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午前三時。世界の輪郭が最も曖昧になる時間だ。
ボーダー本部の一室、個人の私物と機材が雑然と並ぶ窓際で、冬島慎次はすっかり冷え切ったマグカップを両手で包んでいた。中身は数時間前に淹れたきりのブラックコーヒーだ。今やただの苦い泥水のようになっているが、口を付ける気にもなれず、ただ指先を温めるためだけの道具として機能している。(……静かだな)
窓ガラスに額を押し当てるようにして見下ろす三門市の夜景は、ぽつり、ぽつりと街灯が灯るだけで、まるで巨大な精密機械が完全にシステムをスリープさせたかのようだった。
数時間前まで、この街のどこかでネイバーが暴れ、自分たちがそれを迎撃していた。その事実すら、夜の闇は等しく塗り潰して隠してしまう。防衛任務明けの、この張り詰めた緊張が弛緩していく時間帯が、冬島は嫌いではなかった。
冬島は視線をぼんやりと外に向けたまま、とりとめもない思考に身を任せていた。 頭の中に浮かぶのは、自身の操るスイッチプレースの軌道だ。立体的な座標軸。チェスの盤面のように冷徹で、けれど一歩間違えれば味方を窮地に陥れる、あの張り詰めたトラップのネットワーク。
エンジニアとしての視点と、現場の特殊工作兵としての視点。その両方をせわしなく行き来する昼間の脳が、この時間だけは、メトロノームの速度を極限まで落としたように緩やかに揺れている。
「冬島さん、また徹夜ですか。寝ないと明日、国近にゲームでボコボコにされても知りませんよ」
ふと、昨日の夕方、作戦室を出る際に当真が残していった軽口が耳の奥で再生された。
当真のやつは、今頃泥のように眠っているだろう。狙撃手のあいつは、引き金を引く瞬間に全ての感覚を爆発させる。だからこそ、オフの切り替えが早い。
それに比べて自分は、どうにも「仕掛け」をずるずると引きずってしまう性質だ。どこに何を配置すれば、最も美しく、最も効率的に敵を嵌められるか。その思考の残滓が、煙のように脳の隅々にこびりついて離れない。 窓ガラスに、自分の薄い人影が映っている。
寝不足のせいで少し弛んだ目元。酷く無防備で、およそ防衛組織のトップチームに属する人間の顔には見えない。
(生身の身体は、どうしてこうも重いんだろうな)
トリオン体に換装している間は、疲労も眠気も、すべて均一なエネルギーの波に書き換えられてしまう。痛みすらも実感を伴わない。だが、こうして生身に戻り、夜気に晒されていると、自分がただの三十路手前の男であることを嫌でも思い出させられる。じわじわと肩に蓄積する凝りや、乾燥した喉の渇き。それらが酷く愛おしく、同時に酷く煩わしい。
ふと、記憶の底からいつかどこかで聴いた古い旋律が浮上してくる。 言葉にならない旋律が、頭の中で静かにステップを踏むように流れていた。
現実と非現実の境目が溶け出した、この時間特有の感覚。それはまるで、まだ見たこともない、あるいはとうに忘れてしまった遠い世界の香りが、部屋の隅々に満ちていくような錯覚さえ覚えさせる。
「あー……、またやってるな、これ」
時計を見なくてもわかる。脳が過覚醒を起こしているときの、特有の静けさだ。
冬島は諦めたように息を吐き、机の上に置いたノートPCの画面に目をやった。画面の隅では、遠征艇のシステムプログラムのデバッグ画面が、規則正しく文字を羅列し続けている。
「冬島さーん、ここのコード、ちょっと見てほしいんだけど」
今度は、技術開発室でよく聞くエンジニア仲間の声が脳裏を過る。
