「|朝陽《あさひ》さん、この女をどうします? このまま警察に突き出しましょうか」
耳元で大きな声を出すのは止めて欲しい、きっと|神楽《かぐら》 朝陽にも充分聞こえてると思うし。だけどそんな私の考えを見透かしたように、眼鏡のレンズ越しの瞳が細められたことに気付いた。
……多分この男は絶対に性格が悪い、普段あまり役に立たない直感がそう伝えてくる。
「そうだな、せっかくだから俺にこんな挨拶をしてくれた理由を聞いておくのも有りかな。恨みを買う事は珍しくないが、この俺に直接的な攻撃をしてくる女性は稀だから」
「ですが、朝陽様……」
有無を言わせない目付き、とはこういうのを言うのだろうか? スタイリッシュな眼鏡の奥の瞳は、切れ長でそれだけで相手を圧する強さがあった。
婚約破棄されたことで感情的になってここまで来たが、喧嘩を売る相手を間違えてしまった気もする。だけど……
「アナタの所為でしょう? アナタが【階級別社員雇用システム】なんて訳の分からない計画を立てるから、私は|流《ながれ》に婚約破棄されたのに」
「……なんの話だ、それは?」
私の言葉に神楽 朝陽は首を傾げて見せた。後ろの取り巻き立ちも同様に、彼とポーズをとって見せるからちょっと鬱陶しい。でも、計画を立てたであろう本人が知らないってどういう事?
「流、とは?」
「|守里《もりさと》 流、彼は営業部のエースで……」
急に自信が無くなって、どんどん小さくなっていく私の声を彼は聞き逃さない。
「営業部のエース、|守里《もりさと》 |《ながれ》流だそうだ。知っているか、|濃野《のの》?」
「ああ、あの有名な守里ですか……?」
有名と言われて何となくホッとした、やはり流はこの会社で優秀な社員で間違ってなかったのだと。だけど、そう話しかけた男性の表情が苦虫を噛み潰したようなものだったことに不安も感じていて。
それを誤魔化すために、必要以上に強気な態度に出る。そんなことしても私が拘束されている事に変わりはないのだが。
「そうよ、その守里 流! 彼をクビにするなんて、貴方どうかしてるんじゃないの?」
「おい、そうなのか?」
|神楽《かぐら》 |朝陽《あさひ》はそんなこと初めて知った、と言わんばかりにさっきの男性にその事実を確かめている。どうなっているの? 流は確かにこの人の所為で、自分は神楽グループをクビになると私に話したのに……
何かが嚙み合わない、そう気付いた時にはもう遅かった。私がとった行動が元カレの流にとって予想外だなんて思いもしてなかったから。
「守里 流は営業部でも有名ですよ、万年営業成績最下位の給料泥棒だと。それにとても女癖が悪い、取引相手の奥さんにまで手を出した事があるという噂もありましたし」
「流が、営業成績最下位? 取引先の奥さんに手を出していた……って、え?」
……何それ? 私はそんな話、流から一度だって聞いてない。
「それに……あの方の遊び相手の一人でもありますしね」
「へえ、そうなのか」
取り巻きの男性の言葉にさして興味がないというように返事をした|神楽《かぐら》 |朝陽《あさひ》だったが、私はほんの一瞬だけ彼が眉を寄せたのを見逃さなかった。でも、あの方いうのは……?
いいえ、そんなことはどうだっていい。今ちゃんとハッキリさせなければならないのは、元カレの流のことに変わりない。今の話が本当なのならば、私の婚約破棄は何のためだったというのか?
