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狭いワンルームマンションの床で、銀色の怪物がのたうち回っていた。
「……っ、が……はっ、抜け、ねえ……!」
黒地に銀の筋肉が躍るヒーロースーツ。腰には『idiot』という文字が刻まれたベルト。
その中に閉じ込められた男は、爪が剥がれるほどにマスクの縁を掻きむしった。
設計ミスか、それとも塗料と接着剤の化学反応か。自作のスーツは、男の肌に吸い付いたまま、一ミリも動かない。
三日目。
風呂場の角に頭を叩きつけ、マスクを割ろうとした。だが、樹脂製の銀仮面は無情にも頑丈で、首の骨が鳴る鈍い音が響いただけだった。
五日目。
スーツの中は汗と脂の腐った臭いで満ち、全身を猛烈な痒みが襲う。だが、白い手袋に覆われた指先は、どこも掻くことができない。
「水……、飲ませろよ……」
銀色のマスクに固定された口は、ニッコリと完璧な笑顔を浮かべたまま、ストロー一本すら通さなかった。
そして、
七日目。
死の淵で、男の中で何かが「パチン」と弾けた。
熱湯に浸されていたような不快感が、スッと引いていく。喉の焼け付く痛みも、未来への絶望も、すべてが他人事のように遠ざかった。
脳が、生きるために感情を殺した。
「……ああ、面倒くせえ」
男は起き上がり、鏡を見た。
そこには、相変わらずニッコリと笑う銀色のヒーローが立っていた。
彼は、机に放置されていたタバコを一本手に取ると、マスクのわずかな隙間にねじ込んだ。
「……どうにでもなるか」
紫煙が銀の笑顔から細く漏れ出した。
アホライダーは、外を歩いていた。
黒いスーツに赤いマフラー。銀の触覚を揺らして歩くその姿は、現代の街並みで異様なほどに浮いている。
通りすがりの若者がスマホを向け、「ヤバいコスプレだw」と笑い声を上げる。
だが、アホライダーにはそれすら届かない。
「お前ら、うるさい。……面倒くせえ」
声はマスクにこもって、誰にも聞き取れなかった。
彼はただ、自分が「生きている」のか「死んでいる」のかを確認するように、目的もなく歩き続けた。
夕暮れ時。住宅街の角にあるゴミ捨て場の横で、一人の老婆が立ち尽くしていた。
崩れた段ボールの山。散らばった生ゴミ。老婆は腰を押さえ、困り果てた顔で周囲を見渡している。
アホライダーは、その横を平然と素通りしようとした。
「ちょっと、あんた!」
老婆の鋭い声が、背中に刺さった。
アホライダーは足を止め、銀の笑顔のまま首だけを傾けた。
「……なんだよ、お前」
「そんな格好して。見ればわかるでしょ、これ、運ぶの伝ってよ。あんた、ヒーローの格好して……優しさとかないの?」
「優しさ……?」
アホライダーの思考が、微かに揺れた。
優しさ。そんな言葉、七日間の地獄のどこにも落ちていなかった。自分を閉じ込めたこのスーツのどこにも、そんな機能は付いていない。
「優しさって、何だ。……食えんのか、それ」
「何言ってるのよ。あんた、人として中身は空っぽなの?」
中身は空っぽ。
その言葉は、ある意味で正解だった。今の彼には、嬉しいも悲しいも、苛立ちも残っていない。ただ、老婆の言う「優しさ」という正体のわからないものが、ほんの少しだけ気になった。
「……面倒くせえな」
アホライダーは、マスクに刺さったタバコを指で弾き飛ばした。
そして、老婆にも、散らばったゴミにも目もくれず、夕闇の向こうへと歩き出す。
「おい、あんた! どこ行くのよ!」
「探しに行くんだよ。……お前が言った、その優しさってやつを」
赤い複眼が、沈む夕日を反射してギラリと光る。
「どうにでもなるだろ。……たぶん」
銀色の笑顔を浮かべたまま、アホライダーは「人間」を取り戻すための、最初の一歩を踏み出した。