テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
※Attention
こちらの作品はirxsのnmmn作品と
なっております
上記単語に見覚えのない方、
意味を知らない方は
ブラウザバックをお願いいたします
ご本人様とは全く関係ありません
【恋】
人を深く好きになり、
そばにいきたい、切ない、
または胸がドキドキすると感じる気持ち
不確かで、不安定で、
いつ変わるかわからない不思議な気持ち
だからか、よくわからなかった
『世界中を探しても見つからない』なんて
誰か言っていたっけ
そんな気持ちを
ずっと探していたんだ
恋人以上、初恋未満
「はーい、こっち見て!
そう!その表情いいね!かっこいいよー!」
ピピッピピッと、
プロ御用達カメラのシャッター音が鳴る
この場所は、都内有数のフォトスタジオ
今日は、再来月号のカラー特集ページを
任せてもらえることになり、
それを撮っているところ。
読者モデル──通称読モが
ここまで上り詰めることは珍しいらしい。
それでも、
俺はこの仕事が楽しいし、
せっかく依頼してくれるんだから、
全力で取り組みたい。
『何事も全力で』
それが今の俺のモットーだ。
「ショートドラマの主人公……?」
撮影が終わり、
帰る支度をしていたところで、
マネージャーさんに呼び止められた。
「えぇ。ないこくんにぜひって声が上がってね」
どうやら今度事務所がこの夏に制作する
ショートドラマの主人公役に出ないか、
という話らしい。
内容は王道の青春恋愛ドラマ。
あまり意識してこなかった隣の席の男子が、
実は人気モデルで。
ひょんなことからその秘密を知ってしまい、
そこからお忍び恋愛が始まる──。
なんというか、n番煎じ的なやつ。
相手役の方も、
今をときめく若手女優さんらしい。
そんなドラマの主人公が、俺……?
正直、現実味が沸かない。
「ほ、本当に俺なんですか……?」
おずおずと聞き返すと、
マネージャーさんはきょとんと
目を見開いてからくすりと笑った。
「な、何で笑うんですか!?」
「ふふ、ごめんなさいね。
いつも自信満々なないこくんなら、
すぐにOKしてくれる気がしてたから」
自信満々……?
俺って周りからそう見られてんの?
意外……いや、意外ではないか。
学校ではナルシだのなんだの
言われたりしてるてるし。……うん。
少し遠い目をして、
あの騒がしい奴らを思い出していると、
マネージャーさんは「それにね」と、
どこか確信を持ったように微笑んだ。
「ないこくん、ドラマ向いてそうだもの」
「え?」
思わず間の抜けた声が漏れる。
「絵になるし、人気もあるし」
マネージャーさんは一拍置いて、
優しく続ける。
「何より、努力家だから」
その一言に、
思わず目を瞬かせた。
「ないこくんは、
どんな仕事でも手を抜かないでしょう?
任されたことには真っすぐ向き合って、
納得いくまで頑張る。
そういうところを買ってくださってる方も
結構多いのよ?」
……そんな、ふうに、見てくれていたんだ。
俺のマネージャーさんは、
読モを始めた頃から一緒に歩んできた人で。
この世界のことを
右も左も分からなかった俺に、
一から教えてくれた恩人でもある。
だからこそ、
その人の口からそんな言葉を聞けたことが、
ただ、ただ嬉しくて。
気づけば──
「……そのお話、
受けさせてもらってもいいですか?」
──そんな言葉が口から出ていた。
「ねぇ、猫宮ってさぁ……恋愛したことあんの?」
件の話から数時間後。
マネージャーさんから台本を受け取り、
俺が向かったのは自分の家──ではなく、
その隣にある幼馴染の家だった。
昔から何度も行き来してきた場所。
玄関の位置も、
勝手知ったる廊下も、
階段の軋む場所だって覚えている。
突然訪れて驚くこともなく、
どうぞどうぞと部屋まで案内してくれた
おばさんもおばさんだ。
原因があるのであれば、
きっと俺だけのせいじゃない。
だから今さら緊張することもなく、
まだ部屋の主のいない部屋へ
いつものように上がり込み、
ベッドにもたれながら台本を眺めていた。
そんな俺を見下ろしながら、
この部屋の主であり、俺の幼馴染でもある猫宮は、呆れたように肩をすくめる。
「……んで?
お前はなんで俺の部屋でくつろいでるん?」
それに対して俺は、
台本から視線を戻すことなく口を動かした。
「だから言ってんじゃん。
猫宮は恋愛したことあんのって」
「答えになっとらんわ」
「んぇ?」
マネージャーさんに背中を押され、
勢いのまま引き受けたこのドラマ。
もちろん演技の勉強にもなるし、
主人公なんて滅多にないチャンスだ。
しかし、そこには一つだけ、
大きな問題があった。
それは、
俺に恋愛経験がないことである。
……いや、だって!!
そりゃ、モテはするよ!?!?
うん、それなりには!!!
こういう仕事をしてるわけだし、
ありがたいことに告白されたことだってある。
でも、さ?
『好きだ』って思われることと、
『誰かを好きになる』ことは、
全然別次元の話じゃん!!?
告白されても、
「ごめんなさい」の一言で終わっちゃう。
付き合ってみようなんて思ったこともないければ、人を好きと想う恋愛感情ってやつが、
正直よく分かっていない。
だから、
少なからず俺よりは恋愛経験がありそうな猫宮に聞きに来たってわけだ。
もちろん、
他のメンツに相談することも考えた。
だけど、容易に想像できてしまったのだ。
『え!?ないちゃん恋したことないの!?』
その後に続く言葉が一番優しい反応でも、
『え、ダサ……』
で終わる未来が。
……うん。
相談相手としては却下だ、却下。
一番酷い奴に限っては
『俺と筋トレするか?』
って、理由のわからない回答が返ってきそう。
乾いた笑みを浮かべて
「ねぇ、あるの?ないの?」
もう一度問いかけた。
さっきから問いかけているのに、
猫宮は何も答えない。
台本から顔を上げ、
じーっと見つめると
「……まぁ、あるにはあるけど」
大きくため息をついてから、
ぽつりと、小さく返事が落ちた。
「あるんだ!?」
思わず脊髄反射で聞き返してしまう。
「え、誰誰誰!?
もしかして今!? 現在進行形だったり!?」
勢いよくベッドから飛び降り、
そのまま猫宮の目の前まで詰め寄る。
ぐいっと顔を近づけると、
猫宮は「近い近い」と言わんばかりに
眉をひそめて、軽く俺の額を押し返した。
「……誰でもえぇやろ、別に」
「良くないでーす。
いいじゃん、俺、口硬いよ?