ボーダーの技術は、日々進歩している。それは自分たちの命を守るためであり、同時に、この街の「日常」を守るためだ。自分が夜を徹して考えているこのトラップのロジック一つで、次の防衛戦の被害が数パーセント減るかもしれない。そう思うと、どうしても思考のスイッチを切るタイミングを見失ってしまう。
けれど、当真や国近は、そんな自分の「生真面目な引きずり癖」を見抜いているのだろう。
「冬島さんは考えすぎ。もっと適当に弾を撃つみたいに生きてくださいよ」
「そうだよー、冬島さん。ゲームのときはあんなにいやらしい罠張るのに、私生活だとすぐフリーズするんだから」
二人の声が重なって聞こえた気がして、冬島は小さく苦笑した。
確かに、実戦でもゲームでも、自分の役割は場をコントロールすることだ。しかし、自分の睡眠時間と脳の覚醒具合だけは、どうにもコントロールが利かないらしい。
ふと、窓の外の景色に違和感を覚えた。
さっきまで、三門市の街並みを均一に覆っていた濃紺のベール。それが、ほんの少しだけ、本当にわずかだけ、底の方からめくれ上がるようにして、淡い群青色へと変化している。
「……嘘だろ」
冬島は身を乗り出すようにして窓の外を凝視した。
夜の帳が、足元から音もなく剥がれ落ちていく。ビルの隙間、遠くの地平線のあたりが、薄いピンク色を帯びた白へと移り変わっていくのが見えた。
ぼんやりと考え事をしていたせいで、時間の感覚が完全に吹き飛んでいた。
数分、あるいは十数分だと思っていた時間は、現実には数時間という単位で静かに、しかし確実に流れていたのだ。
気づけば、空は完全に朝を迎えようとしている。街のあちこちで、始発の電車の音がかすかに響き始める時間だ。
「やべ……、完全にやらかした」
冬島は急に現実へと引き戻され、慌ててマグカップを机に置いた。カツン、と乾いた音が、それまで部屋を支配していた静寂を乱暴に切り裂く。
今から寝ても、確保できる睡眠時間はせいぜい三、四時間。このまま徹夜で押し通すという選択肢も一瞬頭をよぎったが、自分の年齢を考えれば、ここで無理をすれば午後からの遠征艇のメンテナンス作業や、あるいは国近たちとの作戦会議に致命的な支障が出るのは目に見えている。脳がまともに働かなくなったトラップラーほど、戦場で役に立たないものはない。
急ぎ足でベッドへと向かい、分厚い掛け布団を頭から被った。
カーテンの隙間からは、容赦なく差し込み始める、新しく、白い光が床を照らしている。
目蓋を閉じても、網膜にはさっきまで見ていた朝焼けの、あの切ないほどのグラデーションが焼き付いて離れなかった。どこか現実味のない、白々と明けていく世界の残像。
明日、絶対に「冬島さん、また徹夜したでしょ。目が死んでますよ」と突っ込まれる未来を予感しながら、誰に届くわけでもない毒突きを心の中で呟く。
掛け布団の中に満ちる、自分の体温と、まだ残っている微かなコーヒーの匂い。
冬島は、その現実の重みに身を委ねるようにして、急速に心地よい微睡みの泥の中へと沈んでいった。
コメント
2件
お久しぶりです、なんと1ヶ月ぶりの浮上…(; ̫;) 11月が終わるまで予定がかなり立て込んでいるのでしばらくまた無浮上です、余裕があれば何かしら載せる予定なのでその時はよろしくお願いしますт т
さんまさん、第1話読ませていただきました…! 冬島さん、また徹夜しちゃったんですね(苦笑)。任務明けの張りつめた空気が解けていく時間帯の描写がとても繊細で、夜の闇から朝焼けへ移り変わる風景が目に浮かぶようでした。当真さんや国近さんとの関係性もチラリと見えて、仲間に見抜かれている「生真面目な引きずり癖」に思わず頬が緩みます。あの古い旋律のイメージも素敵でした🌷