ダブルクラッチとは、古いマニュアル車で使われていた、高等なクラッチ操作です。普通は――
クラッチを踏む
↓
ギアを変える
↓
クラッチを戻す(繋ぐ)
というクラッチ操作をしますが。
クラッチを踏む
↓
ギアをニュートラルに入れる
↓
クラッチを戻す(繋ぐ)
↓
アクセルを踏んで回転数を合わせる
↓
クラッチを踏む
↓
ギアを入れる
↓
クラッチを戻す(繋ぐ)
こうして2度クラッチ操作をするので、ダブルクラッチと呼ばれています。格好よくダブクラと表現するのもありでしょうか。
最近の車は、シンクロという回転差を調整してくれるものが発達しているので、無理してダブルクラッチを使わずに操作します。無理をするとシンクロやギア、エンジンに負担がかかります。
はてさて叶わない恋にしがみついている橋本に、宮本は終わった自分の恋愛を語るのですが、どこかでダブクラをかますのかもしれません。
***
橋本と待ち合わせした場所は、宮本が行きつけの居酒屋だった。江藤やトラック繋がりの友達とよく飲みにいく店なので、迷うことなく到着することができた。
待ち合わせ時間にいつも遅れがちの自分にしては、5分前に着いたことが珍しい。
(相手が陽さんだからかな。遅れたら『このクソガキ!』って怒鳴られそうだし)
そんなことを考えながら暖簾をくぐった宮本の視線は、カウンター席の端に座っている橋本をすぐさま見つけてしまった。
「待ち合わせの時間前に到着したはずなのに、どういうことだよ……」
そんな独り言を呟いてしまったのは、橋本がすでに出来上がった様子だったせい。据わった眼差しで見つめられただけで、どうにも嫌な予感しかしない。
宮本はビクビクを悟られないように、ほほ笑みながら頭を下げて、橋本の隣にちょこんと座った。
「こっ、こんばんはです。昨日は陽さんの貴重なお話が聞くことができて、大変参考になりました」
「そうか。とりあえず何か頼めよ、奢ってやるから」
「いえいえ、そんな。とんでもないです」
大きな躰を小さくするように、背中を丸めて恐縮する宮本に、口元の端に笑みを湛える橋本が顔を近づけた。
「ここに誘ったのはどこの誰だ、言ってみろ」
「陽さんですっ」
耳元で囁かれた低い声に、自然と躰が竦んでしまう。目をギラギラさせながらほほ笑んでる橋本が怖くて、目の前のカウンターをじっと見つめて答えるのが精一杯だった。
「俺が誘ったんだから、奢るのは当然のことだろ? 黙って奢られろ」
「わかりました、遠慮なくご馳走になります。店長、こんばんは。いつもの宮本スペシャルでお願いします!」
橋本にペコリと大きく頭を下げてから、カウンターの奥にいる顔見知りの店長に右手を大きく振って、自分の存在をアピールした。
「お~宮本っちゃん、いらっしゃい! スペシャルの飲み物は何にする?」
「ウーロン茶でよろしくです」
「毎度あり!」
テンポよく目の前で会話をした宮本を、橋本はまじまじと見つめた。
「この店、おまえの行きつけだと言ってたけど、頻繁に顔を出してるのか? 宮本スペシャルなんてメニューまであるなんてさ」
「実は大学時代に、ここでバイトしていたんです。真面目にバイトに励んでいたせいか、店長には可愛がってもらいました」
「ほうほう、なるほど。可愛がってもらったということは、あの店長ともデキていると」
「違いますっ、普通に面倒を見ていただいただけです。話を変な方向に広げないでくださいよ」
橋本とのやり取りは、親しくしている年上の友達と比べると、スムーズにいかないばかりか、揚げ足を取られて困難を極めているばかりで、酔っている橋本はそれに輪をかけて扱いづらく感じた。
困ったなぁと宮本が思っているところに、営業スマイルを浮かべた店長がわざわざやって来た。
「宮本スペシャル、まずはウーロン茶です。それとお客様からご注文戴いた、鳥串のアラカルトになります」
「すみません、熱燗追加お願いします」
「毎度ありがとうございます!」
