「なぁ、なんで泣いとんの?」
問いは空気に溶け、彼はただ俯いたまま、声を発さなかった。
涙だけが、ぽろぽろと零れ落ちる。すすり泣く音、震える肩、しかし喉からは何の音も漏れない。それは堪えているのか、それとも、泣き方さえも忘れてしまったのか。
「寒い?疲れた?怒られた?」
紡ぐ言葉は虚しく響き、何一つ彼から返るものはない。
それでも、その場を去ることはできなかった。
そっと、その肩に触れる。すると、火傷を負ったかのように彼はビクリと震え、か細い声が漏れた。
「やめて……それ……」
「え……?」
「優しくすんの……やめてくれへんか……」
「なんで……?」
「そんなことされてしもたら……俺、壊れるやんか……」
その言葉は、胸を締めつけた。
「俺、ずっと、雑に扱われてきたんやで……?笑われて、蹴られて、ゴミみたいに扱われて……それが、当たり前やと思ってたのに……今みたいに……優しくされたら……っ、俺、わからんようなって……っ」
溢れる涙は、もう止まらない。
「優しさが、一番……辛いんや……俺なんかが、こんなあたたかさに触れてええわけないやろ……」
震える声に、僕はただ静かに応える。
「それでも、放っておけないんだよ。君が誰かなんて関係ない。ただ……君が泣いていたから。それだけで、優しくしたくなったんだ」
―再び伸ばした手。
彼はそれを拒むことはできなかった。拒むには、あまりにも弱すぎた。
そして、音もなく崩れるように、彼は泣き続けた。
机に突っ伏した彼の背中は、今日もまた、誰の問いかけも受け付けない。それが彼の日常であり、ずっとそうだった。
だが、その日、僕はごく自然に言葉をかけた。
「眠いの?疲れてる?」
ぽん、と背中を撫でたその瞬間、彼の体はまるで雷に打たれたかのように跳ねた。
「っ、な……なに……?」
上げた顔には、僕の心配する眼差しと、柔らかな笑みが映る。
「少し疲れてそうやったからさ……ほら、水。飲むか?」
差し出されたペットボトルは、ただそれだけなのに、彼の指先は震えている。
「……いや、なんで……なんで、そんな……そんな優しくせんで……っ」
「え?」
「わからんくなるやろ……っ俺……殴られたことしかねぇのに……今さら、こんなんされたら……どうしたらええん……?」
真っ赤に充血した瞳。ひきつる口元、荒い息遣い。
「俺……混乱するんやって……わからん……わからんねん……これが、なにかも……どうしたらいいかも……けど、怖いくらい、あったかくて……っ」
一筋の涙が、ぽろりと落ちた。
「怖いよ……優しさなんか……知らないんよ……」
「……んな顔して、どうしたん?」
僕の問いに、彼はぼんやりと遠くを見つめていた。
「 別に。慣れとるし」
それは、もはや彼の口癖となっていた。
「何に?」
「怒られるのも、殴られるのも、無視されるのも、全部……親にも言われてたからな、“お前なんか生まれてこなきゃよかった”って」
乾いた笑いがこぼれる。
しかし、その瞳の奥には、今にも零れ落ちそうな涙が揺れていた。僕はそっと、彼の手に触れる。
「……そんなの、ひどすぎるよ」
その言葉に、彼の肩がビクリと震えた。「や、やめとけって……俺、そういうの、慣れてへんし……」
「“ひどい”って言ってもらったの、初めてかもしれん……だって、みんな当たり前みたいな顔してたから……親に怒鳴られてても、周りは見て見ぬふりで……」
僕は黙って、ぎゅっと彼の手を握りしめる。彼は目を見開き、その手を見つめた。
そして――
「……なんで、そんなことすんの……?」
「俺……誰かにこんなふうに、あたたかくされたの……生まれて初めてかもしれへん……」
その言葉と共に、堰を切ったように涙が溢れ出した。顔を手で覆い、しゃくりあげながら、声にならない嗚咽が漏れる。
「……わからん、わからんよ……俺、どうしたらええん……?嬉しいのか、怖いのか、苦しいのか、もうぐちゃぐちゃで……でも、離れたない……」
その涙は、たぶん、彼のすべてだった。
今までの孤独も、痛みも、悔しさも、そして今、僕に触れたことで生まれた「希望」も――その一滴一滴に、彼の魂が宿っていた。
「なあ、ちょっと話あんねん」
放課後の廊下、誰もいない空間で、彼の声がぽつりと落ちた。
その声は、微かに震え、いつもの軽やかさは影を潜めていた。
「……最近、お前にも変なヤツら絡んできとるやろ?俺と一緒にいたせいやな。……ごめんな」
