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紺色混じりの黒い空。
そこでは無数の星々が爛々と輝くも、欠けた月には誰も敵わない。
闇に飲まれた街並みは、怖いほどに静黙だ。
昼間は人々の往来で賑わう大通りも、今は足音一つ聞こえない。
街灯が自己を主張するように石畳の道を照らす。命尽きるその瞬間まで、与えられた使命を果たすつもりだ。
ここは真夜中のイダンリネア王国。
昨日に別れを告げ、明日の訪れを待つために、国民は寝息を立てている。
もっとも、全員ではない。
起き続けている者。
これから眠る者。
そして、その少女。
静かすぎる病室に、小さなうめき声がひっそりと響く。
「……う」
発生個所は、唯一存在するベッドの上。そこにはミイラと見間違う患者が眠っており、その表情は苦しそうに歪んでいる。
パオラ・ソーイング。青髪がふけだらけの理由も、極限まで肉が削げ落ちているわけも、そして死にかけている原因も、全て父親のせいだ。
見捨てられ、拾われ、今に至る。
そして、ついにその瞬間が訪れる。
「だ、だいじょ……、アンジェさん!」
「落ち着きなさい。薬を投与して、点滴もしてる。後はもう、見守るしかないの」
取り乱す少年の名は、ウイル・ヴィエン。灰色の短髪がわずかに逆立っている理由は、パオラのベッドに突っ伏していたからだ。
医者のアンジェは冷静に立ち上がり、後方のキャビネットへ向かう。
そこには聴診器が置いてあり、それを首にかけ、患者の元へ歩き出す。
「どんな感じ、ですか?」
「うーるーさーいー」
焦る気持ちがどうしても口を動かしてしまう。何の罪もない子供が生きるか死ぬかの瀬戸際なのだから、ウイルとしても気が気でない。
もっとも、この世界は残酷だ。人間に対し温情など抱いていない。
その証拠が魔物という存在だ。邪魔者を駆逐するため、大陸中でうごめいているのだから、人間の命などいつ消え去っても不思議ではない。
生きるか、死ぬか。
殺すか、殺されるか。
見守るか、見守られるか。
なんにせよ、今日この瞬間、小さな灯が消え去ることに変わりはない。
「ここまで……のようね」
医者からの最終通告だ。
別れを告げるしかない。そういう時間が、訪れてしまった。
「そんな……」
「むしろここまで頑張った方よ。今だって心臓は止まりかけている。血液が循環されていないに等しいのだから、こうして苦しめていること自体が、つまりは意識がある時点で奇跡なの」
人間としても生物としても、この少女は普通ではない。
その結果、死ぬタイミングが先延ばしになっただけなのだから、彼女にとっては単なる悲劇だ。
「なんで、なんで……」
「最初から手遅れだったの。脈だってもう十秒に一回。こんなの、私でさえ初めて診るわ」
正常な健康状態なら、一秒に一回程度か。パオラは仮死状態と言っても過言ではなく、普通ならそんな工程を踏まないのだが、彼女の特異な生命力が自身をどこまでも苦しめる。
「が、がんば……。くぅ」
がんばれと言いたかったが、ウイルは言葉を飲み込む。そんな応援に意味がないことは重々承知しており、混乱しながらも一方で冷静に判断してしまった。
「……あ、う、おとう……さん」
パオラは苦悶の表情を浮かべながら、求めるようにささやく。その瞳は焦点が合っておらず、天井を見ているのかさえ不明だ。
傭兵の聴覚をもってしても、小さすぎる声量。枯れ尽くした身体同様、その命もついに底をついてしまう。
ウイルは涙を浮かべながら、細すぎる手をそっと握る。
「君のお父さん、まだ見つけられてはいないけど……。だけど、手がかりは得られたから、もう少しだけ時間を……。だから……」
取調室で知りえた情報は、パオラの父親がどこにいるかを明確には示してしない。それでも一歩ないし二歩は進められたという手応えはあり、明日はさらなる前進のため、聞き込みを継続するつもりだ。
この少女が亡くなろうと復讐のために探すつもりでいるのだが、だからといってこれから起こる不幸を許容出来るわけではない。
心が痛い。
なにより、悲しい。
大粒の涙が、ウイルの頬と泣きボクロを濡らし続ける。
(人生はこれからだろうに……。親の温もりも、美味しいご飯も、遊ぶ楽しさも知らずに、この子は……。残酷過ぎるよ、そんなの……)
少女の手のひらは骨のように硬く、そして冷たい。握り返す余力すら残ってはいないのだろう、少年が一方的に包むだけだ。
「パオラちゃん、聞こえる? ほら、あなたも。声は聞こえ続けるものなの」
