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第1節 千崎雪絵『百香のお願い』
「ねえ、ママ……」
食後の食器を片付けていた雪絵の背中に、遠慮がちな声がかかる。
振り向くと、娘の百香が立っていた。
雄二はすでに仕事へ出た後で、家には雪絵と百香の二人きりだった。
「パパがいると話しづらかったから……ママと二人きりになれるの待ってたの」
ソワソワした様子で近付いてくる百香は、いつの間にか雪絵の肩に届きそうなくらい背が伸びていた。ついこの前まで腕の中にすっぽり収まるほど小さかったはずなのに――子どもの成長というのは本当に早い。
「……パパに言えない話って……なぁに?」
雪絵がそう尋ねると、百香は少しもじもじしながら視線を落とした。
それからちらりと玄関の方を見る。
そこに父親の姿が本当にないことを確かめてから、声をひそめた。
「……あのね、ママ」
「うん?」
「お友だちがね、中通りの方にすごく可愛い下着のお店があるって言ってたの」
「下着?」
思わず聞き返すと、百香の頬がほんのり赤くなる。
「なんかね……スポーツブラとかも、すごく可愛いんだって」
言いながら、自分の胸元を少しだけ気にするように手で押さえた。
最近になって、百香の体にも少しずつ変化が出始めている。そろそろそういうものを用意してやらなければならない時期だとは思っていた。
「お友だちのお姉ちゃんが、そこで働いてるらしくて……」
百香は遠慮がちに雪絵を見上げる。
「私も……行ってみたいなって思って」
小さなお願いだった。
けれど、雪絵はその言葉を聞きながら、ふと胸の奥が柔らかくなるのを感じていた。
赤ん坊だったこの子が、こんな相談をするようになるなんて。
「そうね」
雪絵は少し笑って頷いた。
「今度、見に行ってみましょうか」
百香の顔がぱっと明るくなる。
「ほんと?」
「ええ」
「やった!」
嬉しそうに笑う娘が、ちょっとだけ黙って「あの……」とつぶやく。
「ん?」
「パパには内緒にしてね?」
恥じらう娘の顔を見ながら、雪絵は「もちろんよ」とうなずいた。
男親には、恥ずかしくて言えないこともあるのだろう。
(百香を生んで良かった……)
この子の成長を見ていられることが、いまの雪絵にとっては、何よりも幸せなことだった。
***
数日後。
百香を学校へ送り出したあと、雪絵は一人で街へ出ていた。
――中通りの方に、すごく可愛い下着のお店がある。
少し恥ずかしそうにそう話していた百香の顔を思い出しながら、雪絵は通りをゆっくり歩く。
百香と一緒に来る前に、一度自分の目で確かめておこうと思っただけだった。子供の目には可愛らしく見えても、大人の目で精査したらセクシーすぎるラインナップしかないかもしれない。
まだ十歳とはいえ、百香には先日初潮もきた。
もう、そういうものが必要になる年頃なのだ。
店の雰囲気や品揃えを見ておけば、娘を安心して連れてこられるだろう。
そう思って中通りへ足を向けたのだが……。
ふと、雪絵は足を止めた。
通りの一角に、白を基調にした上品な店構えが見えたからだ。
ガラス越しに見える店内は明るく、品よく整えられていて、いかにも若い娘が憧れそうな可憐さがある。
入口の上に掲げられた看板へ、雪絵の視線が吸い寄せられた。
――ランジェリーショップYURIKA。
洒落たローマ字の店名だった。
「ここかしら……」
百香が言っていたのは――。
そう思った、その時だった。
不意に、店の前へ一台の車が滑り込むように停まった。
見慣れた車だった。
雪絵の呼吸が、わずかに止まる。
運転席から降りてきたのは、夫の千崎雄二。
そして後部座席から姿を現したのは――もう二十年近く顔を見ていない男。
三井隆司だった。
***
家に戻った雪絵は、しばらくリビングのソファに腰を下ろしたまま動かなかった。
中通り。
ランジェリーショップ『YURIKA』。
そして――そこへ現れた雄二と三井。
普通に考えれば、その店舗が雄二と三井の所属する『相良組』の息がかかった店なのだろうとは思う。
でも……。
胸の奥に残った違和感を振り払うことができないまま、雪絵はゆっくりとスマートフォンを手に取った。
検索窓に打ち込む。
ランジェリーショップ YURIKA。
すぐにいくつかの検索結果が並んだ。
その中でも上位に表示された公式サイトらしきページを開く。
白を基調にした、上品で洗練されたデザインのサイトだった。
先ほど見た店舗の雰囲気とも合致する。
商品紹介。
コンセプト。
店舗情報。
雪絵は、指先で画面を静かにスクロールさせていく。
ページの下部に、小さく並んだリンクの中に【特定商取引法に基づく表記】という文字を見つけた。
雪絵はそれをタップする。
表示されたのは、事務的な文字ばかりの簡素なページだった。
――運営会社
――所在地
――電話番号
――営業時間
淡々と並ぶ情報を、雪絵は何気なく指でなぞるように読み流していく。
そして、ふと手を止めた。
ページの下の方に、小さく記された項目。
――店舗責任者
その横に書かれていた名前を、雪絵はしばらく見つめていた。
――桐生百合香
ゆりか。
その響きを、頭の中でゆっくりなぞる。
百合香。
……百の香り。
雪絵は、スマートフォンの画面を見つめたまま、小さくつぶやいた。
「……百香」
そうして、ゆっくりと画面を閉じた。
桐生百合香。
その名前を、胸の奥でもう一度だけなぞる。
けれどそれ以上は何も考えず、雪絵はゆっくりと立ち上がった。
夕飯の支度をしなければならない。
もうすぐ――可愛い百香が帰ってくる。
「ママ、ただいまー!」
「おかえりなさい、百香」
雪絵は、いつものように娘を出迎えると、笑顔でその名を呼んだ。
コメント
2件
ああああ! こんな形でバレちゃうなんて!!
いや……これ、めっちゃ怖い回じゃないですか!? 最初の百香とのほっこり母娘話からの、中通りでの夫・雄二と三井の登場、そしてまさかの「桐生百合香」の名…。店の名前と娘の名前、そして「百の香り」って連想した時点で背筋がゾワッとしました。家族の温かさと不穏な空気の切り替えが天才的すぎる🔥 次が待ち遠しいです!