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「夢見心地」を辞書で引くとなんて書いてあるだろう。フク郎はふと、朝の日差しの眩い中思った。目が覚めたばかりでぼやけていた視界は時と共に明瞭になり、隣で寝息を立てるウイエが、昨夜のことなんて忘れてしまったようにいつもの寝顔で静かに転がっているのもはっきり見えるようになる。暖かな宿屋の布団の熱も、部屋の湿度も、未だ醒めないような、醒めてほしくないような身体中の火照りも鼓動も、全ては昨夜のもの。昨夜、までのもの。
その白昼夢のような、幸福の瞬間の全てを抱えたまま今日に来てしまった毛布から抜け出し、疑問のことをフク郎は調べに起きる。
夢見心地…知らないわけではない、まさに今の自分のような、過去の自分のような曖昧な言葉を、脳内で反芻し続ける。鮮やかな朝の薄日に目を向けようとそれは醒める気配がせず、本当に心地なのだと改めて理解する。
心地というのは元来長く残留するもので、それの残滓が少しでも残っていたらいい、なんて当然なような他人事じみた願いを、向かいに浮かぶ他人行儀な陽光へ祈ってみる。今だけは普段立ち留まっている心地のほどを、抱きしめてでも引き留めたいと思ってしまった。
「あなたさえ良ければ覚えていてほしい…なんて、許されないだろうか。」
ウイエと二人きりでいて、初めて出たといっていい言葉遣い。芯から出た本音が、骨を伝い、神経を伝い、フク郎を伝って今空気を震わせる。寂しいような望むようなその独白も、悠然と照らしている恒星へ、陽光へ吸い込まれ、取り込まれ。
胸の高鳴りにカーテンを弄んでいた手を添えれば、どくんどくんと弾けるそれに触れるような錯覚に陥る。その錯覚は、さほど昨晩と違いなんてなくて。私の中ではきっともうこれのみしかあの幸甚を覚えていないのか、と思うとフク郎は、そこはかとなく眉が曇るような気がした。
きい、と戸よりは弱いような、薄いような音をさせる窓を開ける。気晴らしとは結構突拍子もないことが多いが、それは慎重派で沼らしくないフク郎にも適用されるようだ。昨日閉めたときとは違う、少し結露したガラスに触れると、雪のような白が現れたと同時にぴかりとするような冷たさが走る。それで今までの夢見心地は、その指先を境に醒めていく。ああ、だめだ。これはだめだ。鮮やかな朝風に、全てが拐かされていく。ひらり舞うカーテンの気も知らず、気晴らしも早々に窓を閉めた。昨晩の温もりに囚われて、時期違いな温度を期待していたのかと思うと、フク郎は甚だ己がどこまでも愚者に思えた。
疑問はいまだ残っている。こんな気晴らしにもならなかったことに執着するよりは、そちらを片付けてしまおう。そうフク郎は自分に言い聞かせ、窓辺を離れた。…すこし、ベッドの側の花に足を留めて。ウイエでなく、花に足を留めて。
昨日と逆のことばかりしているな、とフク郎は冷えたドアノブに手を掛けながら思った。ベッドから起きて、窓を開けて、戸を開けて…ウイエ様から、距離をとって。寒々とした廊下で彼女は、ああ、ウイエ様こそが私の温もりの灯心だったのか、と、今更なようなことにたどり着く。今ウイエがいたなら、というタラレバはフク郎自身何度も考えたが、ここまで淡く考えたことはなかったような気がしている。冷えた指先、熱が引いていった頰。鼓動も徐々に死んでいき、平素へ戻っていく。エントロピーの増大とはこうもひどいものだったか…自然界の戯けた法則を、フク郎は唾棄した。
パタパタと芯が冷える寒い廊下を歩き抜けると、受付の大きな単眼のエネミーが端に映る。暇を持て余したように頭をもたげて、カウンターに置かれた雪のように真白い花を眺めている。こちらの気配にも、ずっとすぐそこの椅子に座っていた男性がいないのにも気づいていない様子だ。
