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彼女が時庭展示場に現れたのは、ちょうど今くらいだろうか。
コートを着ないと肌寒くなってきた季節だった。
駐車場をフラフラと薄着で歩いていた彼女を見つけた渡辺が、篠崎に知らせてきた。
近づき話しかけてみると、彼女は数年前、紫雨から家を買ったお客様だった。
アパートから近いという理由で、打ち合わせは時庭展示場でしていたため、篠崎の記憶にも新しかった。
しかしその姿は、当時とは比べ物にならないほど、荒んでいた。
夏物の薄いロングスカートに、無地の長袖のTシャツを着て、ぼさぼさに髪を乱し、つっかけのサンダルをペタンペタンと音を立てながら歩くさまは、どこからどう見ても異常だった。
「…………」
女性がそのような“壊れ方”をするのを見るのは、初めてではなかった。
そのやせ細った彼女を自分の車の助手席に乗せ、篠崎は走り出した。
二人きりで話せる場所であれば、どこでもよかった。
人目に付かず、誰にも話を聞かれずに、温かい飲み物と、絶対的な安心が得られる場所なら……。
気が付くと車は、篠崎のマンションに停まっていた。
「ここは……」
門倉美智は、聳え立つ20階建てのマンションを見上げて、腫れあがった口を微かに開けた。
「私の自宅ですが、5階に談話室がありまして」
篠崎がエンジンを消しながら言った。
「ほぼ誰も使わないので、そこでお話をお伺いしようかと」
言うと美智は納得したようにシートベルトを外した。
数歩離れてきょろきょろと周りを見回しながら付いてくるその様子に、篠崎は確信した。
この女性は身近な人物……おそらくは夫から、日常的に暴力を受けている。
暗い記憶が頭を過る。
口の中に苦い何かが上がってきて、篠崎は小さく舌打ちをした。
エントランスを抜け、エレベーターに乗り込むと、美智はボタンに手を掛けた。
「篠崎さんのお部屋は、何階なんですか?」
篠崎はそこで初めて、この女性がきちんと自分の名前を憶えていたことに驚いた。
話したことなど、数年前に数度しかなかったはずだが……。
「私の部屋は13階ですが……」
言うと彼女は細く白い指を「13」に合わせた。
「……あの」
「怖いので。人が来る可能性のあるところは」
美智はこちらを振り返った。
「たとえ、“ほぼ誰も使っていない”ところでも、怖いので」
「…………」
その心情は理解できた。
ここで篠崎が「誰かが使っているところを見たことがないですがね」と言っても、「“使用中”のプレートもあるんですよ」と説明しても、無駄なのだろう。
篠崎は一旦ポケットにしまったキーケースを再び取り出すと、上がっていく階数表示を見上げて、小さく息をついた。
部屋につくと、美智は無遠慮に部屋の中を見回した。
「確か、紫雨さんもマンションに住んでるって聞いた気がする」
言いながらリビングまで進むと、大窓から街を見下ろしている。
「こういう素敵な部屋を見るとわかる気がしますね。家好きであればあるほど、戸建の家になんか住まない理由が」
言いながら、口の端を痛そうに歪めながら彼女は微笑んだ。
「そんなこともないと思いますけど」
篠崎は微笑みながら返した。
「私も紫雨も独身なので、いつ異動になるかわからないのです。下手に家を建ててしまい、数年でも空けてしまうと、せっかく建てた家も劣化しますからね」
「セゾンさんの家はそんな簡単に劣化しないでしょ」
どこか投げやりに言う美智に、静かに返した。
「いえ、家というのは、家主がいないと意外と簡単に劣化してしまうんですよ。冬は家主が温め、夏は家主が室内を涼しく保つことで、家も長生きするんです」
「へえ。そうなの」
美智はどこかうんざりした顔で、窓の外を見つめていた。
「何か、温かいものでもいかがですか」
促すと、美智は大人しくそれに従い、その軽そうな身体をソファに沈めた。
「……本当は結婚の前から気づいていたんです」
出されたココアを半分ほど飲み終えた美智は、いささか唐突に話し出した。
「結婚を前に、二人で家具を買い揃えていた時でした。姿見鏡ってあるじゃないですか。私が欲しいっていったのに、主人は“どうせ家を建てたらシューズクロークについてるんだからいらないだろ”って。
私、“わかってないなー、女性は姿見鏡で全身をチェックしとかないと、スタイルが悪くなるのよ“って笑ったんです」
カップの縁を見つめていた美智は、視線を正面に座る篠崎に上げた。
「……今の私の言葉を聞いて、どう思いました?篠崎さん」
「どう、とは?」
言われている意味が分からず、篠崎は少し首を傾げた。
「どこかムカつきましたか?それこそ、ボコボコに殴ってやりたいほどに」
「…………」
篠崎は事の深刻さに、思わず息を吸い込みながらソファに身を沈めた。
妻がお洒落をすることを嫌がる。
自分の意見を否定する妻に攻撃的になる。
DVやモラルハラスメントを行う夫に顕著に見られる特徴だ。
「その時に別れておけば、こんなことにはならなかったのに……」
言いながら美智は顔を覆った。
「血を流してる私を抱きしめて、私の何倍も泣くんですよ。ごめんね、ごめんねって。もう二度としないからって」
それもまた暴力をふるう男性の特徴だ。
篠崎はもう二度と関わりたくなかった話題に、深いため息をつきながら、自分を落ち着かせるためにひじ掛けに置いた両手の指を、腹の前で組んだ。
「だから、ずるずると…。もうしないって約束を、あと一回信じてみよう。あと一回だけ許してあげようって……」
こめかみあたりがピクピクと震えてくる。
「これじゃダメだってわかるんですけど…。いつ、どのきっかけで抜け出せるか、わからなくて。逃げて誰かを頼る自分も想像できなくて。東北に住む、夫のことを気に入っている両親にも、言い出せなくて。でも、家にいたら。あの二人の家にいたら、息が出来なくなって。でも、知らない土地にとか、行く勇気もなくて、だから、その展示場をウロウロしてしまって……」
言葉が切れない美智を篠崎は見つめた。
「このままじゃ……このままじゃ、どっちか、死んでしまう。私が殴り殺されるか、夫が私に刺されて殺されるか、どっちかだって、思ってても、どうしていいか、どうしたいのか、わからなくて……」
涙も鼻水も全部、化粧っ気のない顔を流れていく。
「夫が…夫が、優しくなってくれれば。せめて暴力だけやめてくれれば、それで、いいのに……」
「…………」
残念ながらそれは、警察に駆け込むことよりも、夫に離婚届を置いて実家に逃げることよりも、難しい。
暴力はとめられない。やめられない。
それは美智にも、夫自身にも……。
今の現状から、そして暴力をふるう夫から逃げるには、彼女自身が奮起するしかない。
篠崎は泣き崩れる美智の細い肩を見ながら、数年前、目の前で同じようにして泣いていた女性を思い出していた。
通じるだろうか。彼女に。同じ手が……。
篠崎は小さく息を吐くと、立ち上がり、ソファの後ろから回り込んだ。
そして彼女の隣に座ると、そっと肩を抱き寄せた。