ポストの中に、そいつは無造作に差し込まれていた。
夕方、買い物袋を片手に帰ってきた僕は、何の気なしに新聞の束を引っ張り出して、それに挟まっていた白い封筒に手を止めた。
差出人の名前を見たとき、心臓が一度だけ強く跳ねた。
「……モーア」
ハインリヒ・モーア。
中学のときからずっと一緒だった、あのモーアの名前。
けれど、それはもう過去形で語るべきものだった。
静かに封を切ると、金の箔押しがされた紙が姿を見せる。
ご結婚を記念し、ささやかな披露宴を行います。
ぜひご出席賜りますようお願い申し上げます。
日時、場所、そして差出人の名前が並ぶ。
モーアと、誰か。
知らない名前だった。女の人のような響きだった。
心のどこかが、急に冷たくなった。
「……行くわけないだろ、こんなの」
ポツリと呟いた声は、誰にも届かず消えた。
行かない。行きたくない。顔なんて、見たくない。
なのに。
なぜだろう。
その夜、僕は眠れなかった。
欠席の返事も出せないまま、当日が来てしまった。
式場に向かう電車の中、僕はずっと自分を責めていた。
行きたくない。やっぱり、行かなきゃよかった。
でも、何かに突き動かされるように、僕はスーツを着て、ネクタイを結んで、気がつけば式場に向かうホームに立っていた。
「なんで来ちゃったんだよ……」
誰にも聞こえないように、そっと吐いた。
(後悔するに決まってるのに)
ガラスに映る自分の顔は、情けなく、目の下に薄く影を落としていた
白い花の匂いが強すぎて、胸の奥がつかえる。
会場の中は祝福に包まれていた。スーツ姿の人たち、綺麗なドレスの女性たち。みんな笑っていた。
僕だけが、取り残されていた。
「エーミール? 久しぶりじゃん!」
声をかけてきたのは、中学のとき同じクラスだったやつだ。
「……ああひさしぶり」
口角を上げて返すけど、笑顔は多分、ひどく引きつっていたと思う。
「まさか来るとは思わなかったよ、あのあとお前……」
言いかけて、彼は言葉を止めた。
気まずそうに笑って、それ以上は何も言わなかった。
「……うん」
「お前、元気だった?」
「それなりに。そっちは?」
何も言えず、僕はただ視線を下げた。
やがて、新郎新婦の入場が始まった。
ざわりと空気が変わる。拍手が一斉に上がった。
その中心にいたのは、やっぱり、モーアだった。
少し髪が伸びて、大人びたスーツを着ていても、僕にはすぐに分かった。
「……変わってないな」
言葉は心の奥に沈めたつもりだったのに、喉の奥がひりついた。
隣の誰かが涙ぐむ。
「すてきだね……」
僕は違う。
素敵なんかじゃない。
ただただ、苦しかった。
披露宴の途中、モーアが僕の方へと歩いてきた。
「――エーミール」
目が合った瞬間、僕は呼吸の仕方を忘れた。
「……モーア」
それしか言えなかった。
「来てくれて、ありがとう」
そう言ったモーアの笑顔は、どこまでも優しかった。
けれどその優しさが、今の僕には何よりつらい。
「別に、暇だっただけだから」
僕はわざと素っ気なく答えた。
「そう?」
モーアは笑って、少し首を傾げた。
「エーミールが来てくれるなんて思わなかったよ。あのまま、二度と会えないと思ってた」
「……こっちだって、同じだよ」
心が軋む音がした。
あの日から、ずっと胸の奥にしまっていた。
言えなかった言葉も、聞けなかった理由も。全部。
「でも、今日だけは来てほしかった」
「……なんで」
「けじめ、ってやつ。俺たち、変な終わり方したからさ」
変な終わり方。
確かにそうかもしれない。
でも僕にとっては、壊れた標本と一緒に、壊れたままの心が残っていた。
(まだ、終われてないんだよ)
「エーミール」
モーアがそっと近づいて、耳元で小さく囁いた。
「君が来てくれて、俺……すごくうれしいよ」
その瞬間、涙がこぼれそうになった。
でも、泣いたら全部崩れる。
だから、ぎりぎりの声で言った。
「……おめでとう」
その言葉が、自分の口から出たことが信じられなかった。
モーアはただ、にこりと笑って、うなずいた。
その笑顔に、かつての夏の空の色を思い出した。
眩しすぎて、目を逸らしたくなるほどに。
披露宴が終わって、会場の外に出たときにはもう陽が沈みかけていた。
街灯のオレンジ色が、スーツの袖に影を落とす。
早く帰ればいいのに、僕はまだ駅へ向かう足を止めたまま、式場の前に立ち尽くしていた。
(終わっちゃった)
モーアの結婚式。もう終わった。
笑っていた。綺麗だった。何もかも、僕の知っていたモーアと違って、だけどちゃんと同じで。
何も変わってないようで、全てが違っていた。
懐かしい香りが、する。
あのとき好きだったコロンと、少し似た匂い。もう誰のものでもないあの時間が、鼻の奥をついて、涙腺を刺してきた。
(泣くな、エーミール。馬鹿みたいだ)
指で目尻を拭って、僕はようやく歩き出した。
家に着いて、スーツをハンガーにかけた。
ネクタイを解いた指が、やたら震えていた。
(なんで行ったんだろうな)
そう、いつも仕事に備えて控えている酒を喉に通す。
本意じゃない。本当に本意じゃないけど、涙がポロポロ頬を伝う
招待状をもう一度見てみる。名前のところに、手書きで “来てくれたら嬉しい” って書いてあったのが思い出される。
あの文字は、間違いなくモーアのだった。
ピンポーン。
インターホンが鳴った。
時計を見れば、もう夜の九時を過ぎていた。
(宅配……?いや、そんな時間に)
ドアを開けると、そこにいたのは――
「……モーア」
疲れた顔をして、でも微笑みながら、モーアがそこに立っていた。
「どうして……」
「泣い…てるの?」
あっけらかんとした口調。驚いた表情でそういった
「嬉し泣きだよ…お前が幸せになってなんか嬉しくてね」
もちろん本心じゃないけど。そうじゃなきゃ自分が壊れてしまう気がしたから。
「……結婚式、ありがとう。ほんとに来てくれて、嬉しかった」
僕は何も言えなかった。
「入ってもいい?」
頷くしかなかった。靴を脱いだモーアが、リビングに上がる。
その言葉に、何かがほどけた気がした。
「……いま、後悔してるんだ。」
「僕もしてる。すごく」
僕は目を閉じて、深く息を吸った。
「でも、戻らなくていい。後悔することが、いまの君に必要なら」
「エーミール……」
モーアが僕の手を取った。
けど、僕はそっとそれを外した。
「今日は、ここまでにしよう」
「……うん」
ドアを閉めると、背中に何か温かいものが残った。
心のどこかがまだ、モーアを抱きしめようとしていた。
でもそれは、もう夢のなかだけにしておこう。
この夜のやわらかい羽音が、思い出を優しく包んでくれますように。
そして明日、少しだけまっすぐ歩ける自分になれますように。
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