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空気が止まる。
ラベルを見たままの壱道に、江崎は長い睫毛を強調するようにゆっくり顔をあげると呟いた。
「彼のことで来たのでしょう」
答えず壱道が手を伸ばすと、制するようにグラスを僅かに引く。
「これを飲んだら、今日はお帰りください。
ここはあくまでお酒と癒しの時間を提供する場所です。
あなた方がいたのでは、お客様の中には気分を害される方もいます。
話は明日以降、日の出ている内に昇る時間に伺いますから」
「悪いが待てない。ここが嫌なら、今から松が岬署まで同行願おう」
「お断りします。お客様がいらっしゃいますので」
隣にいたボーイがピクリと反応した気がしたが、琴子が目を向けるとカウンターの男女と会話を続けている。
「逆に営業妨害で訴えますよ」
笑顔のまま静かに言う。
「明日ここに来てください。私の話せる内容はすべてお話しますから」
「今夜あんたが高跳びしないか、見張るのが面倒なんだよ」
「はは」
言いながら江崎が吹き出す。
「なぜ私が逃げなければならないんです。何もしていないのに」
「なら今話せ、全部」
「あなたたちがどんな内容を求めているのかはわからないが、私は彼の死に何も関わってはいない」
壱道が江崎を見据える。
「じゃあ、なぜ聞かない。俺たちが捜査をしている理由を。報道では自殺と言っていたはずだ」
江崎も目付きが変わる。
「あんたは少なくても、櫻井秀人は自殺じゃないかもしれない。
自殺じゃなかったら、自分が疑われる可能性がある。
近々刑事がここにくるかもしれない。そう思ってたんじゃないのか」
江崎はまほろばの郷に目を落としながら言った。
「失礼しました。あまり時間を置くと香りが飛びますね。どうぞ召し上がりください」
音をたてずに酒が壱道の前に置かれる。それを手に持つと、江崎を睨んだまま、半分ほど飲み干す。
「あいにく酒は弱くない。足掻いてないでさっさと話してもらおう」
「そんなつもりはありません。希少なワインなのでもったいないと思っただけですよ」
その顔は先程の微笑にもどっていた。
「確かに、明日改めて時間をとるのも、お互いにとって無駄なことだ。すべて話しましょう。そのワインが空になる頃には終わります」
「彼の作品を見に行ったのがきっかけで、展覧会で話を聞き、少しだけ自分の話をしました。
そうしたら、彼が興味をもって店を訪ねてくれました。
それからの私と彼は、あくまで飲み屋の主人と客だった。彼はここの雰囲気と酒が好きで、私はたまたま彼が満足できる空間を提供していた。それだけですよ」
彼は壱道と琴子を交互に見た。
「他の客とのトラブルもないが、特に仲良く話していた記憶もない。
彼はただカウンターに座り、ゆっくり酒をのみ、少し酔うと帰っていく。
そんな感じでした。
定期的に訪れ、問題も起こさずに高い酒ばかり頼んでくれる。
悪い言い方をすれば上客でしたよ。ですが」
江崎の表情が微かに曇る。
「忙しくなったのか、はたまた飽きてしまったのか、年末から突然来なくなった。
それ以降、彼がどんな生活をしてたのか私には知り得ないし、なぜ死んだのかも皆目検討もつかない」
視線を再び挙げると、自虐的なため息をついた。
「これが私たちの全てです」
「表面上はな」
「随分ぶしつけだなぁ。警察の方とこうして話す機会は初めてですが、みなさんこんな感じなのですか?」
静かに笑う。
彼の優しい物腰が、裏表がないように見えるし、全て演技にも思える。
どっちだ。
「私には隠すほどの話はありません」
「ではなぜ、蓮の花を隠した」
「蓮?ああ、ガラスケースの?見てたんですか。どうやら刑事さんの目には、私の行動は全て意味のある怪しい行動に映るようだ。隠してなんかないですよ。そろそろ夏仕様に少しずつ店のレイアウトを変えていこうかと思っただけです」
壱道が身を引き、椅子の肘掛けに体重を預け足を組む。
「店名に反して、花の知識は明るくないんだな。蓮は夏の花だ」
江崎の目の色が変わる。
「そんなに気になるならお持ちしますけど」
カツカツと靴音を立てながら江崎がボーイの後ろをすり抜け、下の棚をごそごそ漁る。
またボーイがちらりとこちらを見る。
今度はハッキリと、琴子を通り越して壱道を睨んでいる。
江崎が戻る。ゴトリという音で見た目以上に重量があるとわかる。
ピンク色の樹脂でできた置物で、下に敷物がついている。
それを見下ろす壱道が口を開いた。
「本来蓮は、花びらの大きさが等しく、その形状から中央の花びらが一番高い位置にきて、端にいくにつれて山なりに低くなる。
だがこのオブジェは逆だな」
掌を上に向け指を折る。
「天を向いてまるでなにかを受け止める手のような形をしている」
その手を握る。
「出せよ。オーブ。あるんだろ」
そうか。壱道がこの蓮にこだわった理由は、この上に乗っていたであろうオーブを見ていたから。
「確かに」江崎が顔をあげる。
「刑事さんの読み通り、ありましたよ、オーブ。彼がこの店を気に入って、プレゼントしてくれたんです。
ただ彼が来なくなってからすぐ自宅へ持って帰ったんですよ」
「櫻井が来なくなって見るのも辛いからか?」
「そんなロマンチックな理由じゃありません」
眉を下げて笑う。
「私たちは見ての通り安定した商売とは程遠い。聞けば咲楽先生のオーブといったら、土地つきの一軒家が手にはいるほどだと言う人もいる。
人生の担保に大事に持っていようと思っただけですよ」
「ではなぜ蓮を隠そうとした」
「あらぬ疑いをかけられると面倒だと思いまして」
そこで先程の男女が立ち上がった。ボーイが勘定をしている。いつの間にか背広姿の中年男はいない。
女の方が少々心配そうに振り返る。
「マスター、またね」
カランカランとドアが閉まり、店には奥のテーブル席に座る老夫婦と、琴子たちだけになった。
「それで、何を疑われたくなかったんだって?」
「あなたには隠そうとすればするほど、逆効果なのはよくわかりました。全て話しましょう」
江崎は意を決したように、静かに言い放った。
「私と彼との関係について、です」