医者が桃色の長髪を垂らしながら覗き込むように話しかける。もはや治療でも何でもないが、彼女らに残された行為はこの程度だ。
「お、お兄ちゃんならここに、いるから……。必ず君のお父さんを見つけてくるから……。連れて……くるから」
ウイルは絞り出すように言葉を紡ぐも、最後まで言い切れない。見守ることしか出来ない無力さが、それを遮ってしまう。
(この子が……、この子が何をしたっていうんだ! 死ぬのは父親の方だろうに! ちやほらされて、今もどこかで魔物狩りを楽しんでるそいつだろ! おかしい……、おかしいってこんなの……。不憫過ぎる)
不公平だ。
食事を与えられず、最低限の教養すら持たない娘。
等級六という肩書を得たことから、祭り上げられた父親。
もはや、両者の関係は親子ですらない。
被害者と加害者。
死にゆく者と殺した者。
それをわかっているからこそ、ウイルは悔しくてたまらない。
「……こほっ、こふ」
空気の塊がパオラの口から断続的に吐き出される。肺の機能が停止しかけており、呼吸すらもままならない。
(女の子一人救えないなんて、私も医者失格ね。いっそ廃業しようかしら)
アンジェの心にもヒビが入る。この結末は最初からわかってはいたが、それでも一途の可能性を捨てきれずにいた。
最初の診断から、医学的にはこの着地地点以外にありえない。
新しい薬を発明しようとも。
抗うように点滴を打とうとも。
少女の命は今日、この場所で散ってしまう。優秀な医者であればこそ、わかっていたことだ。
「おと……さ……」
「ごめん……、ごめん!」
パオラは真っすぐ天井だけを見つめている。その瞳に力はなく、唇を動かすことさえ精一杯だ。
もはや、ウイルには詫びることしか出来ない。
もっと早く見つけてあげれば良かった。
父親を今日中に見つけられなかった。
この子を救えなかった。
様々な感情が混じり合った結果、残された選択肢として謝罪だけが残る。
(エルさんも救えなかった! この子も……! やっぱり無力なんだ、僕は……)
今にも壊れそうなその手を、少年は悔しそうに握り続ける。
こぼれる嗚咽は一つ。
押し黙る吐息も一つ。
三つ目はもう聞こえない。
それが何を意味するのか、医者でなくとも十分理解可能だ。
「そんな……、そんなそんな……!」
「く……」
ウイルは取り乱し、アンジェは静かに顔を背ける。
受け入れがたい現実だ。それが、十六歳の少年に重く圧し掛かるのだから、大粒の涙は零れ落ち、白いシーツをいつまでも濡らし続ける。
(なんで、こんなことに?)
悔やんでも悔やみきれない。
意識は混濁し、歪む視界ごしにパオラを眺めようと現実感は見当たらない。
終わった。
終わってしまった。
何が終わりを告げたのか、それすらもわからなくなった今、少年はその場から動けず、茫然と死体を見つめ続ける。
魔物を殺すことには慣れていようと、この状況には耐えられない。
思考は停止し、もはや何も聞こえない。
そのはずだった。
(大丈夫)
ウイルの頭の中に、透明感をまとった声が走る。
幻聴ではない。
妄想でもない。
(パオラちゃんなら大丈夫)
女の声は止まらない。
(ほら、見て。やっと、体の隅々にまで行き届いたの。ウイル君とおっぱいちゃんのおかげ)
(いったい何を……?)
ウイルと話者は赤の他人ではない。知り合い以上の何かではあり、その上、意思疎通が可能だ。
(そういえば、まだ教えてなかったっけ? 私の能力は……)
(ちょ、待って待って! びゃ、白紙大典とこの子に何の関係が⁉)
(うん、関係ない。だけど、わかるの。私の能力は生あるものの封印。だからなのかな、特定の人達の命が炎のように揺らめいて見える。パオラちゃんのも……ね)
意味不明な独白だ。
そうであろうとなかろうと、根拠のない慰めなど不要であり、少年は苛立ちと共に問いかけ続ける。
(だったら! 何を言いたいのさ……)
(この子なら大丈夫。ウイル君が朝ごはんを食べさせてあげたから……。おっぱいちゃんの薬を飲んだから……。点滴? についてはわからんちんだけど。だから、もう泣かないで)
頭の中のそれはやさしく答える。
慰めるために。
事実を伝えるために。
間に合ったことを告げるために。
ウイル達の働きが、無駄ではなかったと教えるために。
(何の、ことを……)
(今は仮死状態。体がビックリしちゃったのかな? 美味しいパンを食べて、甘いジュースを飲んで、元気いっぱいになれる薬を飲んで、大事なものがいっぱい入ってきちゃったもんね。吸収するのに時間がかかっちゃっても無理ないよ。だけど……)
(だけど?)
