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『祠は絶対に壊してはいけないよ』
亡くなる間際の祖母の言葉がふいに蘇る。
水緒は、宗一郎と繋いでいない手をギュッと胸の前で握った。
「宗一郎様、この祠はこのままがいいです」
「でもここをもう少し緩やかな川にした方が、桜並木が映えて景色が良くなるから……」
「壊してはダメなんです」
理由はわからないけれど、なぜか絶対に壊してはいけないような気がした水緒は宗一郎に頼み込んだ。
「竜ノ川は1000年前に」
水緒はこの土地に竜ノ川ができた時のおとぎ話を宗一郎に話した。
美しい神子が枯れたこの土地に豊かな川を作ってほしいと願い、竜神様がその願いを叶えてくれた。
その後、神子は竜神様のもとに召されたという伝説だが、そこまで宗一郎に説明する必要はないだろう。
「この川があるのは竜神様のおかげなんです。だから」
祠は壊さないでくださいと言おうとした水緒の言葉は宗一郎に遮られた。
「では、新しい祠を立てるというのはどう?」
「新しい……?」
「その方が竜神様も喜ぶよ」
「そう……でしょうか?」
本当に喜ぶのだろうか?
新しい祠にするのは、あの祠を壊すことにはならないのだろうか?
「竜神様を崇める気持ちは変わらないのだから、新しい祠に変わっても大丈夫だと思うよ」
崇める気持ち……?
祖母は毎日祠に手を合わせていたけれど、私は……?
返事に困った水緒は、ボロボロの祠を見つめることしかできなかった。
「すぐではないから、また話し合おう。次は向こうの商店街を案内してくれる?」
「……はい」
小さな橋を渡り、川の向こう側へ。
簡単に商店街を案内し屋敷に戻ると、そのまま宗一郎は隣街にも挨拶に行くと去っていった。
宗一郎を見送った水緒は、女中に桶と雑巾を借り、竜神様の祠へ戻った。
祖母が昔掃除をしていた姿を思い出しながら、祠の汚れを拭き取っていく。
長年の汚れは1日では落ちず、水緒は毎日女学校が終わったあと祠の掃除に向かい、少しずつ綺麗にしていった。
◇
掃除を始めて1ヶ月。
棚を水拭きし、周りの草を取り、小さな花を飾るうちに、なぜか竜ノ川が綺麗になってきたような気がする。
ただの妄想だけど。
たまたま上流で雨が降らない日が続いたのだろうとわかっているけれど、キラキラ輝く竜ノ川を久しぶりに見た気がした水緒は、雑巾を桶に入れたあと、ぼんやりと川を見つめた。
「……あの男はダメだ」
「えっ?」
低い男性の声に驚いた水緒が振り返ると、すぐ後ろに和装の男性が立っていた。
だが、髪の色は銀色で、目は青く、この辺りで見かける容姿ではない。
異人さん?
こんなところに?
「この祠は竜穴。だが、穢れのせいで悪い者が来てしまった」
「……竜穴?」
とは何だろうか?
男性の銀の長い髪がサラサラと風に揺れ、水のような青い眼は吸い込まれそうだ。
こんな容姿なのに、和装が似合っていると思ってしまうのはなぜなのだろうか?
「綺麗にしてくれてありがとう」
青い眼を細めて優しく微笑む男性は、この世のものとは思えないほど美しく、思わず見惚れる。
……あれ?
この感じ、前にもどこかで……?
こんなに綺麗な男性に会ったら、忘れないと思うけれど。
和装?
銀色の……。
思い出せそうで思い出せないもどかしさが水緒を襲う。
水緒は手を口元にあてながら、しばらく悩んだ。
「……緒さん、……水緒さん!」
肩に触れられた水緒は、驚いて顔をあげた。
「えっ? ……宗一郎様?」
だが、なぜか目の前は銀髪の男性ではなく、黒髪の宗一郎。
えっ? さっきの銀髪の男性は?