誰かぐらい教えてくれてもさ」
期待を込めてにやりと笑う。
そんな俺を見て、
猫宮は今度は小さくため息をついた。
「やだ」
「即答!?」
あまりにも拒絶を示す返事に、
思わず声が裏返る。
「なんで!? 幼馴染じゃん!」
「それが原因だわ、ぼけ」
返ってきた理由になっているようで
全然なっていない答えに、
俺は納得いかず頬を膨らませた。
「ふーん、そんなこと言っちゃうんだ。
……あ、もしかして俺だったり?
猫宮俺のこと好きだもんね〜」
きゃらきゃらと笑って言うと、
「さぁな」
そっけなく返された。
──何、その態度。
「……ひどぉ。いいですよー、
どうせ俺に恋なんかできないもんね」
猫宮に頼った俺が悪かった。
いいよ、別に。
他の奴ら頼むめばいいんでしょ。
ぷい、と猫宮から顔を背けて、
スマホを手に取る。
誰がいいかなぁ……。
猫宮以外を当てにするなんて、
考えてなかったから意外と迷う。
スマホをスクロールしながら、
んーー、と言葉にならない言葉を上げた。
やっぱりうらかなぁ、
まだ俺に対する扱いがマシな気がするし、
最後まで話聞いてくれそう。
……いや、でも最初の一言は絶対、
『え、ないくん恋したことないの?』
だよな。
それはそれで癪だ。
でも、モテるとかならりうらなんよなぁ……。
友達一覧をスクロールしながら、
誰に連絡するか悩んでいると。
ふいに、視界が少し暗くなった気がした。
顔を上げれば、猫宮が目の前に立っている。
「何。他の奴らに頼むからいいよ。
別に無理に応えなくても。
俺に教えたくないんだもんねー」
半ば八つ当たりのように言うと、
猫宮は小さく息を吐いた。
「……っとらん」
「え?」
「教えへん、とは、言っとらん」
その一言を最後に、部屋へ沈黙が落ちる。
……え、何。
これ、俺どう返すのが正解だったの?
あまりにも曖昧な返事に、
頭の中がこんがらがる。
ただ茫然と、
猫宮を見上げることしかできない。
しばらくして、猫宮がゆっくりと口を動かした。
「なぁ、無人」
その声は、いつもの猫宮より少しだけ真剣で。
だからかな。
自然と耳を傾けてしまっていた。
そこから先は、
どういう流れで言われたのかは覚えていない。
恋愛は経験してみなきゃ分からない、とか。
一人で考えていても答えは出ない、とか。
そんなことを、言っていた気がする。
でも。
不思議なくらい頭に残っているのは、
最後の一言だけで。
猫宮のことだけで
頭がいっぱいになってて。
「俺と、付き合ってみる?」
そんな言葉に、
「うん」
と導かれるようにうなずいていたのだから。
「ほぇ〜、じゃあないくんと猫宮くんって
付き合ったんだ」
「まぁ仮そめですけどね」
適当にコンビニで見繕った菓子パンを
もぐりと頬張りながら答える。
……モデルなのに栄養管理は?って?
知るか、んなもん。
読モだもの。別にアスリートでもないし、
食べたいものくらい好きに食べたい。
それでスタイル維持できてるんだから、
誰も文句は言わないでしょ。
向かいでは、
りうらが自分で作ってきたのだろう、
少しだけ形のいびつな卵焼きをつついている。
「そっかぁ〜」
そして、眉を少しだけ下げていったのだ。
「なら、これからりうらとお昼食べれないね」
と。
「……え?」
思わず間の抜けた声が漏れる。
「ん?」
りうらはきょとんと首を傾げた。
「恋人なんでしょ?」
「うん。仮だけどね?」
「でも恋人だよね?」
「……うん?」
二人して、
きょとんとしたまま顔を見合わせる。
しばらくして、
りうらが「あっ」と何かに気づいたように
声を上げた。
「……ちょ、ちょっと待って?」
「何?」
「ないくんってさぁ、
恋人がどんなことするか知ってる?」
「ん、知ってるよ?」
当たり前だろ。
恋愛したことがなくたって、
そのくらいの知識はある。
りうら、俺のこと舐めすぎな??
「例えばどんなこと?」
「例えば?」
聞き返されて、腕を組んで考える。
恋人がすること。
「例えばぁ……」
デート。
……あとは?
「んー……」
手を繋ぐ。
……あと何だ?
「例えばぁ……」
…………。
…………あれ?
恋人って、何すんの。
えぇ???
額にしわを寄せて
本気で悩み始めた俺を見かねたのか、
りうらは「うし」と小さく呟く。
「猫宮くーん!! ちょっと来てー!!!」
教室中に響き渡る大声。
クラス全員──と言っても、
このクラスは俺を含めて六人しかいない。
それでも、
一斉に視線がこちらへ集まるには十分で。
「うるさぁ……」
誰かが……いや、いつも大声出してる水色頭の
ぼそっと呟く声まで聞こえてきて、
俺は、それはいつものお前だよ、なんて
軽くツッコんでおいた。
一方、呼ばれた本人はというと。
すでに昼食を食べ終えていたのか、
読んでいた本をぱたんと閉じると、
何を考えているか分からない顔で立ち上がった。
そして俺とりうらを見比べ、
はぁ、とため息をつき、
少しだけ気まずそうな表情を浮かべて歩いてくる。
「何?」
突然呼ばれて不機嫌です!!なんて表情を
包み隠さずしている猫宮に
りうらは怯むことなく話しかける。
「猫宮くんさ、ないくんと付き合ったんでしょ?」
そういうと、猫宮はげ、と言いたげな顔をしてこちらを見た。
「無人、お前大神に言ったん?」
「え、言っちゃダメだったの?」
なぜ?と心底不思議そうな顔をする俺に
今日何度目かのため息をついた猫宮。
「あんなぁ」
あ、説教が始まる。
そう思って身構えたところで、
「まぁまぁ」
りうらが間に割って入った。
「猫宮くんは知ってると思うけど」
そう言って、じとーっと俺へ視線を向ける。
……何。
その「困った子ですね」みたいな目。
「ないくんさ、
恋人っていう自覚が全然ないんだよね」
「いや、だって仮だし」
思わず反論するけど、
「そういうところだよ、ないくん」
ぴしゃりと返される。
隣を見ると、
猫宮まで「まぁ、そうやろうな」なんて
顔をしていた。
何で?