体を持たぬ存在だからこそ、わかるのかもしれない。
パオラという小さな器の中で起きている化学反応。それは、ここからが本番だということを。
(栄養がついに全身に行き渡った。ほんと、すごい女の子だよ。ほら、生きたいっていう本能が爆発しそう。さぁ、声をかけてあげて)
目覚めの時だ。後は、ほんの一押しでその瞬間は訪れる。
「パ、パオラ……。お兄ちゃんがわかる?」
体を乗り出し語り掛けるウイルと、何も知らぬがゆえに目元を押さえるアンジェ。
そして、脈動を再開させる、小さな心臓。
「……お、にい、ちゃん」
目覚めるように瞳が開かれ、ささやくようにその声が響く。
「え⁉ どういう……」
にわかには信じられない状況だ。女医は耳を疑うも、眼鏡越しの少女は先ほどまでは明らかに異なる。
先ずは肌。カラカラに乾燥していた茶色が、薄っすらと赤みを帯びている。血の気が通った証拠だ。
目にも力が宿っており、今はウイルをしっかりと捉えている。
「よく、がんばったね……。本当に、本当に……!」
少年は包み込むようにその手を握る。
少女もまた、ゆっくりと指を折り曲げる。
「何が起きたっていうの? 私の診断が間違っていた……?」
アンジェは眼前の奇跡を素直に喜べない。誤診だったのなら己の未熟さを笑えば済む話だが、今回はそうでないと胸を張って言える。
医者として、パオラの体調を正確に見極めたはずだった。
慌てて脈と心臓の鼓動音を調べるも、異常はどこにも見当たらない。それどころか、健康そのものだ。血色が戻ったことを除けば、ミイラのような見た目のままだが、この少女に不調の兆候は見受けられない。
(白紙大典、これっていったい……?)
ウイルの問いかけは独り言ではない。それを証明するように、彼女は持論を話し出す。
(やっぱり、そうなのよ。パオラちゃんは……、超越者)
(この子が⁉)
(うん、そうとしか考えられない。だって、生命力の大きさがあの人にそっくりだったもん。しかも、ただの超越者じゃない……)
頭の中での議論でしかないのだが、少年は驚きの余り脱力してしまう。そのまま椅子に腰かけるも、彼女の説明は止まらない。
(生まれながらの超越者)
(そんな⁉ 王族や英雄以外に⁉)
(驚きだよね。だけど、薄々気づいてはいたんでしょ? そうでなければあり得ないもの……)
(そうかも……、しれないけどさ)
人間はひ弱な存在だ。魔物はおろか野生動物にすら抗うことは難しい。
相手が猫やリスなら話は別だが、虎や熊となるともはや絶望的だ。
武器や人数を揃えればなんとかなるのかもしれない。人間には知恵があり、戦略を考えることが可能な稀有な存在なのだから、そういった利点を活かしてこそと言えよう。
それでも太刀打ち出来ない脅威が、魔物だ。
樹木を切り裂く爪。
骨すら砕く牙。
岩よりも硬い鱗。
不可能だ。人間という矮小な生き物がこれに敵うはずもない。
逃げることもままならず、殺される。
凶器を握って挑もうと返り討ちは避けられない。
人間は狩られる側だ。
事実、彼らは滅ぼされかけた。
それでも抗い続けた結果が、今だ。
イダンリネア王国の歴史は千年を超え、今も魔物を狩りながら栄えている。
そう、人間は魔物に立ち向かえる。
それが傭兵であり、軍人だ。
最前線で戦う者がいるからこそ、王国の民は安らかな一生を過ごせている。
しかし、現実はそこまで甘くはなかった。
傭兵の研ぎ澄まされた戦術を跳ねのけ、軍人の集団攻撃すらも一掃する強敵がこの世界には存在する。
人間に弱者と強者がいるように、魔物の強さも画一的ではない。
その一つが巨人族なのだが、その上澄みはもはや天災と言っても過言ではない。
腕の一振りで軍人達を薙ぎ払い、そこが森なら木々すらも消す飛ぶほどだ。
人間離れした傭兵でさえ、そういった化け物には抗えず、一方的に蹂躙されその命を奪われる。
絶望的だ。人間側に勝機などありはしない。
そのはずだった。
(パオラちゃんは本物の超越者。私達は、ついに見つけることが出来たのかも……)
(え、まさか⁉ この子が僕達の探していた……?)