「大丈夫かい? 何度呼んでも反応がなかったけれど」
「え? 何度も?」
「急に肩に触れて、驚かせてごめんね」
申し訳なさそうにする宗一郎に、水緒は首を横に振った。
「あの、さっきの男性はどこに……?」
「男性? ……水緒さんは一人だったけれど?」
水緒は急にいなくなってしまった男性を探そうと、キョロキョロと辺りを見回す。
だが、この見晴らしのいい堤防のどこにも、銀色の長髪の男性を見つけることはできなかった。
え……? 消えた?
竜穴って?
それにありがとうって?
祠の掃除はしているけれど、ありがとうってこの祠のこと……?
「水緒さんはどうしてこんなところに?」
「あ、祠の掃除を」
水緒の足元に置かれた桶を不思議そうに眺めた宗一郎は、冷たい水緒の手をギュッと握った。
「そんなことしなくても。あぁ、手が冷えてしまっている」
「そ、宗一郎様」
真っ赤な顔で狼狽える水緒に宗一郎は優しく微笑む。
「今日は専門家と川の蛇行を変える相談をしに来たんだ。この祠も新しいものに建て替えるから、もう掃除はしなくていいよ」
「いえ、建て替えはしなくても」
「竜神様だって綺麗な祠の方がいいはずだと、この前話したよね」
さぁ、身体が冷えているからすぐに屋敷へ行こうと手を引かれた水緒は祠の方を振り返った。
『祠は絶対に壊してはいけないよ』
建て替えはしてもいいの?
綺麗な方が竜神様も喜ぶ?
「水緒さん?」
「あ、いえ。すみません」
宗一郎と屋敷へ戻った水緒は、桶と雑巾を片付けながら祠の前で会った男性を思い返した。
銀色の綺麗な髪、青い眼。
初めて会ったはずなのに、ずっと昔から知っているような不思議な感覚がした。
あの人は誰だったのだろう?
もう一度会いたいなんて、浮気者だろうか?
私には宗一郎様がいるのに。
でもなぜかまた会いたいと思ってしまう。
なつかしいあの人に。
また会えるだろうか……?
父は結婚式よりも先に街の整備を始めることを宗一郎に許可した。
結婚式は最高の着物を準備してやりたいから二年後にと。
宗一郎も快諾し、いつの間にか日取りまで決まっていた。
「では来週から河川工事に着手して、まずは景観から変えます」
「そうか。桜も植え直してくれるのだろう? 満開の桜の中、水緒を嫁に出せるのはうれしい。妻もきっと喜ぶよ」
「桜に囲まれた水緒さんは、本当に綺麗でしょうね」
俺は幸せ者だなと笑う宗一郎に、父は上機嫌で酒を注いだ。
「そういえば水緒さんが掃除をしている祠ですが」
「あぁ、あれはな、壊してはダメだぞ」
すでにほろ酔いの水緒の父の言葉に宗一郎は眉間にシワを寄せた。
「……そうなのですか?」
水緒も父親も壊すなという祠。
あれが一体なんだというのか。
ただの古い祠じゃないか。
実はあの祠の場所が一番工事したい場所だ。
この屋敷を宿泊所に建て替えた時に、山と桜と川が最も美しく、まるで絵画のような景色にするためには川の向きを変えなくてはならない。
「壊すとどうなるのですか?」
「どうなるかは知らん。壊してはならないと先祖代々伝えられている」
へぇ〜と感心しながら宗一郎は水緒の父の盃に酒を注ぐ。
「家の前の竜ノ川の主は、神子と添い遂げることができなかった。神子は病に侵されていて、みんなのために川がほしいと願いながら亡くなった」
「竜ノ川の主というのが水緒さんが言っていた竜神ですか?」
「そうだ。亡くなった神子を想い、竜神が流した涙が竜ノ川になったと」
だから竜神の祠には神子の服の一部も一緒に祀られているんだと、水緒の父は祠を守る一族にのみ伝わる話を宗一郎にうっかり話してしまった。
酒が回り、何を話したかさえ記憶になさそうなほど上機嫌に酔いながら。
「悲恋なんですね」
俺には関係ないけれど、と思いながら宗一郎は水緒の父に酒を勧める。
どんどん飲ませ、呂律も回らなくなった水緒の父に宗一郎は尋ねた。
「祠を壊していいですか?」
泥酔した水緒の父の前に念書を広げる。
署名する水緒の父の姿に、宗一郎はニヤリと笑った。