俺、何か変なこと言った?
二人だけ納得したような空気を出されても、
当の本人はさっぱりである。
「ということで」
りうらはパンッと手を叩いた。
「今日の放課後、一緒に帰ってきなよ」
「……へ?」
「恋人らしいこと、してきてね」
にこにこと笑っているけど、
その笑顔からは、
拒否は認めませんという意思が
ひしひしと伝わってくる。
だって、言い方が断定系だったもの。
「ちなみにだけど、拒否権って……」
「あるわけないよね?」
おまけに食い気味に返され、
俺のささやかな希望は一瞬で砕け散った。
……あーあ。
今日見ようと思ってたドラマとアニメ、
次いつ見れるかなぁ……。
俺は世の中の恋人さんたちを尊敬するよ。
カップルが一緒に帰るときって、何話すの。
何か特別な話題でも必要?
友達と話す内容と同じじゃダメ?
え、会話ってさ、
「明日数学予習あるっけ」
「ある」
「そっか、ありがとう」
……こんな一往復で終わるもんだっけ?
求む話題!!
求むコミュ力!!
いや、
多少なりともコミュ力はあるほうだと思ってるよ?
仕事柄、初対面の人と話すことだって多いし。
でもさぁ。
ここまでの気まずさは、
人生で一度も経験したことがないかもぉ……。
……頑張れ、無人ちゃん。
どうにかして、この沈黙を打ち破るんだ。
……とは思うものの、
肝心の一言が出てこない。
そんなふうにもんもんと悩んでいると。
「無人」
不意に、猫宮の少し低い声が耳に届く。
「ひゃい!?」
突然話しかけられたせいで、
情けないくらい声が裏返った。
……恥っっっっっず!!!
ちらりと猫宮のほうを見ると
肩を震わせくふくふと笑っている。
顔の熱が一気に上昇するのがわかる。
それを見た猫宮は、
ついに堪えきれなくなったのか、
「っ、あははっ……!」
声を上げて笑い出した。
……いや、笑いすぎでしょ。
俺は睨みつけることしかできず、
せめてもの仕返しに、
肩に掛けていたバッグで思いきり叩く。
「いっ、た……!」
痛がる声とは裏腹に、
笑いはちっとも収まらない。
「っはは……あかん、無理……!」
ひーひーと笑い続ける猫宮を見て、
俺はじとっと目を細めた。
……ひどくね?
ようやく笑いが落ち着いた頃。
猫宮は目尻に浮かんだ涙を指先で拭いながら、まだ笑いを滲ませた声で言う。
「あー……やば。 おもろすぎるやろ」
くくっと喉を鳴らしながら、
今度は少しだけ優しく笑った。
「そんな緊張せんでええよ、
いつも通りでええんやから」
そう言われても。
「……だって」
思わず口を尖らせる。
「だって、恋人って何話せばいいか分かんないし」
「は?」
猫宮はきょとんと目を瞬かせた。
「え、何その反応」
「何話すも何も……」
少し考えるように視線を泳がせてから、
猫宮は苦笑する。
「普段と変わらんでええやろ」
「えぇ……?」
「無理して恋人らしくしようとせんでええよ。急に甘いこと言われても、俺も困るし」
「あ、それは安心した」
ほっと胸を撫で下ろす。
危なかった。
危うく家帰って速攻で
「恋人 会話」で検索するとこだった。
「……もしかして検索しようとしてた?」
「……い、いや?」
「図星か」
また笑われる。
「いやだってさぁ!?
恋人ってもっとこう……
手ぇ繋いで歩いたり、見つめ合ったり、
そういうのするイメージあるじゃん!」
「まぁ、人によるけどな」
しどろもどろになりながら、
言い訳を並べる。
「俺、そういうの急にやれって言われても無理」
「せやろな」
「即答しないでよ!」
「無人やもん」
辛辣すぎる内容だけど
あまりにも当然のように返されて、
あぁ、やっぱこいつは俺の幼馴染だったわ、とどこか安心感を覚えた。
何も言い返せなくて悔しい。
だけど、
これが俺らしさと言われればそれはそう。
恋人だからって、
無理に変わる必要なんてない。
猫宮がそう言ってくれたから。
俺たちは俺たちらしく、
少しずつ恋人ってやつを
知っていけばいいのかもしれない。
そう結論づけたところで。
ぐぅぅぅぅ……。
「…………」
「…………」
静かな住宅街に、
場違いなくらい大きな音が響いた。
犯人はもちろん。
「……無人」
「俺じゃない」
「お前やろ」
「違う。お腹が勝手に鳴っただけ」
「それを世間ではお前が鳴った言うねん」
「だっておいしそうな匂いしたから!!」
必死に言い返すと、
猫宮は呆れたように笑って鼻を鳴らした。
「匂いにつられて腹鳴らすとか、
犬か、お前は」
「犬じゃないもん」
「ほな何や」
「……人間」
「知っとるわ」
即座に返され、ぐぅの音も出ない。
いや、お腹の音は出たけど。
そんなくだらないやり取りをしているうちに、ふわりとソースの香ばしい匂いが鼻をくすぐった。
匂いのする方へ視線を向けると、
商店街の角にあるたこ焼き屋さん。
鉄板の上では、
こんがり焼けたたこ焼きが
ころころと転がされている。
「……食べたい」
思わず本音が漏れた。
それを聞いた猫宮は、
小さく笑って財布を取り出す。
「しゃあないな」
「え」
「寄ってくか?」
「いいの!?」
さっきまでの沈黙なんてどこへやら。
俺は一気に足取りを軽くして、
猫宮より一歩前へ飛び出した。
「正直すぎやなぁ……」
そんな猫宮の声も聞こえないほどに
俺のテンションは上がっていた。
仮初めの恋人関係になってから、
三週間ほどが経とうとしていた。
青々とした新緑がまぶしかった五月は過ぎ、
しとしとと降り続いた梅雨も
終わりを迎えようとしている。
季節はゆっくりと、
夏の気配をまとい始めた六月下旬。
そんなふうに季節が移り変わるのと同じように、俺たちの関係も少しずつ変わっていた。
まず呼び方を変えた。
『猫宮』から、
幼い頃によく呼んでいた『いふまろ』へ。
今では、『まろ』と呼ぶようになっていた。
猫宮は『無人』呼びのまんまだけれど。
よくよく考えてみれば
クラスメイトの中で俺だけが呼び捨てで、
少しだけ優越感を覚えたりもした。
付き合って初めての休日には、
ショッピングモールへ買い物に行った。
俺が服を見たいという名目で、
まろを半ば強引に着せ替え人形にして遊ぶ。
普段なら絶対に選ばないような服を着せると、見慣れているはずのまろが少し違って見えた。
帰り際には、
お揃いのアクセサリーも買った。
