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篠崎は傍らに鞄を置くと、ソファに倒れるように座り込んだ。
主人の帰宅に慌ててついた照明を、ローテーブルに置いてあったリモコンで消し、それを確認するように天井を仰ぐと、そのまま仰向けに凭れかかった。
『私と由樹はね、篠崎さん』
千晶の声が蘇る。
「同時に童貞と処女を失ったんですよ。そしてその失った分を、即座に2人で補給しあった。穴が開いた2人に、お互いが綺麗に嵌ったんです。だから……」
千晶は篠崎を綺麗な瞳で睨み上げた。
「私たちは1つなの」
篠崎は、由樹の壮絶な過去を、話すのも辛かったであろう彼女に敬意を払って、その目を正面から受け止めた。
「由樹があなたのことを好きなのは、ずっと前から知ってました。それこそ、展示場であなたをみた瞬間から」
「…………」
「いつか、こうなるんじゃないかと思ってました。由樹から聞くあなたは、とても彼のことを可愛がっていたようっただから」
「俺は……」
「坪沼とは、違いますか?」
ピンク色の小さな唇の端が上がる。
皮の手袋が軋むほど、千晶が手を握りしめる。
「あなた、3ヶ月前、由樹のこと、気色悪いって言って、時庭展示場から追い出したんでしょ?」
「それは……」
「それで今度は由樹を強引に襲って。何か違いますか?坪沼と」
「…………違う」
「唯一違うところがあるとすれば、由樹があなたのことを好きだった、その一点だけでしょう?あなたと坪沼は本質、同じなんですよ」
「違う」
「何も違わない!部下である由樹のことが可愛くて、可愛くて、おかしな欲望を持って彼を振り回して!!」
「違う!」
「結局、由樹のこと、好きでもなんでもないくせに!!」
「俺は!」
「何よ!?」
千晶の悲鳴のような声が、アパートの廊下に響き渡る。
「…………」
篠崎は、由樹よりも、自分よりも、何倍も、何十倍も辛い気持ちを押し込んでいる彼女を、改めて見つめた。
「……俺は新谷のことが好きだ。本気であいつを……」
自分で言ってから、唇に指をあてた。
その事実に唖然として口を塞いだ。
……俺、あいつに一度も……。
「……伝えてねえ……」
思わず呟いた言葉の意味を千晶はわかっているようだった。
張っていた肩から力を抜き、千晶は首を回した。
「……由樹は坪沼のことなんて忘れて、あなたに夢中になっていたと思います。でも、あなたに抱かれて迎えた朝に、悪夢のような記憶がフラッシュバックのように襲ってきた」
「…………!」
「彼は坪沼とのことを乗り越えられていない。脳内でも精神的にも消化できていない。だから身体が、心が、拒否反応を起こして、耐えられずに、やむ無く事情を知っている私のところに逃げてきたんです」
(……やむ無く?)
その言葉に僅かの違和感を覚え、篠崎は少し首を傾げた。
「ちなみに坪沼は、私が乗り込んだあの一件で噂が広がり、秋田の支社に異動させられています」
「……秋田?」
偶然の一致と言えど、その県名にザワッと鳥肌が立った。
「もし由樹が、悪夢のような記憶に、自分の過去に、ピリオドをつけようとしているなら」
「………秋田に行った?」
「わかりません。私の電話にさえ出てくれなくなったので」
言いながら千晶はコートのポケットから携帯電話を取り出しフリフリと振って見せた。
「ねえ、篠崎さん?」
千晶は数歩こちらに歩み寄り、寒空の下、すっかり冷えたであろう白い顎を小さく震わせながら言った。
「……勝負?」
「ええ。どこかに消えてしまった由樹が、私のところに舞い戻ってきたなら、私の勝ち。あなたが何を思っても、どんなに由樹のことが好きでも、彼のことは諦めてください」
千晶は身長差のある篠崎を見上げた。
「でも、もしあなたが、その前に由樹を連れ帰ってくることが出来たら。……私は、彼をあなたに託す」
「…………」
篠崎は一言一句を唇から吐くたびに、潤んでいく瞳を見つめた。
「もともと私たちは、普通の男女のカップルとは違う。私は一緒にいながらも、彼が生まれながらに男性を好きなのは理解して付き合ってきたつもりです」
その瞳からとうとう涙が一筋溢れ出した。
「彼が一歩を踏み出すその先に、彼のことを本当に想う男性がいるなら、私はいつ身を引いてもいい。その準備と心づもりは始めからしていました」
「…………」
「でもいくら想いが強くても、彼のことを救えないようなダサい男じゃ、ダメです」
もう一つの目からも、涙の筋が出来る。何本も、何本も……。
「だから、勝負。ね?いいですね?」
「…………」
「私のこと、ぶち負かしてください……!」
その健気に新谷を想う千晶の、世界中をいくら探しても、彼にとってこれ以上の女は見つからないだろうと断言できる彼女の、小さな肩に篠崎は優しく手を置いた。
千晶は、初めて篠崎に柔らかい笑顔を見せた。
◇◇◇◇◇
携帯電話を取り出す。
暗いリビングにその眩しすぎるディスプレイが浮かび上がる。
東北新幹線。始発は06:07だ。
そのまま電話帳を開き、通話ボタンを押した。
胸ポケットから煙草を取り出し、一本咥えると、ライターで火をつけた。
「……あ、ナベ?俺。悪いな、遅くに」
篠崎は長い息とともに白い煙を吐き出した。
「俺、明日……会社休むわ」