こちらとしては好都合だったな、と意外なラッキーに少し頬をほころばせながら、カウンターのすぐ左隣に置いてある本棚を覗く。辞書はあっただろうか…昨日のデイ・ドリームに埋め尽くされた脳内をひっくり返して探すように、千差万別の個性ある本たちを眺めていた。
「早朝からお勉強かい? 感心なものだ。」
ぼんやり眺めていた視界がぐらりと揺れる。穏やかな低声とその暖かさで、それが誰かも、今の自身の顔がどうなっているかも、フク郎は理解せざるを得なかった。先ほどちらりと見たあの花のように白い腕をした宿泊客なんて、彼女しかいない。
「ウ、ウイエ様! 驚かせないでください…もう。」
早く振り返って抱きしめ返したいのと、今のひどい顔を心から敬愛する師匠…もとい、昨日抱かれたばかりの恋人に見せたくないというので、フク郎は致し方なく返事だけ返して振り解こうと片手を掛けた。ぎゅうっと抱きしめられた腹部には、ほんのり色がかかった暖かい腕がかかっている。そのままでいて欲しいけど、そうしてしまえばいよいよ脆弱に保たれていた師弟という関係性すらも崩壊してしまいそうで、彼女は弱々しい拒絶しかできなかった。
「そんなに驚くかい? そういうところも素敵だよ。」
フク郎の体をするする登っていく腕をまるで知らないように、ウイエは昨日のように軽口を叩く。剽軽なそれはあまり変化がないように聞こえて、その実やけに重みが増したようにフク郎には届いた。まさぐるように身体を撫で回す腕をぺちりと叩くと、彼女は絞り出すような、窓辺にあれば流れてしまいそうなか細い声で独白する。
「またそうやって殺し文句を…。」
「私以外には、あまり言わないようにしてくださいよ。」
その独白を無かったことにするように、フク郎は少し熱が引いてきた頬をしてちらりと振り向く。少し怒ったような顔は赤らんでいて、説得力を極限まで削ぎ落としていた。その赤らんだ頬を愛でるのを口実にするように、ウイエはそろりと腕を離す。
「君以外なんて眼中にないさ。全く、心配性だね。」
ウイエ自身、わかりやすい素直な人は好きな方だが、こうも素直だと騙されやすそうだ。少し心配になりながら、血色のよいまろい頬に手を添える。ふわふわ、もちもちというような感触だ。人は好きなものに似るらしいが、沼でもそうなのか…と、新たな学びにウイエは少し頬がほころぶ。
「ウイエ様がこうしたんですよ。」
むっとするようにそう言って、ぎゅむ、と音がするようにウイエの胸元へ顔を埋める。沼族らしいような秘められた筋力の安心感に若干の恍惚を覚えながら、フク郎はそろりと、その真白い胸元から滑らかな曲線の首を通り、にこやかな目と彼女自身と似たまろい口元に目を向ける。
「責任、取ってくれるんでしょう?」
自分ながらなかなかいじらしい目をしたとフク郎は自負する。数多の性愛文学やウイエの作品を嗜んできて、ウイエが、一般の人々が好むような顔は容易く思いつくようになっていたが故のいじらしさ。…滅多に開けない瞳できらりと見つめられたウイエにとっては、いじらしいどころでは無かったようだが。
「…はは、言うようになったじゃないか。」
柔らかなカーブのおとがいに手を当て、ウイエは困ったようにため息を吐く。どんぴしゃ、とか、クリティカルとか言えばいいんだろう。恥じらいだか、無自覚に染まった柔らかい桃色の頬に触れたくなる。でも、いまはだめ。今はぎゅっと、抱き締めていなければいけない。
「ウイエ様の一番弟子ですもの。」
純情に笑ったフク郎の手には、珍しく本じゃない大切なものが優しく握られていた。
結局、夢見心地という言葉は調べられなかった。
___ゆめみごこち【夢見心地】夢を見ている時の心持ち。夢を見ているような恍惚とした心持ち。夢心地。夢心。