俺はピアス。
まろは「穴開けるん嫌やし」なんて言って、
同じデザインのイヤリングを選んでいた。
形は違っても、デザインは同じ。
それだけで、
胸の奥がふわりと軽くなる。
……あぁ。
これが世の中の恋人が
お揃いを欲しがる理由なのかも。
毎日一緒にお昼を食べて、
放課後帰って。
今日こんなことあったよって、
近況報告と
こんなことやりたいねって、
未来観測。
他愛のない話をいくつもいくつも重ねた。
最近話題になっている水族館にも行った。
もちろん表向きは、
ドラマ撮影のロケ地を下見するため。
だけど実際は、
まろと二人で出かける口実で。
イルカショーを見て。
近くのおしゃれなカフェで
ホットサンドを食べて。
帰り道には、
するりと手をつながれて。
お互い照れ臭くなって、
会話は少しぎくしゃくしちゃったけど。
……仮初めの恋人にしては。
少し出来すぎなくらい、
幸せな思い出ばかりが増えていった。
そして、さらに日は過ぎ、
事務所主催ショートドラマ撮影まで、
残り一週間を切ろうとしていた、ある日のこと。
「……どうする」
「どうしたもこうしたもないやろ」
「だよね、知ってた」
2人してはぁ……、と大きく息をついた。
放課後、
人気のなくなった学校の昇降口。
靴箱の軒先に並ぶ男子高校生が二人。
傍から見れば、
何とも締まらない光景だっただろう。
だって俺たちの視界いっぱいに広がっているのは、どんよりとした灰色の空と、
地面を叩き続ける大粒の雫。
……そう。
お察しの通り、突然の土砂降りである。
普段なら何の問題もない。
いつもなら、
鞄の中には折り畳み傘が入っているから。
しかし、昨夜はまろの家でゲームをして、
気づけば美容の天敵であるはずの夜更かしをし、そのまま二人して寝落ち。
おまけに、アラームすらかけ忘れた。
朝は当然のように寝坊して。
慌てて家を飛び出した結果、
折り畳み傘を持ってくる余裕なんて、
あるはずもなく、
こんな状況を無事作り上げることになった。
「走るか」
「それしかないよな」
どちらからともなく顔を見合わせ
そう告げる。
「あ、待って」
「何どした」
教科書類が濡れないように
リュックや学生かばんの中身を
ぐるっとタオルで包み、
いざ出陣体制が整たところで
まろが声を上げた。
見ると、
ひらりとスマホ画面をこちらへ差し出した。
「今家誰もおらんから、
無人ん家行ってもええ?」
「はぁーまじか……最悪、
教科書ちょっと濡れてんじゃん」
誰もいない自室で
鞄から荷物を取り出し、そうポツリ。
ページをぱらぱらとめくると、
端のほうが水を吸って少し波打っていた。
幸い読めなくなるほどではないけれど、
何とも言えない敗北感が込み上げてくる。
バシャバシャと水を跳ね返しながら
帰ってきたおかげで
靴はおろか靴下まで随分濡れてしまった。
裾には、きっちりと泥がついているし。
ほんとに何してくれてんだ、昨日の俺。
ゲームより次の日の自分を心配しろ。
折り畳みがあったら幾分とマシだったものを。
帰ってきてすぐ、
「先に風呂入って」とまろに言われた。
もちろん俺も譲らなかった。
どうせ二人とも濡れてるんだし、
どっちが先でも変わらないと思ったから。
けれどドラマが控えていること、
昔から少しばかり体が弱かったことを
引き合いに出されてしまえれば何も言えなかった。
結局、先に風呂をもらった俺は、
烏の行水よろしくダッシュで上がってきた。
「早っ」
髪をわしゃわしゃと拭きながら
リビングへ戻った瞬間、
まろに声を上げて笑われたのを思い出す。
……まろが先に入らなかったせいだけど??
心の中だけでそう文句を言いながら、
ふと、洗濯機を回したほうがいいことを思い出す。
タオルや体操服、びしょ濡れになった制服を抱え、洗面所へ向かった。
がらり、と脱衣所兼洗面所の扉を開ける。
そこは、ちょうどまろが
風呂から上がってきたところだった。
「あ」
思わず声が漏れる。
前に泊まりに来たとき、
うっかり置いていったまろの着替え。
何も言わずに置いておいたけど、よかった。
ちゃんと気付いて着てくれたらしい。
安心しながら、
抱えていた洗濯物をぽいぽいと洗濯機へ放り込む。
「あ、まろ。それも」
ドライヤーをかけていたまろは、
「え?」と言いたげにこちらを見る。
何か言っているみたいだけど。
ぶぉぉぉ、というドライヤーの音にかき消されて、さっぱり聞こえない。
……うん。
仕方ない、仕方ない。
俺はにっこり笑うと、
そのまままろの脱いだ服も回収して、
洗濯機へ投入。
「おい、無人──」
多分そう呼ばれた気がする。
気がするだけだ。
乾燥まで終わらせたかった俺は、
洗濯乾燥モードのボタンを迷いなく押した。
ピッ。
軽快な電子音が鳴る。
よし。
これで任務完了。
「勝手に回すなや……」
ドライヤーのスイッチを切ったまろが、
苦笑しながらそう零す。
「だって乾燥まで終わらせたほうが楽じゃん」
「せやけど、一言くらい聞いてからやな」
「聞こうとはしたよ?」
「聞いてへんやろ」
「ドライヤーが悪い」
「責任転嫁すな」
そんな他愛もないやり取りを交わしながら、
二人並んで洗面所を後にした。
自室へ戻ると、
窓を叩く雨音はさっきよりも強くなっている。
「止む気配ないね」
カーテンを少しだけ開けて外を見る。
街灯に照らされた雨粒が、
白い線を描きながら落ちていた。
「今日は帰られへんかもな」
「んー……お母さんには連絡しとく?」
「もうしとる」
さすが。
そう思いながら振り返ると、
まろは俺のベッドへ腰を下ろしていた。
どうせ洗濯が終わるまで暇だ。
そう思って、
適当に動画配信サービスを開く。
「映画でも見る?」
「ええで」
「何でもいい?」
「ええよ?」
「ほんとに?」
「おん」
その返事を聞いて、
俺は画面をすいっとスクロールする。
そして。
「……こんなのでも?」
指さしたのは、
ベタベタの恋愛映画だった。
空いた時間くらい、
ドラマの演技を研究したい。
本当ならこんなところで私情を挟むな、って
話なんだろうけど。
恋愛感情を知るための、仮初めの恋人。
それなら、こういう映画を一緒に観るほうが、恋人らしいことなんじゃないかと思った。
──まろは、彼氏なんでしょ?
