「……貴女が来たことで、物語はもう止まらない」
燈が片手を振ると、ワインボトルがゆっくりと空中に浮かび、色を変え始めた。
闇の中、ボトルの中の液体が、赤から青へ、青から黒へと変化する。
「忘れてはいけないわ。私は貴女の中に生まれたもの」
「太宰を救いたいと願った貴女が、力を捨てることで私を“産み落とした”」
「貴女が彼を守る限り、私は……彼を奪いたくてたまらないの」
美琴の瞳が、赤く、強く揺れる。
そして、——記憶が断片的に蘇る。
雨の夜、銃声。
崩れ落ちた彼の体。
異能力によって護った命。
そして、代償として“何か”を切り離した感覚——
(それが……“燈”)
燈が近づく。
「だから来たのよ、今夜。もう一度、貴女に選ばせるために」
「“彼を守る力”を、再び受け入れるかどうか」
「そして——私を、殺すかどうか」
「だから来たのよ、今夜。もう一度、貴女に選ばせるために」
「“彼を守る力”を、再び受け入れるかどうか」
「そして——私を、殺すかどうか」
ぼんやりとした視界の向こう、声だけがはっきりと響いてくる。
まぶたが重くて、意識がふわふわと浮いていく。
それでも美琴は、必死に眠気をこらえて、その言葉に耳を傾けていた。
(……なに、言ってるの…)
頭の中が霞んで、考えがまとまらない。
それでも心の奥で、何か大切なものを問いかけられていることだけは分かった。
(私が……選ぶ? “力”……? そして……この人を……?)
答えなきゃ。
でも、瞼が……もう、持たない——
美琴は、かすかに眉を寄せながら、そっと眠りに落ちた。
「……ふふ、少しの間だけ、眠っていてちょうだいね。 懐かしい夢を見せてあげる。忘れたつもりでも、ちゃんと覚えてるはずよ――あの痛みも、あの選択も。
私がどれだけ苦しかったか……少しは、わかってもらわないとね?」
同時刻探偵社にてーーーーー
太宰は煙草を落とし、空を見上げていた。
その胸に、不思議なざわめきがあった。
(何かが起きてる……あの店で)
思い出せない。なのに、なぜかその名が喉まで出かかっている。
『——燈』
「……燈?」
呟いた瞬間、胸の奥で熱が走った。
記憶には存在しない。だが感覚はある。匂いも、声も、悲しみも——
太宰の掌が、微かに震えた。
そして、風が吹いた。
それは、誰かが名前を呼んだような、静かな夜風だった。
太宰はゆっくりと踵を返す。
(会わなきゃならない。あの場所へ——)
カラン、カラン……
冷たい鈴の音。
蒼原燈の動きが止まる。
店の空気が凍りついたように静まり返った。
——そこに立っていたのは、太宰治だった。
彼は一歩、店内に足を踏み入れる。
蒼原燈が、ゆっくりと太宰を見る。
店内の空気が、かすかに揺らいだ。
まるで、物語の結末が近づいているかのように。