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「これは牧野さま、お早い到着で」
黒川さんがすっと起立し、会釈をした。
私も挨拶を返し、向かいのソファーに腰を下ろす。
朝倉くんの過去を知るには、この燕尾服を纏った黒川さんから話を聞くべきだと思った。
だから、内緒で連絡を取ったのだ。
「きっと牧野さまなら、ご連絡いただけると信じておりました」
黒川さんは恐縮したように言うけれど、私は少し呆れていた。
鞄からあの紙を取り出し、すっとテーブルの上に滑らせる。
「美麗さんの個人情報を、わざと置いていかれては困ります。これでは連絡せざるを得ませんよね」
用紙を確認した黒川さんは、ほくそ笑んだ。
やっぱり。
朝倉くんの説得に失敗した黒川さんが、私に助けを求めてきたのは明らかだった。
「その節は大変失礼いたしました。美麗さまをお止めしようにも、わたくしの力が及ばず、あのように押しかける形になってしまいました」
黒川さんが深く頭を下げる。
美麗さんの執事である以上、主人に従う立場だ。それは仕方がない。
「いいえ。担当のご指名については、私も歓迎しています。私も利益をいただく立場ですから。ただ……美麗さんを通さず、私に連絡先を教えて大丈夫なんですか?」
私は声をひそめた。
「わたくし個人は、祐二さまと牧野さまの関係を尊重しております。お二人の仲を引き裂くなど、本意ではないのですよ」
「そうなんですか? では、なぜこのようなことを?」
私は、美麗さんの薬剤情報提供書に視線を落とした。
「内容には目を通されましたか?」
黒川さんの目が途端に鋭くなる。
「……そのまま置いていかれましたから。黒川さん、これを私に見せるのが目的だったんですよね?」
「さようでございます。大変、不躾な対応ではございましたが、牧野さまなら、わたくしのメッセージを受け取ってくださると信じておりました」
黒川さんが再び深く頭を下げる。
私は複雑な気持ちになった。
その紙を見たせいで、朝倉くんと美麗さんの間にある闇を、知りたいと思ってしまったのだから。
小さく息を吐く。
「内容が……見過ごせませんでした。美麗さんは、何か問題を抱えているのですか?」
核心を突く問いに、黒川さんは一瞬、口を閉ざした。
そして、思い詰めたような表情を浮かべる。
「……美麗さまは、年を重ねられ、弱気になられることが増えました。しかし、これまでの積み重ねもあり、祐二さまに素直に頼ることができないのです」
「鳳凰ホテルの経営の件ですか? 兄が継いでいると聞いていますが」
確か、後藤社長の前で朝倉くんはそう言っていたはずだ。
夏目莉央
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くま🐻☁️
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「実は、兄の貴浩さまが胃潰瘍で入院され、事実上、トップが空席となっているのです」
「胃潰瘍……ストレスですか?」
「ええ……貴浩さまは穏やかで賢いお方です。しかし、美麗さまが事あるごとに貴浩さまの経営手腕に疑問を投げかけるので、ついには心身症を発症し、体調を崩されました」
黒川さんの表情が硬くなり、視線が落ちる。
「美麗さんは、なぜ経営者にならないのですか? ご主人が亡くなったあと、事業を引き継いだ実績があるのに」
「……あの時は突然の出来事でございました。鳳凰ホテルの従業員たちのためにも、美麗さまが朝倉家を守るしかなかったのです。だからこそ、祐二さまをご出産されたあとも、休むことなく働き続けました。それは、それはご立派なものでした」
黒川さんは俯き、涙ぐんだ。
当時を知る執事は、さまざまな苦労を目にしてきたのだろう。
黒川さんは、朝倉くんも知らない過去を見てきた数少ない人間なのだ。
朝倉くんが教えてくれた、父親と愛人の事故死。
美麗さんは相当なショックを受けたはずなのに、その直後に事業を引き継いだ。
継いだ事業はいずれ息子に譲るつもりだったのだろう。
そのために、美麗さんは何かを犠牲にしながら走り続けたのかもしれない。
ふと、両親に代わって李人を育てていた頃の自分を思い出した。
恋愛、遊び、留学――。
自分の時間を自由に使える同級生たちを、いつも羨ましく思っていた。
だからこそ、私は美麗さんに感服してしまう。
「美麗さんは、仕事に集中するしかなかった。そのことで朝倉くんは自分が放置されたと思い、親子の間に溝ができてしまったんですね」
「否定はいたしません。あの頃の美麗さまにも事情があり、祐二さまも繊細な思春期でした。微力ながら、私や家政婦がご子息を支えてきたのです」
黒川さんは膝の上で拳を強く握りしめた。
「ですから、どうか牧野さまに親子の仲を取り持っていただきたいのです」
真剣な眼差しを向けられ、私は思わず目を逸らした。
(できることなら、なんでもやるつもり。でも、私に何ができる?)
「……とても言いにくいのですが、朝倉くんから、実家に帰る気は一切ないと言われてしまいました」
正直に伝えると、黒川さんの表情がさらに曇った。
「困ったものです。もう五年もご実家から離れたままです。美麗さまも、ここまで頑なに拒絶されるとは考えておられなかったでしょう」
「他に、私にできることはありませんか? 私も結婚の報告は、自分たちの口から直接、美麗さんに伝えたいと思っているんです」
思わず前のめりになる。
私も協力できることがあればしたい。
朝倉くんのためにも。
「牧野さま、もう一度、祐二さまにご実家へ戻るよう、ご説得いただけないでしょうか?」
黒川さんから、縋るような目で懇願された。
「彼の意志は強くて……了承してくれないんです」
私たちは困り果て、眉を下げた。
しばし、無言の時間が流れる。
すると、黒川さんが何かを思いついたように、机をバンッと叩いた。
「ああっ! 祐二さまがご実家に戻るであろう、いい案が思い浮かびましたぞっ!」
その勢いに驚いて、私はソファーの背もたれにのけぞってしまった。
「あ、案ってなんですか?」
黒川さんが身を寄せ、声をひそめる。
「祐二さまには、絶対に他人に見られたくない写真があるのですよ」
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