そんな淡い期待が、
少しだけ俺を調子に乗らせた。
「……ええんちゃう?」
迷うことなく返ってきたその一言に、
俺は思わず口元を緩めた。
「じゃ、決まりね」
俺は、そう言ってリモコンを握り直し、
再生ボタンを押した。
映画は、王道中の王道だった。
高校で出会った二人が、
すれ違って、ぶつかって、
少しずつ距離を縮めていく。
「ベタやなぁ」
隣でまろが小さく笑う。
「そう?」
「展開読めるやろ」
「そういうのを楽しむ映画なんだって」
「ふーん」
「てか、そんなこと言ったらドラマもそうだから」
「確かに」
なんて他愛もないやり取りを挟みながら、
画面へ視線を戻す。
しばらくすると、
物語は中盤へ差しかかった。
主人公の二人が遊園地でデートをして、
観覧車の中で互いの想いを確かめ合う。
いかにも恋愛映画らしい場面。
若干胸焼け起こしそう。
というか、ごめん。
ヒロインちゃんよ。
『わたし、あなたとなら強くなれるの』
とやら
『わたしの誰以外とも喋ってほしくないなんて……みっともなく嫉妬しちゃった』
とやら。
……わかんねぇわ、その感情。
理解するために、
まろと付き合ったはずなんだけどなぁ……。
あれ、このままだと俺目的も達成できずに
ただ迷惑かけて終わりじゃね?
やばい、やばいぞ。
そう思いつつ、
スクリーンに目を戻すと。
ちょうど主人公とヒロインが、
観覧車の頂上で向かい合う場面だった。
ゆっくりと目を閉じるヒロイン。
「あ」
思わず声が漏れる。
「ほら、まろ」
画面を指さそうと、身を乗り出した、
その瞬間。
ごつ。
「あっ」
肩がぶつかった。
思ったより勢いがついていたらしく、
体勢が少し崩れる。
「あ、ごめ──」
反射的に謝ろうとして、顔を上げる。
そこで初めて気づいた。
……近い。
今までよりも、ずっと。
少し動けば、
鼻先が触れてしまいそうなくらいの距離。
いつもなら何とも思わないはずなのに。
こうして向かい合うと、
まろの顔がやけにはっきり見える。
少し癖のある前髪。
風呂上がりで、
まだ少しだけ湿り気を残した髪。
長いまつ毛。
深い海を思わせる静かな深藍の瞳。
それから。
薄く形の整った唇。
気づけば、まろの顔ばかり目で追っていた。
視線が合う。
気まずいわけじゃない。
でも。
目を逸らす理由も、
逸らしたい理由も見つからなくて。
時間だけが、ゆっくりと流れていく。
画面の中では、
主人公たちが互いを見つめ合い、
あと少しで唇が重なろうとしていた。
まるで引き寄せられるように。
俺も少しだけ身体を前へ傾ける。
まろも動かない。
あと少し。
──あ、触れる。
ぱしっ。
柔らかな感触が口元を覆った。
「……っ」
驚いて目を見開く。
俺の口を塞いでいたのは、まろの手だった。
近すぎる距離のまま、
まろは困ったように笑う。
「……こういうんは」
小さく息を吐いて。
「ちゃんと、好きな人とせなあかんよ」
遠くで現実へ覚ますように、
洗濯機のアラームが鳴って。
「ごめん、俺やっぱ帰るわ」
まろもその一言を残して、
去ってしまった。
俺も引き止めればよかったのに。
「もう少しいれば?」
その一言くらい、言えたはずなのに。
喉まで出かかった言葉は、
結局ひとつも声にならなかった。
玄関の扉が閉まる音だけが、
静かな家に響く。
その背中を見送ることしかできなかった俺は、まだこのとき知らなかった。
あの日交わしたあの会話が。
ドラマ撮影前の、
最後の会話になってしまうなんて。
7月初旬。天気は晴れ。
外にいるだけで汗が噴き出る晴天日和。
そんな日に、
ショートドラマ『放課後シークレット』の撮影は始まった。
学校を貸し切って行われる撮影。
場面転換の合間、
俺は近くに置かれていたペットボトルへ
手を伸ばす。
けれど。
「あ、これ?」
俺の手より一歩早く、
白く細い指がそれを掴んだ。
「……はい。ありがとうございます。
雪代さん」
「やだなぁ、敬語なんてやめてよ、
堅苦しい」
目の前の少女は、
くすりと肩を揺らす。
彼女の名前は、雪代すず。
今回のドラマでヒロインを務める、
今をときめく人気若手女優。
そして。
俺と同じ事務所に所属する、
少し年上の先輩でもある。
「先輩なんですし、
敬語ぐらい使わせてください」
「えぇ、だってそれだとないこくんと
仲良くなんてできないでしょう?」
ね?そう言って微笑むその顔は、
雑誌やテレビで見る可愛らしい笑顔そのもの。
しかし、その笑みの奥には、
獲物を見つけた肉食獣のような鋭さが、
一瞬だけ、覗いた気がした。
「ほら、飲まなくていいの?」
その声にはっとして、
慌てて差し出されたペットボトルを受け取る。
「ありがとうございます」
「また敬語だ」
雪代さんは頬を膨らませると、
くすくすと笑った。
「まぁ、撮影始まったばっかりだもんね。
これから慣れていけばいっか」
「……そうですね」
適当に相槌を打ちながら、
ペットボトルの蓋を開ける。
冷えた水が喉を通り抜け、
火照った体に染み渡っていく。
「ないこくん」
「はい?」
「役作りって、どれくらいしてきた?」
不意にそんなことを聞かれた。
「えっと……台本は何回も読みましたし、
恋愛映画とかドラマも結構見ました」
「お、えらいね」
雪代さんは俺をじっと見つめる。
「じゃあ、恋したことは?」
「……ない、ですね」
だけど、彼氏はいるんです。
なんて言ったら驚かれるだろうか。
苦笑いして雪代さんを見ると、
少しだけ目を丸くしたあと、
「なるほどぉ」
と、納得したように笑った。
「だからなんだ」
「え?」
「ないこくん、恋してる顔してないもん」
その一言に、思わず息を呑む。
恋してる顔。
そんなもの、あるのか。
「でも安心して」
雪代さんは悪戯っぽく笑って、
俺との距離をほんの一歩だけ縮めた。
「私、恋してる顔にするの得意だから」
「……へ?」
意味を理解するより早く。
「雪代さん、ないこくん!
