コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
十時になると、さっき、私を来客室まで案内してくれた綺麗な女性が、ドアを開けて部屋の中に入ってきた。
そして、私たちの前に立つと「はーい。それじゃあ。今日から三日間の職場体験よろしくお願いします。二人には、この三日間、保育現場に入ってもらいます」と、挨拶をした。
私が「よろしくお願いします」と、頭を下げると彼も頭を下げている。
てっきり、もっと礼儀のなってないやつかと思ったのに、知らない人の前ではしっかりやれるやつなのだろうか。
そうは見えないけど。
「それじゃあ、まずは自己紹介からしようか。私の名前は川口理依奈です。この、かえでのは保育園で保育士をやっていて、今日から、あなたたちの保育実習担当です。わからないことがあったら、なんでも聞いてね。みんなには理依奈先生って呼ばれてるの、よろしくね」
理依奈先生が柔らかい笑顔で微笑んだ。ミルクラテ色のボブヘアに、芸能人のように整ったその顔にはぱっちり二重な瞼、薄いピンクの潤んだ唇、すらっとした白い腕を後ろに組んで、首を少し曲げて、ピンクの可愛いエプロンをしていてもスタイルの良さがわかる。
女性の私から見ても、理依奈先生は本当に綺麗で仕草の一つ一つまでが可愛い。
「椿朝陽です。将来は、保育士志望です。三日間よろしくお願いします」と、私が自己紹介をすると、次に「蘇轍月です。社会勉強のために保育園に来ました。よろしくお願いします」と、緊張気味の声で自己紹介をする、彼の頬がほんのり桃色になっていることに気づく。
学校では不良のくせに、ここでは形無しだな思うと笑えてきた。
「お、お前、笑ってんじゃねえ」と、彼が言ってきたので「あんたが、理依奈先生にデレデレしてるからでしょ」と言い返す。
「そんなんじゃねえよ。もともと話すのが得意じゃねんだよ」と、彼の顔がもっと赤くなる。
「こらこら、二人とも、保育園では、お前やあんた呼びは禁止!ちゃんとお互い名前で呼び合ってね。子どもたちが真似しちゃう」と、理依奈先生が私たちを制した。
そして、更衣室で体操服とエプロンに着替えてから、保育実習が始まった。
私たち三日間入るのは、理依奈先生が受け持つ四歳児クラス。
保育室内に入ると、ブロックのおもちゃでお城を作ってる男の子たち、おままごとをやってる女の子たち。あとは、パズルをやったり、絵本を読んでいる子がちらほらいて、常に子どもたちの声でワイワイと活気付いている。
これが保育園の日常なんだ。いよいよ、私がやりたかった保育実習が始まる。と、私は胸を弾ませた。
早速、ブロックをやっている男の子たちと、おままごをやっている女の子たちで、場所の取り合いでケンカが始まった。
「ここは、おままごとの場所って最初から決まってた!勝手に使わないで」と、女の子一人があっかんべーをする。
男の子の一人が「言うこと聞かないなら、殴ってやる!」と言って拳を振り上げた、その時。
さっきまで、私の隣にいた理依奈先生がいつの間にか、男の子の隣にいて、拳を掴んで止める。
そして、「殴っても、健太君の気持ちは伝わらない。ちゃんとお話して気持ちを伝えよう」と、健太君の目を見て言った。
拳を止められて、しゅんと肩を落とす健太君に「大丈夫だよ。理依奈先生が、一緒に健太君が気持ちを伝えるの、手伝ってあげる」と、理依奈先生が微笑む。
「理依奈先生、ありがとう」と、健太君の顔がぱっと明るくなった。
そのあと理依奈先生が、男の子たちと女の子たちの間に入って仲裁をし、結局、遊ぶ場所は交代で使うと約束して、ケンカは解決した。
理依奈先生は、綺麗で仕草の一つ一つも可愛くて、優しい。
保育の仕事もスマートで、私はすでに理依奈先生を憧れの眼差しで見ている。
私もあんな保育園の先生になりたい。と、心の中で思った。