運ばれてきた宮本のウーロン茶を見て、橋本は手酌で熱燗を注ぎ終えると、目の前にお猪口を掲げた。
「お仕事お疲れ、乾杯」
「お疲れ様っス」
慌ててタンブラーを持ち上げて、橋本が持ってるお猪口に当てて乾杯する。
「陽さん、ここに来たの早かったんですね」
「そうでもないぞ。15分くらい前かな」
(ここに来て15分で出来あがったということは、江藤ちん並みにお酒が弱いのかもしれないな――)
ウーロン茶を飲みながら、隣にいる橋本を横目で眺めた。運ばれてきた熱々の鳥串に手を伸ばすと、反対の手で宮本に皿を寄せる。
「熱いうちが美味いんだから、遠慮せずに食えよ」
「ありがとうございます、戴きます」
皿の一番端にあった、鳥皮を頂戴することにした。
「おまえさ、元彼が弟と付き合うのを知って、複雑な心境にならなかったのか?」
ジューシーな鳥皮をはむっと口にした瞬間に投げつけられた質問は、ものすごく返答に困る種類のものではなかったものの、どんな顔をしていいかわからなくなった。
もろ手を挙げて祝福する気持ちがあったなら、満面の笑みを浮かべることができただろう。しかしながら兄として元彼として、ふたりが付き合う前から、問題を抱えているのを随所に見ているせいで、心配の種が尽きなかった。それも現在進行形である。
「複雑な心境というよりも、大丈夫かなって心配しました。弟は頼りないヤツだし、江藤ちんは俺様で素直じゃないくせに繊細な心の持ち主だから、上手くいかなくなったときに自暴自棄になって、手に負えないことになるんじゃないかって」
手にした鳥皮の串がマイクみたいになっているのを気づかずに、たどたどしく心情を語る宮本の姿がどうにも可笑しくて、橋本はクスクス笑った。
「何か、俺が想像したのとは違う。もっとマイナス面の感情が出てくると思ったのに。でも考えてみたら、雅輝はふたりをよく知っているから、心配で堪らないのかもしれないな」
「やっぱりわかりますか?」
言いながら隣に視線を投げかけると、橋本は一気に鳥串を頬張った。美味しそうに口元を動かして咀嚼し、熱燗をくいっと飲む。
「図体がデカくて顔が厳つい、見かけからは想像つかない、心配性で優しいところに惚れられたのか。江藤ちんって男に」
宮本の質問をスルーして独り言のように呟いたセリフは、江藤本人から告げられたことのある言葉だったせいで、思いっきりぎょっとした。
「どうした、そんな顔して。いい男が台無しになってるぞ」
「ぃ、いい男なんてそんなこと……。陽さんと比べて、足下にも及ばないのに」
渋い二枚目の橋本にいい男呼ばわりされたせいで、頬がぽっと熱くなった。
「俺を褒めて持ち上げるなんて、もしかして誘ってるのか?」
肩に軽くぶつかりながら顔を近づけた橋本の様子に、宮本は内心頭を抱えた。弟からかかってきた電話を受けた後に、この店で暴れた江藤を宥めたときよりも、厄介だと思わずにはいられない。
「誘ってなんかいません」
「俺が江藤ちんよりも、魅力的じゃねぇから?」
(ああ、もう。酔っ払いの相手は面倒くさいな)
「充分に魅力的ですよ。恋人はいないんですか?」
「いねぇよ、恭介一すじだし」
相手は結婚している人なのに、一すじに想い続けるなんて――。
「恭介さんって、どんな人なんですか?」
ぽんと宮本からなされた問いかけに、近寄っていた橋本の躰が傍から離れていく。さっきまで浮かべていた、へらっとした笑みもなくなり、えらく真面目な顔になっていた。
「恭介の見た目は、男なら誰もが憧れちまうようなイケメンでな。そのイケメン度っていうのは、こんなふうになったらモテすぎて、人生が変わっちゃうだろうなぁと思わせるくらいのレベルなんだ」
宮本の目に映る橋本の容姿だって、充分にイケメンだと思うのに、どこか自慢げに語られていくキョウスケという人物のイケメン具合が、どうにも想像できなかった。
「恭介はどんな表情でも決まって見えるんだけど、恋人の話を口にしたとき限定で、情けないくらいに目尻を下げながらデレデレするところが、結構好きなんだ……」