次のシーンお願いしまーす!」
スタッフさんの声が響く。
「はーい!」
雪代さんはくるりと振り返り、
さっきまでの妖しい雰囲気が
嘘みたいに明るい笑顔で駆け出していく。
その背中を見送りながら、俺は首を傾げた。
……恋してる顔って。
どういう顔なんだろう。
……いや、そんなことを考えている余裕など
まだない。
演技のお仕事はこれが初めてなんだから。
周りが受け入れてくれないかもしれない。
批判されるかもしれない。
だったらまずは、
一つひとつのシーンを全力で演じる。
それだけだ。
『何事も全力で』
それが俺のモットーなんだから。
もちろん、
気になることがないわけじゃない。
あの日以来、
まともに話せていないまろのこと。
雪代すずという女優から感じる、
演技だけじゃない、それ以外の違和感。
この時の俺は、
深く考えやできなかったのだ。
なんてったって
余裕なんてなかったのだから。
気づくはずもない。
彼女が役作りという名目で、
少しずつ俺の心へ踏み込んでくることも。
そのたびに、
まろの存在が自分の中でどれほど大きいのかを、思い知らされることになるなんて。
撮影が始まって、数日。
『放課後シークレット』の撮影も、
いよいよ終盤へ差しかかっていた。
朝から晩まで続く撮影は想像以上に慌ただしく、気づけば一日が終わっている。
そんな毎日の繰り返しだった。
まろに連絡をしよう。
そう思うことは何度もあった。
けれど、
そのたびに次のシーンの準備が入ったり、
雪代さんに話しかけられたりして、
スマホを開く暇すらなくなってしまう。
──今日こそ。
そう思っているうちに、
また一日が終わる。
唯一の救いは、
撮影場所が家の近くだったこと。
だから仕事が終わるたび、
何度かまろの家を訪ねてみた。
しかし。
インターホンを鳴らしても返事はなく、
灯りはついているのに扉が開くことはなかった。
……否。
会えなかった、じゃない。
会おうとしてくれなかった。
そんな気がして、
胸の奥がちくりと痛んだ。
「はぁ……」
ここ数日で何度目か分からないため息が零れる。原因は、もちろん全部同じ。
机に突っ伏した俺を見て、
雪代さんはおかしそうに笑った。
「また例の幼馴染くん?」
「……はい」
「連絡つかないの?」
「つかないというか……
俺が忙しくて連絡できなかったり、
家に行っても会えなかったりで」
「そっかぁ」
雪代さんには以前、
まろのことを少しだけ話したことがある。
幼馴染であること。
今は恋人同士でいること。
もちろん、本当の理由までは話していない。
「そんな子やめて、
わたしにすればいいのに」
冗談っぽく笑いながら、
そんなことを口にする。
「またまた」
思わず苦笑が漏れた。
「雪代さん、そういう冗談好きですよね」
「冗談だと思う?」
「思いますよ」
人気女優が、一般人相手への冗談なんて。
そんなことあるわけがないのだから。
そう思って笑い返した俺に、
「……ふふ」
雪代さんは意味ありげに
目を細めるだけだった。
ふいに、その表情が少しだけ真面目になる。
「そういえば、次のシーン、大丈夫?」
「あ……」
その一言だけで、
何を指しているのか分かった。
次に撮るのは、
ヒーローがほかの男子に告白されているところを目撃したヒロインが、
自分の気持ちを抑えきれなくなり、
ヒーローと想いを確かめ合う場面。
……まぁ、具体的に言ってしまえば、
キスシーンだ。
「まぁ……何とか」
そう答えたものの、声に自信はなかった。
だって。
ファーストキスなんて、まだだし。
……いや。
正確には、未遂ならある。
あと数センチ。
唇が触れそうになって。
『……こういうんは、
ちゃんと好きな人とせなあかんよ』
あの日のまろの声が、ふっと頭の中で蘇る。
「ないこくん?」
「……あ、すみません」
慌てて意識を現実へ戻す。
いけないいけない。
今は仕事中だ。
余計なことを考えてる場合じゃない。
そう自分に言い聞かせても、
胸の奥には、あの日と同じ、
言葉にできないもやもやが
残ったままだった。
いくら自分に不調があるからと言って、
時間は待ってくれない。
撮影は進むし、その瞬間は必ずやってくる。
「それでは、いきまーす。三、二、一……」
カチン、とカチンコの音が響いた。
場面は放課後。
夕焼けに染まる教室。
オレンジ色の光が窓から差し込み、
ヒロインとヒーローを優しく照らしている。
「……ねぇ」
雪代さんの声色が、
さっきまでとはまるで違う。
役の彼女として、
まっすぐ俺を見つめてくる。
「さっき見ちゃった」
震える声。
「他の子に告白されてた」
台本通りのセリフ。
なのに。
その瞳は演技だと思えないくらい、
切なく揺れていた。
「……見てたんだ」
俺も役になりきって言葉を返す。
「告白、断ったよ」
「でも」
一歩。
雪代さんが距離を詰める。
「もし……断らなかったら?」
「そんなことしないよ」
「どうして?」
教室が静まり返る。
カメラが回る音だけが耳に届く。
「君がいるから」
その瞬間。
雪代さんの表情が、
ぱっと花が咲くように綻んだ。
……けれど。
その笑みはすぐに揺らぎ、
どこか寂しげな表情へと変わる。
「どうしよう……わたし、欲張りだ」
……アドリブ!?