しかし、理想は所詮、理想。
現実の私はこんなものだ。
子どもたちの、午前の遊び時間が終わって、部屋を片付けて、これから給食の準備に取り掛かろうという時に、事件は起きた。
「あ、俺が頑張って作ったブロックの城がないっ。取っとこうと思ったのにっ」と、健太君が騒ぎ出す。
私はすぐにしまった。と、気づく。
そのブロックのお城は、これから給食だから、片付ければいいと思って、私が片付けてしまったのだ。
そして、ブロックのおもちゃ入れの箱の中に、自分が作ったブロックのお城がバラバラにされて入っているのを見つけた健太君は、べそをかいて激怒をする。
「誰だよ。壊したやつ、お前かっ」と、周りの子どもたちに怒りだしたので、流石に黙っていてはダメだと、「ごめんね。健太君、みんなは悪くないの。もう給食の時間だから、私が間違えて片付けてしまったの」と、正直に誤った。
すると「お姉ちゃんなんて大っ嫌い!もう明日から来ないで!」と、言われてしまった。
子どものいうことだから、と思いつつ、正直、私の心には鋭利な刃物のように刺さる。
委員長としてクラスをまとめられない私。助けてもらったのに謝れない私。張りぼてで、偽善者で、弱くて、人の役にも立てない使えない私。
健太君に否定されたことが引き金で、最近、心につっかえていた、嫌なことを走馬灯のように思い出してしまった。
目に涙が溜まって溢れそうになる。
それでも、私はとにかく子どもの前では泣かないと決めていた。
桜舞公園で、迷子の男の子に、私が焦った表情をした時、すぐに私の心の焦りが伝わってしまって、迷子の男の子を不安にさせてしまった失敗があるからだ。
こんな時、どうすれば良いのだろう。
悠さんは、迷子の男の子に対し、最初に「大丈夫だよ」と言った。
さっきの理依奈さんも、健太君に対し「大丈夫だよ。理依奈が一緒に健太君が気持ちを伝えるの、手伝ってあげる」と言った。
第一声が、必ず、子どもを安心させる言葉なのだ。
私も、二人の真似をして「大丈夫だよ」と、自分の顔に笑顔を貼り付けて健太君に言ってみる。
すると、「何が、大丈夫なんだよ!バラバラに壊れてるじゃん!お姉ちゃん作り方わかるの?」と、怒れてしまい、あっさり私は撃沈した。
そのあとも、健太君は、私と喋らないどころか、目も合わせてくれなくなった。
休憩時間。
さっきの来客室で、私はお弁当箱を開いた。
全く食欲がない。頭の中で、私は結局ダメなやつなんだ。と嫌なことばかりを考えてしまう。
すると、その時。
「朝陽、大丈夫か?弁当食わねえの?」
そう声をかけられ、頭を上げると、月君が自分の弁当を食べながら、私の顔をじろりと見ている。
「名前で、呼ばないでくれる?」と、言って私は俯いて唇を噛む。
「なんでだよ。理依奈先生もそうしろって言ってたじゃん、俺が名前を呼ぶととムカつくってこと?」
「そうじゃなくて。私は自分の名前が嫌いなの!」と、吐き捨てるように言った。
「なんでだよ」と、月君は首を傾げる。
「私は、私には相応しくない朝陽なんて名前が嫌いなの」
少し間が空いたあと、「でも、お前は朝陽だよ」と、悪気のなさそうな、すっとぼけた顔をして彼が言った。
あぁ、そうか、わかった。こいつはバカなんだ。人が言われて嫌で、言わないでほしいと頼んでいるのに、理由も説明したのに通じないのだ。
不良で、自分勝手で、強いだけで、顔が良いから、みんなにもチヤホヤされて、それが蘇轍月なのだ。
やっぱり、私はこいつが本当に嫌い。
「もう、呼び方なんてどうでもいいから勝手にして」と、私は諦めて肩を落とす。
「俺の名前も呼び捨てで、月でいい。そのほうが堅苦しくないし」
「じゃー、そうする」と、私は心なく返事をした。
休憩時間が終わって、午後の保育実習が始まる。
私は、健太君に諦めずに話しかけるが、結局、その日はろくに口も聞いてもらえなかった。