「で、でも! |流《ながれ》は貴方の決めた計画でクビになるから、私とは結婚できないって……!」
「そんなこと俺が知るわけないだろう? おおかた、浮気相手に子供でも出来たってところじゃないのか」
そんなことを平気そうな顔で言われて、体中の血液が沸騰するかと思った。他人事なのは仕方ない。でも冗談とかではなく彼はそれを一つの可能性として、流の元婚約者である私に話してくるのだ。
自分にとってはどうでもいい事だ、と言わんばかりに。
「一つだけ、きちんと説明しておく。俺は【階級別社員雇用システム】なんてものは計画していないし、神楽グループは徹底した実力主義の雇用システムだ。その男がクビになるのなら、それはただの努力不足だろう」
「そんな……」
ずっと流は私に自分は一流企業のエリートだと話していた。結婚して二人で幸せな家庭を作ろうって言葉も、裏が疑うとなく信じて。だから………
そこで私はとても大事なことを忘れていたことに気付いた。
「そうよ! 二人で貯めてたはずの結婚資金、あれはどうなったの?」
「は? 俺が知るかよ」
べつに|神楽《かぐら》 |朝陽《あさひ》に聞いたわけではないのに、勝手にそんな不機嫌な返事をされても困る。でもそんなこと気にしてられる状況ではなくて、私はバックの中からスマホを取り出して急いで指で操作する。
毎月五万という金額を|流《ながれ》に渡していた、彼がきちんと貯めてくれると約束したから。でも別れるときに流はその事について一言も話さなかったし、お金も返してもらってない。
私たちが付き合った期間は長く、少なくとも私が渡した金額だけで数百万にはなっている筈なのに。
だけど……
『おかけになった電話番号は――――番号をお確かめになって――』
「……嘘?」
昨日別れたばかりなのに、流はすでにスマホを解約していた。彼の仕事先はここだし、アパートの場所だって知ってるから会おうと思えば見つけ出せるだろう。
だが私を避けるためだけにスマホを解約されたことがとてもショックだった。
「おい? どうした、大丈夫か?」
「……ばない。大丈夫じゃない、どうして?」
スマホを持ったまま呆然としている私に、神楽 朝陽が声をかけてくるがそれもどこか遠くて。ただ流に嘘をつかれて連絡さえ拒否されたという事実が、受け止めきれなかった。
だけど、悪い事は何度も続くもので……
「本当だって! もう別れたんだ、|鵜野宮《うのみや》さんもこれで俺の本気を分かってくれるだろ?」
「ふふふ、それはどうかしらね?」
社員通路からロビーへと若い二人の男女が歩いてくる。その声には嫌という程、聞き覚えがあって……
「|流《ながれ》……?」
美人で品のある女性の隣を歩いているのは、元婚約者の|守里《もりさと》 流だった。彼は私がここにいる事にも気付きもせず、横にいるキャリアウーマンと言った感じの美女に話しかけていた。
「もう別れた」「俺の本気」とは? クビになるから、私と結婚出来ない。だから別れて欲しいって、流は私にそう言ったよね? 頭の中が混乱する、流の言葉と今の彼の言動は全く一致してなくて。
「……へえ、あれが守里 流か。どこがいいんだ、あんな男の?」
「…………」
|神楽《かぐら》 |朝陽《あさひ》の嫌味な問いかけに応えるような余裕も今はない、ただ目の前の現実を理解するので精一杯で。
「しかし、隣にいるのは|鵜野宮《うのみや》 |梨乃佳《りのか》か。まさか、高嶺の花と呼ばれる彼女があんな男を相手するとはな」
「あんなのは、梨乃佳様の遊び相手に過ぎないでしょう」
神楽 朝陽の呟きに、取り巻きの一人がすかさずフォローを入れる。それが鵜野宮 梨乃佳という女性に対してなのか、それとも神楽に対してのフォローなのかがよく分からなかったが。
そもそも今の私には他人の事を気にしている余裕などない。だが、この状態を流に見られたくもない。なのに、神様はどこまでも残酷で……
「あら? 何かあったのかしら」
「え? ああ、なんか人が集まって……ん? もしかして、あれは|鈴凪《すずな》?」
「|流《ながれ》君の知り合いなの?」
|鵜野宮《うのみや》と呼ばれた女性が、彼に笑顔でそう訊ねる。その呼び方に、二人の親密さを感じてどうしようもなく胸がざわついた。だけどそんな私に、蔑むような視線を向けた流は信じられない事を言った。
「いえ、昔の知人に似てた気がしただけで。あんなみっともない女と知り合いなわけがない、さあ行きましょう鵜野宮さん」
「そう? ふふふ、流君の元恋人だったりするんじゃないの?」
「まさか! 俺は鵜野宮さん一筋ですよ」
そう言って笑いながら、私から離れていく流。決して振り向くこともなく、彼はその女性と共に建物の外へと出て行ってしまった。
嫌でも気付かさせられる、流からの一方的な婚約破棄の本当の理由。すぐに解約されたスマホ、渡したお金はきっともう返ってこないのだろう。
付き合った期間は決して短くなかったはずなのに、私は流にとってそれだけの存在だったんだ。
言葉を失いガックリと項垂れる、さっきまで負けるものかと抵抗していたのにそんな気持ちも全部なくなってしまった。
「おい、彼女を離してやれ」
「え、ですが……」
「もういい、俺が直接その女と話をするから」
私の傍で|神楽《かぐら》 |朝陽《あさひ》が取り巻きの男たちと何かを話しているが、言葉全部が通り過ぎていくみたいで。
その場で呆然としていた私を彼が強引にその場から連れ出すまで、何も出来ないでいた。
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