橋本が告げた『好きなんだ』という言葉がじんと耳に響いた。今まで会話を交わしていたからこそ、微妙な変化に気づかされた。
その部分だけが掠れているのに、艶っぽさを感じさせるような声色だったせいで――。
「はい、次は雅輝の番だぞ。何で俺がここで、恭介のことを教えなきゃならないんだか」
「だって、陽さんが片想いしてる相手がどんな人なのかなって、興味がありまして」
「実らない俺の話よりも、複雑そうなおまえの話のほうが、絶対に面白そうだろ。まずは、江藤ちんとの馴れ初めについて話せよ」
面白そうだと言われた時点で、宮本の喋る気力の半分がなくなった。小さな抵抗として、手に持っていた鳥皮をちまちまっと頬張って時間稼ぎをする。
「失礼いたします、お待たせしました! 追加注文の熱燗です。それと、宮本スペシャルの残りのお料理をお持ちしました。ごゆっくりどうぞ!」
宮本は店長が置いていった熱燗を素早く手に取り、お猪口に注ごうとしたら、橋本が強引にそれを引っ手繰った。
「おまえは気を遣わずに、さっさと喋れ。俺は自分のテンポで飲みたいから、手酌してるんだしさ」
零れそうな勢いでお猪口に注ぐ様子を見て、喋らないともっと大変なことになりそうなのを肌で感じた。
「……江藤ちんとの出逢いは、大学祭でやったサークルの出し物がきっかけだったんです。メイド&執事喫茶をすることになったんですけど、様になるような執事のなり手がいなくて。俺はここでバイトをしている関係で、厨房を任されていたし」
「別に、おまえがやっても大丈夫だろ。受け狙いになって、笑いが取れるかもしれなかったのに」
隠しきれないニヤニヤを口元に浮かべた橋本を睨んでみたが、全然効かないらしく余計に笑われてしまった。
「はいはい。蝶ネクタイをつけてギャルソン風の格好をした俺がオーダーをとる様は、まんまお笑いにしかならないでしょうね」
むくれて言った宮本のセリフを聞いて、カウンターに頬杖をついた橋本がウインクしながら口を開く。
「その格好で雅輝が現れたら、チップをはずんでやるよ。笑わせてくれた礼としてな」
「絶対に陽さんの前では、そういう恰好をしません!」
ふいっと顔を背けて、タンブラーに入ったウーロン茶を飲んだ。
本当は宮本スペシャルのひとつである、店長が心を込めて作ったお手製チャーシューが入ったチャーハンを食べたかったが、橋本との会話があったので、手をつけられずにいた。
「つまり、執事の格好をしたらカッコイイと思わされるくらいに、容姿が整っているのが江藤ちんなんだな」
ズバリと江藤の見た目を当てた橋本に、黙ったまま頷いてやった。
「恭介とどっちがイケメンなのか比べてみたいなぁ。写真はないのか?」
「ないです」
即答した理由は、別れたときに全部デリートしたから。やり取りしたメールや写真すべてを削除して、付き合ったことをないものにしていた。
「それで、別れたきっかけはなんだ? 優しいおまえなら、上手く相手を手玉に取っていただろうに」
「手玉にとるなんて、陽さんは俺のことを、どんな目で見ているんですか?」
「だって容姿の整った同性を落とすなんて、雅輝が惹きつける何かを持っていなきゃ、無理な話だろ。女と付き合うよりも、簡単なことじゃない。ちなみに俺から見ても、おまえの魅力はさっぱりわからない」
(俺の魅力が分からないと、陽さんに断言されてもな――)
「……江藤ちんと付き合う前に、ひとつ年下の女のコと付き合っていたんですけど、俺の態度が素っ気なくて冷たいと言われて振られていたんです。素っ気なさは、ただ照れていただけだったんですけどね」
「なるほどねー。雅輝ってば、可愛いトコあるんだな」
言いながら橋本が手を伸ばして、宮本の頭をなでなでした。酔っている上での行動なので、あえてそれを受け続ける。反発した途端に、何が飛んでくるかわからなかったから。
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