テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
一杏へ。
あなたがまだ何も知らなかった頃の話をします。
あなたが生まれてからしばらくの間、
家は、表向きには何も変わりませんでした。
父も母もいて、
使用人たちも変わらず働いていて、
食卓には決まった時間に料理が並びました。
――ただ、
少しずつ、音が減っていったのです。
父の足音は、
以前よりも早足になりました。
母の声は、
必要なことしか口にしなくなりました。
私はまだ小さくて、
それを「おかしい」と言葉にできませんでしたが、
空気が変わったことだけは、
はっきりと感じていました。
あなたは、
相変わらずよく笑う子でしたね。
抱き上げると、
まるで安心したみたいに、
小さく息を吐いて、
私の胸元に顔をうずめる。
その重さが、
あまりにも軽くて、
私は時々、不安になりました。
――ちゃんと、
この子はここにいるのかな、って。
父は、
家にいる時間が減っていきました。
「仕事が忙しい」
そう言って、
食事の途中で席を立つことが増え、
帰りが遅くなるたび、
母の表情は少しずつ硬くなっていきました。
母は、
何も言いませんでした。
言わないことが、
彼女なりの強さだったのだと思います。
でも、
強さは、
時々、人を孤独にします。
ある日、
私は、廊下の向こうから低い声を聞きました。
父と母が、
話してにました。
喧嘩、
というほど大きなものではありません。
声を荒らげることもなく、
物が壊れる音もしませんでした。
ただ、
言葉が、
少しずつ、鋭くなっていた。
「……君は、わかっていない」
「わかっていないのは、あなたの方でしょう」
その間に、
沈黙が落ちるたび、
私は息を止めました。
あなたは、
その時も、
私の腕の中で静かにしていましたね。
まるで、
何かを察しているみたいに。
その夜、
父は私たちに
いつもより長く声をかけました。
「娘雨」
「一杏」
あなたはまだ、
名前を呼ばれても、
意味なんてわからなかったはずなのに、
不思議と、父の方を見た。
――あれは、
別れの挨拶だったのでしょうか。
次の日から、
母は、
仕事の話をよくするようになりました。
宝生家の娘として、
やるべきこと。
果たすべき責任。
それは正しくて、
間違ってはいなかった。
でも、
その言葉は、
私たちに向けられたものではありませんでした。
あなたは、
執事に抱かれる時間が増えました。
私は、
一人で過ごす時間が増えました。
それでも、
生活は困らなかった。
食べ物はあり、
服は新しく、
屋敷は変わらず立派でした。
――だからこそ、
誰も気づかなかったのです。
家が、
もう、
「帰る場所」ではなくなり始めていたことに。
一杏、
あなたは、
この頃から、
よく笑うようになりましたね。
泣く代わりに、
笑う。
空気が重たくなるほど、
あなたは、
明るい表情を見せるようになった。
そのたびに、
大人たちは言いました。
「いい子ね」
「空気が読めるわ」
「助かるわ」
私は、
それを聞いて、
少しだけ、
胸がざわつきました。
でも、
何も言いませんでした。
姉なのに。
気づいていたのに。
雨の日に生まれた宝物。
あなたはこの頃から、
少しずつ、
“期待に応える子”になっていった。
それが、
生き延びるための方法だと、
無意識に知っていたみたいに。
……この先を書くと、
胸が苦しくなります。
でも、
書かなくてはいけませんね。
これは、
あなたが
光を選ぶ前の話。
そして、
私が
影に慣れていった頃の話です。