「――――」
このところ、私のパリスは情緒不安定だ。
夢と現実が混濁しているのか、それとも人知れず戻りつつある記憶が暴れまわっているのか、意味不明な言葉を呟く。
今日も私の下で何やらモゴモゴ言っているパリスを見下ろした。
「―――はもう、堅気の―――」
かたぎ……堅気って言った?
動きを止めてみる。
「誰に何を言われるーーーーだろ。なんなら――――――、 ―――――ってんだから、感謝してもらいたい―――」
誰かと会話をしている?
瞼を閉じた眼球が、右へ左へ移動するのがわかる。
「わかった、それなら、今度から―――――は、――――。それでいーんだろ」
言うとパリスは笑った。
誰かと会話をしている。
それもものすごく親しい人と。
笑い合うような。
ふざけ合うような。
ーーー夢の中であろうと、そんなの、許さない。
私はひと際強く腰を打ち付けた。
「………ッ」
強制的に現実世界に引きずり戻されたパリスが、私を見上げて絶望のため息をつく。
「パリス……」
つい数週間前まで、私はヘラで、彼はパリスだった。
名前を呼び合いながら、あんなに愛し合ったのに、今彼は、暴力的な快楽に耐えながら、冷めた目で私を見上げる。
もしかして―――
記憶が戻った?それとも戻りつつある?
いや違う。
だって、そうならば―――。
悲しみに滲んだ瞳を見つめる。
―――この瞳は、おかしい。
「――――コロ……せ……。殺……せよ」
―――この言葉も、おかしい。
◆◆◆◆
私は階段を上りながら思い出していた。
『ーーーてめえらがやったんじゃねえか!!』
あの狂気的な瞳を。
『あんたら夫婦に何があったかなんて、知ったこっちゃねえけどなあ!!』
あの割れた怒号を。
『こっちはそのせいで人が一人、自殺してんだよ!!』
今にも飛び掛かってきそうな怒りに震える体を。
『あんたらだけは許さない……!俺が……!』
――――俺が殺してやる……!!
◇◇◇◇◇
「出かけるのですか、奥様」
黒いトレンチコートを羽織り、ビルトインガレージに続くドアに手をかけたところで、呼び止められた。
振り返るとそこには、”坂本”が立っていた。
あんな大怪我を負ったくせに、今は頬に簡単なテープを貼り、飄々としている。
「―――ええ」
主人の言いつけを守らず、しかも主人の物に手まで出して、あろうことか逃げられそうになるという失態まで犯したこの女を、すぐに解雇しても―――なんなら手当てせずにそこら辺のごみ集積場に投げ捨ててもよかったのに、いまだに雇っているのには理由がある。
この女は、何もわからないまま、いろいろと知りすぎた。
生かして外の世界に出すわけには行かない。
そして彼女もまた、なぜか自分から出て行こうとしない。
誰かに助けを求めたり、警察に駆け込んだりもない。
今のところ現状維持と経過観察だ。
「家の掃除と、夕飯の支度が済んだら、玄関周りの草むしりをしておいてちょうだい」
「かしこまりました」
「それと、地下へは行かないように」
「――――」
そこでピクリと身体が反応する。
「センサーを付けたから、行こうとしたらすぐわかるわ」
嘘だったが、頭の悪い彼女にはこのくらいの言葉でも十分効果がある。
「―――あのときは、大変申し訳ありませんでした。なんとお詫びすればいいか……」
彼女は頭を下げた。
彼女が女性であることを隠して、私のかけた募集に応募してきたのは、おそらく給料がいいからだ。
短期間。住み込み。三食付き。日当2万円。力仕事あり。簡単な運送業務あり。
普通の女性なら応募してこない。
何か彼女にも理由があるのだ。
少しばかり若く美しい男に誘惑され、一度はその手に落ちたからと言って、彼に騙され瀕死の重傷を負わされた今、彼女はもう地下室へは戻らないだろう。
もしあの男を愛してしまったなどと言うなら、話は別だが。
自分に頭を下げ続ける女と、パリスの性行為を想像する。
男顔負けのごつい女と、筋肉も落ち、痩せたパリス。
ゴリラのような容姿の女と、美しく整形されたパリス。
―――どっちが女かわからないわね。
自分の妄想があまりに陳腐で、私は鼻で笑った。
「行ってくるわ」
今度こそドアを開け放つと、ガレージに停まっている真っ赤なビートルに乗り、エンジンをかけた。
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