台本にはないセリフ。
突然の出来事に、一瞬、頭が真っ白になる。
それでも何とか思考を動かして、
役として言葉を返した。
「そんなこと、ない」
震える彼女の肩にそっと手を添え、
ゆっくりとこちらへ向き直らせる。
「あなたはわたしの彼氏だって、
ちゃんと分かってるのに。
手をつないだり、一緒に帰ったり。
それだけで十分なはずだったの」
……知ってる。
その気持ち。
──あぁ、あの時か。
撮影が始まるまでの数日間。
何度もまろに話しかけようとして。
『ごめん、用事あるから』
その一言だけで、
距離を置かれてしまった俺の気持ちだ。
雪代さんは、ゆっくりと一歩近づく。
また一歩。
俺との距離が、少しずつ縮まっていく。
「ねぇ……わたし、
あなたのせいでわがままになっちゃった」
「……それは、俺もだから」
その言葉は。
役として返したセリフだったのか。
それとも。
俺自身の本音だったのか。
もう、自分でも分からなかった。
「責任、とってよ」
雪代さんが、静かに目を閉じる。
長いまつ毛が影を落とす。
あと少し。
あと数センチ。
──ここから、キス。
頭では分かっている。
台本も何度も読み返した。
リハーサルだって重ねた。
触れるふりだけでいい。
角度を合わせれば、
カメラには本当に唇を重ねたように映る。
そう。
そのはずだった。
だけど。
その距離を見た瞬間。
脳裏に浮かんだのは。
夕立の日。
風呂上がりの匂い。
深い海を思わせる瞳。
『……こういうんは、
ちゃんと好きな人とせなあかんよ』
──違う。これじゃ、この人じゃ、ない。
そう思った次の瞬間には
考えるより先に、身体が動いていた。
ぱしっ。
乾いた音が、静まり返った教室に響く。
気づけば俺は。
あの日と同じように。
「あ……」
気づけば俺は、
雪代さんの口元を手で覆っていた。
あの日。
まろが俺にしたのと、まったく同じように。
時間が止まる。
雪代さんも。
監督も。
スタッフさんも。
誰一人として動かない。
俺だけが、自分のしたことを理解できずにいた。
「──カット!!」
監督の声が、静まり返った教室に響いた。
張り詰めていた空気が、
一気に現実へ引き戻される。
「ないこくん!」
「すずちゃん!」
スタッフが慌てて駆け寄ってくる。
「……ぁれ……?」
自分の手を見る。
雪代さんの口元を覆っていた右手。
それを見て初めて、
自分が何をしたのかようやく理解した。
「す、すみません……!」
慌てて手を離す。
雪代さんは一瞬驚いたように目を見開いていたが、すぐにふっと笑みを浮かべた。
「わたしは大丈夫」
そう言ってくれたものの、
現場はざわついたままだ。
「ないこくん、どうした?」
監督が心配そうに近づいてくる。
「気分悪い?それとも体調?」
「い、いえ……その……」
違う。
体調じゃない。
でも。
じゃあ何だと聞かれても、
答えられなかった。
どうして身体が勝手に動いたのか。
どうして、
あの日のまろと同じことをしたのか。
自分でも分からない。
「……今日はここまでにしよう」
しばらく俺の顔を見つめた監督は、
静かにそう告げた。
「キスシーンは延期。
今日は早めに上がって、ゆっくり休んで」
「……はい」
返事をした声は、
自分でも驚くくらい、力がなかった。
控室へ戻る途中も。着替えをしている間も。
頭の中を巡るのは、
たった一人。
……ばか。
こういうときにまで、
出てこなくていいんだよ。
「……まろ」
あいたい
ぽつりと零れた本音に、自分で一番驚いた。
ねぇ、まろ。
俺に「付き合おう」って言ったとき、
どんな顔をしてたっけ。
水族館に行ったときだって、
魚より、俺のことばっかり見てなかった?
あのときは気づかなかった。
照れ隠しだと思って、
からかってるだけだと思って。
でも、違ったのかな。
あの優しい視線も、
少し困ったように笑う顔も。
全部。
……俺のこと、好きだったから?
なら、
まろとお揃いできて嬉しかったのも、
手をつないで照れちゃったのも、
用事だって避けられるのが嫌なのも、
キスを拒まれて傷ついてしまったのも。
俺もまろを好きだったから、なのかな。
そう思った瞬間、
胸の奥で何かが弾けた。
「……っ」
いてもたってもいられなくて。
会いたい。今すぐ。
会って、この気持ちを伝えたい。
気づくのが遅くなってごめんって。
何度も傷つけてごめんって。
そして。
「好き」
その一言を、
ちゃんと自分の口で伝えたい。
「すみません!」
勢いよく控室を飛び出す。
廊下にいたスタッフさんが
驚いたように振り返った。
「撮影は全部終わってますよね!」
「あ、うん。お疲れさま!」
返事を聞くや否や、
「失礼します!」
深々と頭を下げて、
そのままスタジオを飛び出した。
タクシーを拾う時間すら惜しい。
駅まで走って。
息を切らせながら電車に飛び乗る。
ドアに映る自分の顔は、
笑っているのか泣きそうなのか、
自分でも分からない。
ただ一つだけ分かること。
早く。
早く会いたい。
まろ。好きだよ。
何度も通ったはずの道が、
今日だけはやけに長く感じた。
ようやく見慣れた家が視界に入る。
ここまでずっと走ってきたからか、
息が苦しい。
心臓もうるさい。
それでも足は止まらなかった。
肩で息をしながら
震える指でインターホンを押す。
──ピンポーン。
数秒。
その数秒が、永遠みたいに長い。
ガチャ。
ゆっくりと扉が開く。
「……無人?」
聞き慣れた声。
少し驚いたような、でも優しい声。
「お前、今日撮影じゃなかっ──」
その声に導かれるようにして、唇を重ねた。
「……は……?」
まろの、小さく驚いた声が聞こえる。
「ねぇ、まろ。
俺さぁ……」
まろをじっと見つめたまま、
眉を下げ、軽く笑った。
「結局、恋なんて最後まで分かんなかったや」
「……はぁ?」
ぽかんとした顔が、
なんだかまろらしくて笑ってしまう。
「でもね」
まろの服をきゅっと掴む。
「まろへの恋は、分かるんだ」
「……っ」
「恋って何なのかなんて説明できない。
でも、お揃いが嬉しかったのも。
手をつなぐだけでドキドキしたのも。
会えない日が苦しかったのも。
キスを拒まれて泣きそうになったのも。
きっと、全部、まろだったから。
だからさ」
まろを真っ直ぐ見つめる。