(あの女を倒せる、唯一の存在)
超越者。その名の通り、人間を越えた超常の強者だ。規格外の身体能力と生命力を持ち合わせ、その実力は魔物すらも恐怖させる。
拳は山をえぐり、脚力ば音速越えに伴う衝撃波を発生させてしまう。
超越者のあり様は三種類に分類出来る。
長い鍛錬の果てに限界を突破した者。
生まれた時から壁を越えている者。
そして、未確認のもう一つ。
過程はどうあれ、極少数の彼らがいるからこそ、人間は駆逐されずに済んでいる。
魔物自体が常軌を逸した存在だが、さらに突出した化け物がいようと問題ない。まるでバランスを保つように、人間側にも同等の手駒がいるのだから。
それが超越者であり、この少女なのかもしれない。少なくとも、ウイルの中の彼女はそうだと断定する。
「超越者……」
「え? それって……」
少年のつぶやきが医者を驚かせる。
「この子は超越者なんだと思います」
「なるほど。確率的にはありえないのだから、にわかには信じ難いのだけど。それでも、そう考えれば辻褄が合う。医学的には死んでなければおかしいのに、生き続けているという事実がその証明……か。そうは言っても、私でさえ初めて出会うわ」
アンジェが唸る理由は、その存在が非常に稀だからだ。
本来ならば、限られた血筋の元にしか生まれない。それが王族であり、英雄なのだが、この少女は一般市民だ。
もっとも、父親は制度初の等級六に至った傭兵であり、そういう意味では遺伝の可能性は捨てきれない。
「生まれた時から超越者……。すごいとしか言いようが無い」
(だよねー。運命感じちゃう。ハクアに早く報告してあげたら? 見つけたって)
ウイルと声だけの彼女は、実は何年もの間、こういった人間を探していた。
頼まれたからであり、そうしなければならない理由があるのだが、それがパオラなのかもしれない以上、驚きを隠せずにいる。
まだ決まったわけではない。
それでも、そうとしか思えない。
この少女との出会いには、そういった何かを感じずにはいられなかった。
(そういえば、白紙大典がさっきから言ってる、おっぱいちゃんってアンジェさんのことだよね?)
(うんー、だって大きいし)
(エルさんほどじゃないと思うけど……)
(えー、けっこう良い勝負してると思うよ。白衣で体のラインが分かりにくいけどさー)
そういうものか。ウイルは静かに納得しつつ、アンジェをちらりと盗み見し、すぐさま少女の方へ視線を戻す。
「おにいちゃん」
「ん? どうしたの?」
パオラとウイル。両者の視線が優しく交わった瞬間、この少女は人間らしく主張する。
「おなか、へった……」
果たして何年間、そう思い続けてきたのか。それを考えるとウイルの目頭が熱くなるも、今は泣いている場合ではない。
「わかった。これで……、良いかな?」
「ダメに決まってるでしょ。鞄から何を取り出すかと思ったら、干し肉って。もっとマシなもの出しなさいよ」
「これしかないです。この一枚が最後のご飯です」
「塩分多すぎるし、そもそもそんな硬いもの消化に悪いし、あらゆる面で却下。ちょっと待ってなさい。私が流動食作ってくるから……」
ある意味でドクターストップだ。傭兵の差し出した食べ物は検査に合格せず、マジックバッグへ戻される。
代わりにアンジェが立ち上がるも、その言動は医者であると同時に保護者のようだ。
それを受け、ウイルはパオラにささやく。
「お母さんみたいだね」
「おかあさん……」
そのやり取りを、彼女は当然のように見逃さなかった。
「だったら……、あなたがお父さんね。あ・な・た」
「おとうさん……。おにいちゃんが、おとうさん?」
(墓穴掘ったな、これ……)
反転し、心底嬉しそうに少年をからかう女医。
ベッドに寝たまま、目を丸くする少女。
そして、失言を猛省する傭兵。
こうなってしまっては、嵐が去るのを待つしかない。アンジェの機嫌を損ねるわけにもいかず、少なくとも夜食が用意されるまでは辛抱だ。
「私もついにお母さんか。あ、二人目、欲しいな」
「ふたりめ?」
「パオラはまだ知らなくても大丈夫だよ。あの人の妄想もとい発作みたいなもんだから」
この日、運命の出会いは果たされた。
ウイルは仲間を連れ去られ、パオラは父親に見捨てられた。似て非なる境遇だが、これから歩む道はついに重なる。
二人の旅はここから始まる。
少女の父親を探すため。
さらわれた相棒を取り戻すため。
ウイル・ヴィエンは傭兵らしく、この大陸を駆ける。