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『強壮の都の祭事』という書物は神聖ローマ皇帝フェデリーコ二世(フリードリヒ二世)が第六回十字軍へ出向いた際に、エルサレムにいたサラセン人(中世ヨーロッパ世界の人々がイスラム教徒を指して言った呼称)の哲学者から献上された。アラビア語で書かれた本であり、当時のヨーロッパの君主の誰もが読めそうにない一冊という気がするけれど、フェデリーコ2世はギリシア語、ラテン語などヨーロッパの言語のほかにアラビア語にも堪能だった(彼は六つの言語を操れた)ので、それを自分で読んだ。そこに書かれた内容に彼は驚いたとされる。<強壮の都>と称される大都市がエルサレムの遠方にあり、その街では様々な種族が平和的に共存して暮らしていた、という記述に彼は興味を抱いた。それは彼自身の目指すところであったからだ。彼の宮廷にはヨーロッパ人のキリスト教徒のほかにユダヤ教徒がいたし、イスラム教徒もいた。黒人の将官も軍に在籍していたとの話も伝わっている。コスモポリタンな宮廷と多国籍軍の所有者であった彼は、自分の理想とする王都の姿を<強壮の都>に見出した。そこへ是非とも行きたいと願ったけれど、第六回十字軍の将帥として立場がある。彼はエルサレム奪還のためエルサレムを統治していたアイユーブ朝のスルターンであるアル=カーミルと対決しなければならなかった。とはいえ、エルサレム奪還は戦闘ではなく交渉で行われる運びとなっていた。イスラム文化への理解を示すフェデリーコ二世にアル=カーミルは好印象を抱き、平和的なエルサレム返還となったのである。そして、血を流さずに入場したエルサレムで彼は『強壮の都の祭事』を目にしたわけだ。次はエルサレムの遠方にある<強壮の都>へ行きたい! と願うフェデリーコ二世だったが、今度はイタリアでローマ教皇との闘争が始まってしまい、その夢は夢に終わった。<強壮の都>に関する記載が文献に登場するのは十六世紀になる。ローマ教皇十世に仕えたムーア人(アフリカ北西部に暮らすアラビア語を話すイスラム教徒に対するヨーロッパ人の呼び名)レオ・アフリカヌスが<強壮の都>の噂を語ったのだ。その時代では既に廃墟と化している、とレオ・アフリカヌスはエジプトで聞いたそうである。これ以降、歴史から<強壮の都>に関連する話は消えてしまう。まるで砂上の楼閣か何かのようである。最初から幻だったのかもしれない。