テラーノベル
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天界の片隅に暮らすソン・ギフンは、決して位の高い天使ではなかった。むしろ、彼の羽は白く透き通っているにも関わらず、周りからはどこか頼りなく見え、仕事でも小さな役目ばかり任されている。理由は明白だった。彼は人間界に興味を持ちすぎているのだ。
きっかけは、同じ天使であり親友のチョンベだった。彼は少し変わり者で、人間界で見聞きしたことを面白おかしく話しては、周りを笑わせる。それがギフンが住んでいるところでは普通のことで、見慣れている光景だった。しかし、今回の話は違った。いつもより息を荒くし、あまり見ないような表情で
「ギフン、お前も絶対にはまるようなものを見つけた」
と自信満々に言ってきたのだ。圧が強めの親友の姿に興味がわいたギフンは、ついのめり込んでこの話を聞いてしまった。
別にその内容はなんてことはないものだ。どの馬が1番になるのかをあらかじめ予想しておいて、馬券を買う。言わばただの賭け事。だと言うのに、チョンべがあまりにも熱心に、または楽しそうに説明するので、ギフンはその話に心を奪われ、気づけば「競馬」という人間たちの遊びに夢中になっていた。鮮やかな馬の走り、歓声、勝った負けたで一喜一憂する人々の姿。ギフンにとって、それは天界には存在しない、生き生きとした輝きに見えた。
本来なら、位の高い天使の命令なしに人間界へ降りることは禁じられている。だが、ギフンは何度も隙を見つけては降り立ち、人間の姿に擬態し、観客に紛れて競馬場に足を運んでいた。羽を隠し、人間の衣服をまとって群衆に混じると、妙な昂揚感が胸に広がる。
その日もそうだった。まだ陽が傾き始めた午後、競馬場のスタンドに腰掛け、ギフンは目の前を駆け抜ける馬たちに夢中になっていた。心臓が跳ねる。歓声に混じって自分の声も飛び出す。こんなに感情をあらわにすることなど、天界ではあり得ない。だが、この瞬間だけは、彼も人間たちと同じ熱に包まれていた。
その視線に、気づかぬまま。
観客席の少し離れた場所から、一人の男がじっとギフンを見つめていた。鋭い眼差し、整った顔立ち。だが、その背後に漂う空気は人間のそれではない。オ・ヨンイル…いや、本来の名はファン・イノ。彼は魔界で上から二番目という高位に位置し、下界のことをほとんど掌握している存在だった。
きっかけは、さらに上位に立つオ・イルナムからの噂だった。「人間界に妙に入り浸る天使がいる」と。イノは最初、暇つぶしのつもりで降りてきた。真面目で鉄則は破らない特性を持つ天使が人間界に耽溺するなど珍しい。少しばかりからかって、悪魔側に引きずり込み、手駒とすればそれでいい。そう思っていた。
だが、実際に目にした瞬間、彼の胸を掴んだのは衝撃に近かった。歓声に混じって無邪気に笑い、両手を叩くギフン。その表情には邪気がなく、純粋さだけが満ちている。長く悪魔であり続けたヨンイルにとって、それは眩しすぎるほどの光だった。
(…なんだ、こいつは)
心の中で呟きながら、イノは口元に笑みを浮かべる。興味を持ったどころではない。一目で惚れ込んでしまった。こんな天使を、自分の側に堕とすことができたらーー考えるだけで、ぞくりとした快感が背筋を走る。
レースが終わり、人々が次の馬券を買うために動き出す。ギフンはまだ余韻に浸っているようで、観客のざわめきにも気づかない。その隙を狙うように、イノは悪魔としての気配を完全に消し、「オ・ヨンイル」として歩み寄った。
「初めてですか?」
低く落ち着いた声が耳元で響く。驚いたように振り返ったギフンの瞳は、驚きと少しの警戒で揺れた。だが、相手の目が柔らかく細められているのを見て、自然と緊張は解けていく。
「あ、えっと…いえ、何度か」
「そうですか。随分楽しそうにしていたので」
ヨンイルは口角を上げ、どこか余裕のある微笑を浮かべる。人間のふりは完璧だった。スーツ姿に、整えられた髪。まるで仕事帰りのビジネスマンのようだが、目だけは異様に冴えている。
「私はオ・ヨンイル。よければ、一緒に観ませんか?」
差し伸べられた言葉は自然だった。ギフンは一瞬迷ったが、人間界ではチ友人も知り合いもいない。声をかけられること自体が嬉しく、つい頷いてしまう。
「…はい、よろしくお願いします」
こうして、天使ソン・ギフンと悪魔ファン・イノの奇妙な出会いは始まった。
次のレースが始まるまでの短い間、ヨンイルはさらりと会話を続けた。どの馬が強いか、どの騎手が人気か。ギフンは目を輝かせて相槌を打つ。まるで人間の青年と同じように。イノは内心でほくそ笑む。この天使は、無防備すぎる。
「ギフンさん、人間界に慣れてるみたいですね」
「え!?な、なんで名前…それに俺天使なんて言ってな…あ」
慌てて視線を逸らすギフン。その仕草に、イノの胸は一層熱を帯びた。嘘をつくのが下手で、すぐ顔に出る。こんな透明な存在を堕とすのは、きっと愉しいに違いない。
「シー。声が少し大きいですよ。ギフンさんは気づいていなかったみたいですけど、私も天使なので、同じだってことぐらい分かります。あとお名前は、よく人間界に入り浸っている天使がいるということを聞いていたので。お嫌でしたか?」
つらつらと出てくるありきたりな嘘にギフンが信じてくれるか一瞬不安になるが、顔を見る限り疑心の目は向けられていないと分かり、安心とそんなので大丈夫なのかとイノが心配になってしまう。
「え、いや別に大丈夫ですけど…あ、あの、人間界に行っていることは」
「別に密告したりしませんよ。しても私にメリットありませんし」
「よかったぁ…驚かせないでくださいよ」
「ハハ、すみません。ちょっとした冗談のつもりだったんです。それより、ギフンさんは競馬がずいぶんお好きなようですね」
「まあ、そうですね。友達に教えてもらってからどっぷりと…」
「私もここは好きです。騒がしいし、思い通りにならないのが面白い」
「わかります!天界には、こういうの、ないから…」
ギフンは口を滑らせてしまった。ヨンイルは目を細め、口元を歪める。だが追及はしない。ただ柔らかく笑みを浮かべた。
「…そうですか。やっぱり、貴方とは気が合いそうだ」
ギフンは照れたように笑い返す。その姿は無垢で、危うい。ヨンイルは確信する。この天使は必ず自分のものになる、と。
おまけ
「ってことがあってなー!競馬は相変わらず楽しいし、天使の新しい競馬仲間もできたしで最高な一日だったんだ!」
「…ヒョン、競馬をやるやらない以前に、人間界に仕事以外で行くなって俺言ったよね?」
「えー?サンウもやればわかるって!狙った馬が1位だったときなんてなぁ」
「もういいよ。ヒョンの考え方が変わんないことは分かったから。取り敢えず、そのヨンイルってやつには声かけられても無視しろよ」
「はあ?!なんでだよ!せっかくできた友達なのに」
「それが嫌なら今度から俺も連れて行って。」
「サンウがついてきてくれるのか?それは頼もしいな!…あれ、俺が見てない内になんか天使の羽根黒くなってないか?」
「気のせいじゃないか?」
「じゃあ気のせいか!」
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