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第4節 千崎雪絵『この子の前で泣かないために』―5―
(――私は……それでもやっぱりこの子と、一緒にいたい)
その想いが、胸の奥で揺らぐ。
そして。
「……パパね」
静かに、言い聞かせるように。
「……ママより、大事にしたい人がいるの」
そう、言った。
半分は嘘で、半分は本当だった。
雪絵は最初から分かっていた。
雄二が、自分を心から愛することはないと。
それでも婚姻を望んだのは、他ならぬ自分だ。
跡継ぎを得ることと引き換えに、愛人との関係を黙認する――そんな歪な約束を、雄二と自分に課した。
けれど。
もし、この子の名にまで、その面影が滲んでいなかったなら、雪絵はもっと長く自分を騙していられたのかもしれない。
子どもに関することだけは、絶対に侵してはならない領域だと――雄二も分かってくれていると信じていた。
そこを踏みにじられたと気づいたとき、何かが音もなく崩れたのだ。
終わったはずの感情が、胸の奥底へ沈んだまま消えずに残る。
澱のように溜まり、やがて黒く濁っていく。
(……どうして)
胸の奥で、声にならない問いが渦巻く。
(この子に、やってはいけないことをしたくせに……どうして帰ってこないの)
もし雄二が、愛人の名から名付けた〝百香〟を、心から慈しんでくれたなら。
そのおこぼれで、自分もまた大切にされていると――そう思い込めたかもしれない。
だが、現実は違った。
雄二は百香からのメッセージにも、報いてくれなかった。
だからこそ、別れようと決めた。
これは、雪絵一人の過ちではない。
そうでなければ、あまりにも報われない。
雄二には悪いけれど、百香と一緒にいるために、全責任を彼に被ってもらおうと思った。
卑怯なことは百も承知だ。
でも、百香を失わないためならとことん悪女になろうと思った。
百香は、しばらく雪絵を見つめていた。
何かを量るように、静かに。
やがて、小さくつぶやいた。
「……そっか。パパのせい……なんだね……」
その一言が、ひどく重かった。
「……百香ちゃん」
その場の空気を変えるように、佳代が口を開く。
「こっちで少し休みましょうか」
「……でも」
「大丈夫。お母さんもすぐに来るから」
泣きそうな顔をした百香に、佳代が優しく手を差し伸べる。
百香は一瞬だけ雪絵を見た。
雪絵は、静かに頷いた。
「……行ってらっしゃい」
百香は、佳代に手を引かれて部屋を出ていった。
その背中が、扉の向こうに消える。
静寂が、戻る。
しばらくの静寂を挟んで、了道がゆっくりと口を開いた。
「……千崎に、百香を渡す気はねぇんだな?」
問いのようでいて、問いではなかった。
雪絵の覚悟を図る、確認だった。
雪絵は、わずかに目を伏せる。
「……はい」
それ以外の答えは、なかった。
「……なら」
了道の声が、さらに低くなる。
「……さっきのまんま、あいつに全部背負わせろ。百香の前じゃあ、もう決して揺れるな」
空気が、重く沈む。
#極道
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#シングルマザー
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#御曹司
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「……そのくらいの覚悟がねぇなら、最初から嘘なんてつくもんじゃねぇ」
はっきりと、言い切られた。
雪絵の胸が、強く締め付けられる。
――分かっている。
それが、どういうことか。
百香にとって、父親は――母を捨てた〝最低な男〟に。
そうして自分は、そんな夫を一途に愛した可哀想な女――〝守られる側〟になる。
それを、選ぶのだと。
「……千崎はきっと、お前が選択したことを覆すような、器の小さい男じゃねぇ」
了道が、続ける。
「……最初の一手はお前が打ったんだ。千崎をとことん悪者にしろ」
その言葉は、冷たく、現実的だった。
情ではなく、理で動く男の声。
「……けどな」
そこで、わずかに間が落ちる。
了道の視線が、真っ直ぐに雪絵を射抜いた。
「……千崎と別れたい本当の理由は、それじゃねぇだろ」
雪絵の呼吸が、一瞬だけ止まる。
「……あいつに女がいることなんざ、今さらだ。最初から分かってたはずだろうがよ」
言葉を継がせないように、淡々と続けられる。
「……それを認める代わりに、子を為す権利は自分に。――そういう話で、あいつと所帯を持ったはずだ」
図星だった。
否定の言葉が、出てこない。
コメント
2件
理由、ちゃんと言えるかな。
うわあ、このエピソード、すごく重くて胸が締め付けられました……。雪絵さんの「半分は嘘で半分は本当」という気持ち、痛いほど伝わってきます。了道さんの「最初の一手はお前が打ったんだ」という現実的な言葉も、優しさなのか冷酷さなのか、複雑でした。百香ちゃんの「パパのせいなんだね」が、子どもながらに全部飲み込もうとしてる感じで泣けますね。