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「逃げ場のない距離」
朝の光の中、私は廊下を磨いていた。
静かな屋敷に、布を滑らせる音だけが響く。
――はずだった、のに。
ya「……またこんなとこで一人で働いてんの?」
その声を聞いた瞬間、心臓がぎゅっと縮む。
et「ya……様……」
ya「“様”つけなくていいって言ってるじゃん。
何回言わせんの、et?」
呆れたような、でもどこか楽しんでるような声。
振り向く前から、彼が近づいてくる足音が胸を焦らせる。
et「す、すみません……」
ya「謝んなくていいよ。どうせ直らないでしょ?」
そう言いながら、彼は屈んでこちらの手元を覗き込む。
距離が、近い。
顔を上げたら、息が当たりそうなくらい。
ya「今日も頑張ってるじゃん。……可愛いね?」
et「っ……あ、ありがとうございます……」
褒めてるようで、完全にからかっている声。
でも、その“可愛い”の言い方だけが妙にリアルで、胸が熱くなる。
ya「ねぇ、ちょっと手、見せて。」
言われるまま手を出すと、彼は私の指をそっと取った。
細く触れるだけなのに、手首まで痺れる。
ya「……冷たくなってんじゃん。」
et「大丈夫です……」
ya「大丈夫じゃないでしょ?ほら。」
彼の手が私の手を包み込む。
じわっと伝わる体温に、思わず指が震えた。
それを感じ取った瞬間、彼の目が細く笑う。
ya「震えてんじゃん。」
et「ち、違……っ」
ya「違わないでしょ?」
言い返せない。
こんな近さで見つめられたら、呼吸の仕方すら忘れてしまう。
ya「……ねぇ、et。」
et「はい……」
ya「逃げようとしても、逃げられない距離だよ?」
その言葉の意味を理解するより早く、
腰に腕が回されて引き寄せられた。
et「きゃ……っ」
ya「ほら、もう捕まった。」
耳元に落ちる声が、甘いのにぞくっとする。
心臓が煩いほど跳ねているのを、彼の胸に伝わってしまっている。
ya「……ねぇ、et。
俺に触られてるの、嫌?」
et「そ、そんなこと……!」
ya「じゃあ、好き?」
et「っ……!!」
言葉に詰まると、彼はすぐに口の端を上げた。
ya「やっぱ図星じゃん。」
et「ち、違います……っ」
ya「違わないでしょ?顔赤いよ?」
et「っ……!」
嘘はつけない。
彼に見られると、全部見透かされてしまう。
ya「でもさ――」
腰を抱いていた手が、ゆっくり背中を撫でる。
ya「俺は“etが俺に惚れてる顔”が、いちばん好き。」
et「ふぇっ……!?そ、そんな……」
ya「そんなの、分かってるでしょ?」
彼の声が耳元でやわらかく落ちるたび、
足元まで熱が降りていく。
ya「なぁ、et。」
et「……はい……」
ya「今日くらい、俺のことだけ見てれば?」
et「……いつも、見てます……」
言ってから、ハッとして口を押さえた。
しかしもう遅い。
彼の目が一瞬、危ういほど嬉しそうに揺れる。
ya「……へぇ。
言うじゃん。」
腰を引き寄せる腕の力が、さっきよりも強くなる。
ya「じゃあ……離さない理由、できたね。」
その声に、全身が熱くなる。
逃げられない。
だけど……逃げたいなんて、思わない。
――気づけば私は、彼の胸板にしがみついていた。
そんな私を、彼は満足そうに抱きしめたまま、
小さくこんな言葉を落とした。
ya「俺のメイドは……俺から離れないでしょ?」
その囁きに心を奪われたまま、
私はただ、名前を呼ぶことしかできなかった。