「俺、まろが好きなんだと思う」
ドッドッと心臓が脈を打った。
まろは何も言わない。
ただ、目を見張ったまま、
俺を見つめている。
「……まろ?」
思わず名前を呼ぶと、
「はぁ~……」
今までで一番大きなため息をついて、
その場にしゃがみ込んだ。
「え、ちょっ……まろ?」
慌てて俺もしゃがみ込む。
「大丈夫!?」
「……無理」
額を押さえたまま、まろは力なく首を振る。
「情報量、多すぎる……」
「え?」
「急に来るし」
指を一本立てる。
「いきなりキスするし」
二本目。
「ほんで、
『まろへの恋しか分からんかった』とか言うし」
三本目。
「最後に『俺のこと好き』とか言うし?」
ふっと顔を覆って、
「……心臓、もたへんよ」
その耳は、
見事なくらい真っ赤だった。
思わず笑ってしまう。
「な、何笑っとんねん」
「だって」
涙を拭いながら笑う。
「まろでも、そんな顔するんだ」
「するわ!」
顔を上げたままろは、
照れ隠しみたいに少し睨んできた。
「何年片想いした思てんねん」
その一言で、
俺の笑顔が止まる。
「……片想い?」
「おん」
まろは苦く笑った。
「付き合うって言うた日から、
ずっと好きなん俺だけやと思ってた。
無人は、俺にそんな気ないから、
相談したんやと思ってた」
その笑顔は優しいのに、
どこか寂しくて。
胸がぎゅっと締め付けられた。
「だから今日のそれは……」
少しだけ潤んだ目で俺を見上げる。
「反則、無人」
その言葉と同時にぐいっと腕が引かれ、
もう一度、影が重なった。
「やぁ~、
一時はどうなっちゃうかと思ったけど、
無事終わったねぇ~」
「その節はすみません、雪代さん」
「ほんとだよ。
このわたしを当て馬みたいにしちゃって」
「はは……」
「でも、おかげで最後は最高だったよ」
このこの、と軽く肘で小突かれる。
「いてっ」
思わず苦笑すると、
雪代さんは満足そうに笑った。
今日は、ショートドラマの同時試写会。
撮影に関わったキャストやスタッフが集まり、
一足先に完成した作品を鑑賞する日だった。
上映が終わると会場は拍手に包まれ、
SNSでも、
「泣いた」「尊すぎる」といった感想が
次々と流れ始めている。
……よかった。
俺の演技は、
俺自身は周りに受け入れてもらえたらしい。
そこで、
ようやく不安が解けた気がする。
ホッとした顔をする俺を見て、
雪代さんはふふっと笑い
「主演、お疲れさま」
ペットボトルを差し出した。
俺はそれを受け取り、小さく頭を下げた。
「ありがとうございます」
ドラマは無事に終わった。
恋が分からなかった主人公も。
そして、その役を演じた俺も。
ちゃんと、
大切な答えを見つけることができた。
「すずちゃん」
雪代さんの横で
マネージャーさんが小さく声をかけた。
ちらりと目線を合わすと、
こちらを振り返った。
「それじゃ、わたしはこれで。
またどこかで共演できたらよろしくね」
「はい!本当にありがとうございました」
深く頭を下げる。
雪代さんは手を振りながら会場を後にした。
スタッフも一人、また一人と帰っていき、
気づけばロビーには俺だけが残っていた。
スマホが震える。
『終わった?』
たった四文字。
送り主は、見なくても分かる。
まろだ。
思わず頬が緩む。
だって、
こんなにもタイミングがいいんだもの。
『今終わった!』
送信して数秒。
『外』
『待ってる』
短い返信に、思わず笑ってしまう。
「迎えに来てくれるんだ……」
急いで荷物をまとめて建物の外へ出た。
夜風が頬を撫でる。
街灯の下。
黒いキャップを深く被った見慣れた人影が、
壁にもたれて立っている。
「おにーさん、夜に一人じゃ危ないよ?」
ばぁ、とからかった調子で声をかけると
ふっと優しく笑った。
「無人もやろ」
「んぇ、そう?」
「それに、周りに見に来た人おるかも」
「あ、確かに」
そんなことを言うと、
忘れてたんか、とくすりと笑った。
「お疲れさん」
「……何で、迎えに来てくれたの?」
「恋人迎えに来るん、普通やろ」
さらっと言われて、
また顔が熱くなる。
「……まだ慣れないや」
「俺もやなぁ」
そう言って笑うまろの耳も、少し赤かった。
二人で並んで歩き出す。
少しだけ指先が触れて、
どちらからともなく手をつないだ。
今度は照れて離すこともない。
ぎゅっと握り返される温もりが、
こんなにも安心するものだなんて。
きっと前までの俺じゃ
知りえなかったこと。
「ねぇ、まろ」
「んー?」
「恋って難しいんだねぇ……」
どこか他人事のようにつぶやいた俺に
まろは、んははと笑った。
「何、それが今回のドラマで分かったこと?」
「うん、恋ってよくわかんない」
「おいおい、それはないやろ」
えへへ、と眉を下げると、
「しょうがないなぁ」
そう言って、まろも笑った。
「あ、そうだ。まろ」
「今度は何?」
「俺の初めて、全部まろのだからね」
「……いきなりどしたん」
きょとんとするまろに、
俺はふわりと笑う。
「恋も」
繋いだ手を見つめる。
「好きって気持ちも。
誰かと未来を歩きたいって思えたのも」
ゆっくりと顔を上げて、
まろを見つめる。
「全部、まろが初めて。
だから、これから先の初めても、
いっぱい一緒に作ろ」
「当たり前やろ、
そっちこそ長年の片思い、
舐めんとってな?」
「あ、それいつからなの?」
「え、内緒」
「教えてくれてもいいじゃん、
恋人だよ!?」
「恋人だから」
世界中を探しても見つからない、
それが恋というけれど。
案外世界に恋は満ち溢れていて。
どこにあるかわからない。
気づくのが少しばかり
難しいだけなのかもしれない。
ただ。
俺が見つけた恋というやつは、
まろに会いたいと思うこと。
まろに触れたいと思うこと。
まろが隣で笑っていてほしいと願うこと。
そして、
その隣で笑っていたいと願うこと。
それが正解かどうかと言われれば
百人中百人が正解とは言わないかもしれないけど、これが俺の恋だから。
誰かの答えなんて、知らない。
これが俺の答えで、
これがまろへの恋。
きっと、それだけで十分だ。
だから、どうかこれからも
君の隣でいつまでも、
この気持ちが続きますように。
そして、
君のその気持ちと共に、
これからも歩めますように。
#irxs
暗落
39
#青春恋愛