文也はただ気を失っているから問題ないとしても、やはり、美穂子と理亜の事は気がかりだった。
「典晶、問題は無い。少し時間は掛かるが、二人ともすぐに目を覚ます」
「…………うん」
イナリの言葉に典晶は頷く。
典晶はイナリを横目で見たが、イナリは硬質な表情を浮かべたまま、寝入っている三人を見つめていた。
あの時、彼女は理亜を殺すと言っていた。見たことのないイナリの表情だった。表情だけではない、身に纏う気配、雰囲気が違った。人とは異なる生き物。それをまざまざと見せつけられ、痛感させられた。考え方の違いは、誰にでもある。ない方がおかしい。だが、雰囲気の違い。例えるなら、人と昆虫。ベクトルは違うが、それほどまでに差があった。
「…………理不尽なもんだな」
典晶とイナリを見て何かを感じ取ったのだろうか。那由多は投げやりに呟くと、ちゃぶ台に顎肘をつき、縁側を見つめた。
イナリは何かを言いたそうに那由多を見たが、すぐにシュンと項垂れるようにして膝の間の畳を見つめた。
不思議な事に、外は日が暮れているというのに、高天原商店街の中はまだ明るかった。
「イナリ! こっちに来るのじゃ! 客人じゃ!」
遠くから八意の声が聞こえた。イナリはピクリと体を震わせる。その仕草は、物音に驚く小動物を連想させた。
「イナリ?」
イナリの変化を機敏に感じ取った典晶は、イナリに尋ねた。
イナリは答えようと口を開きかけたが、思いとどまって閉じた。一度、美穂子と理亜の寝顔を優しい目で見つめたイナリは音もなく立ち上がった。
「イナリ……?」
イナリの様子がおかしいのは誰の目にも明かだった。イナリは典晶を見ると、格別の笑顔を浮かべて、部屋から出て行った。
「イナリ!」
典晶は腰を上げようとしたが、それを那由多が止めた。
「止めときなよ」
静かだが、異論を挟ませない強い響きを帯びていた。退屈そうにスマホを弄っていたハロも、いつになく真面目な表情を浮かべ典晶の動静を伺っていた。
典晶はイナリを追うことを諦めて座り直すと、那由多に向き直った。
「あの……、さっき言っていた、理不尽ってどういう意味ですか?」
那由多の言葉には何か特別な意味が込められているようだった。
「ん?」
那由多は縁側から典晶に視線を移す。
「そのまんまの意味だよ、典晶君」
「そのまま?」
「そう、そのままの意味。君は、つい最近まで、狐の嫁入りの事を知らなかったんだろう?」
「はい」
つい数日前まで、自分は普通の人間だと思っていた。命を賭ける事など、一生に一度としてないだろうと、高をくくっていた。実際、そんなことが起きるとは夢にも思っていなかった。そもそも、幽霊や神様の存在だって、信じるどころか考えたことすらなかったほどだ。
絵に描いたような日常。なんのドラマもない、淡々とした日常が繰り返されていた。漫画で見るような、非日常の騒ぎなど、全く無縁の場所で生きていたのだ。それが、いつの間にか典晶は非日常の中に立たされている。嫁入りが続く限り、いや、終わったとしても、今まで通りの日常に戻れるという保証はない。
「理不尽だと思わないか? 好きでもない子と結婚させられる。それも、人じゃない、狐だ。典晶君は、話を聞いたとき嬉しかったかい? どうして自分がって、思わなかったかい?」
「それは、思いましたけど……」
父親の命が天秤に掛けられたのだ。理不尽だとしても、断ることはできなかった。そもそも、宝魂石集めを始めたのも、嫁入りが原因だ。こんな危険な目に遭う必要も無かったのだ。理亜が凶霊に憑かれて問題を起こしたとしても、対岸の火事として見ていただけだ。凶霊の存在自体知らず、普通の高校生活を送れたに違いない。
「全てが理不尽だ。神々なんてものは、俺たち人間のことはタダのおもちゃ程度にしか思っていない。俺たちの都合を考えず、一方的に押しつけてくるんだ」
「マスター」
「……切実な言葉ね」
ヴァレフォールとハロが呟くが、那由多は完全無視だ。きっと、那由多の言葉の半分は自分に言い聞かせているのだろう。デヴァナガライという役目を負った那由多こそ、理不尽な結果生じた存在なのかも知れない。
「でも、どうしようもないです。生まれとかそういうことを言ってもどうにもなりませんから……」
「…………」
那由多は溜息を返事代わりにして、再び縁側を見つめた。
重い沈黙が降りた。普段は軽快なハロも鳴りを潜め、ヴァレフォールは何も言わず、寝ている三人の顔や首筋に浮かんだ汗を濡れタオルで拭っていた。
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