僕が何かを言おうとするのを遮るように、彼は言葉を続けた。
「お前、優しすぎるんやって……俺みたいなのに構うから……巻き込まれてまう……。
お前にまで、痛い思いさせたくない。だから……もう、俺に構わんでええから」
そう言って、彼は笑った。
だが、その瞳は真っ赤に腫れていた。
「俺な、はじめてやったんよ。
“いてもいい”って思わせてくれたの、お前が初めてで……ほんまに、救われとった。けど……お前まで壊れたら、俺ほんま、二度と立ち直れん」
足元に、ぽたりと涙が落ちた。
「せやから……ありがとうな。ほんまは、もっと一緒におりたかった。
もっと甘えたかった。でもそれって、俺のエゴやろ?」
僕が手を伸ばすより早く、彼は一歩、後ろに下がった。
「忘れてええよ。俺みたいなん。……全部夢やったって思ってくれてええ」
そして、彼は背を向けた。
「でもな……最後に一個だけ言わせて」
振り返ることなく、その声は微かに震えた。
「……俺な、ほんまは、…お前のこと、めっちゃ好きやったんやで」
そのまま、彼は静かに、その場を立ち去った。
――数週間後。
夕暮れに染まる街。
人気のない裏路地。その知らせは、突然だった。
『お前の知り合い、ちょっと痛い目に遭ってもらったわ』
電話越しのざらついた声が、彼の背筋に氷水を浴びせたような悪寒を走らせた。
走った。息もできないほどの速さで。
何度も
「嘘やろ」
「なんで」
と口にしながら。そして、そこに――血に染まった服で、痛みに顔を歪めながらも、君は立っていた。
「……なんでやねん……俺、離れたやんか……お前を巻き込まんために、全部切り離したはずやのに……」
震える指先が、君の傷に触れかけ――
そして止まった。
「うわ……俺、ほんま、なにやってんやろ……」
君が声をかけようとしても、彼はただ俯き、震えていた。
「俺のせいや……俺が、全部……お前に優しくされて、調子乗って……幸せになれるかもなんて、思って……っそれが……間違いやったんや……」
涙は枯れ果てた。
流す余裕すら、そこにはなかった。心が、「音もなく崩れ去る」
とは、こういうことかと、初めて知った。
「……守られたかったわけやないねん。俺が……守りたかってん、唯一、優しくしてくれた、お前だけは……それすらも……俺には無理なんやな……」
最後に、ぽつりと、小さく。
「やっぱ、俺って……ほんまもんのクズやな……」
数年後――。
バイト終わりの夕暮れ時。コンビニの前に腰かけ、コーヒーを片手に休む彼の耳に、ふと、笑い声が届いた。
その声に、懐かしさが胸を締めつけ、彼は無意識に顔を上げた。
「……え?」
立ち上がる体。視線の先に、自転車にもたれて話す見知らぬ青年。
だが――その仕草。
肩の震え方。笑い声。言葉を紡ぐテンポ。
「……なんで……そんな、似てんの……」
胸の奥が、泡立つようにざわめき始める。
「やめろって……こんなん、反則やろ……」
近づくこともできず、ただ立ち尽くして見つめる。
あの頃の君が、そこにいるかのように。
しかし、違う。もういない人。会えない人。だが目の前には、声も、手の動きも、名前を呼ばれた時の振り返り方まで
―― すべてが、瓜二つだった。
「嘘やろ……なんで、今になって……忘れたはずやのに……忘れたくて、全部埋めたのに……」
込み上げてくる涙を、彼は止められなかった。それを見られないように背を向け、静かにその場を去る。
「もう一回、壊れてまうやんか……」
誰に届くでもなく、彼の口から零れた言葉。再生しかけていた心が、再び軋む音を立て、ひび割れていく。
日々は、痛みばかりだった。バイト先では怒鳴られ、電車では肩をぶつけられ、家に帰れば一人。
朝が来ても、食事をしても、眠りについても、何も変わらない。君が消えてから、世界は音も色も失っていた。
「生きてるって、これのことなんか……?」
そんな思いを抱えながら、彼は今日もただ歩いていた。そして、ふと
――横断歩道の向こうに立つ、その人を目にした。
笑っていた。
誰かと話していた。風に髪がなびき、光に照らされた横顔は、まるで……君のようだった。
息が止まった。一歩も動けない。脳が拒絶しても、心は強く惹きつけられた。
「……うそやろ……」
じっと見つめる。目を擦っても、その姿は消えなかった。声をかけることさえできない。ただ――胸が、強烈な熱を帯びていく。
「……あかん……こんなん……」
今まで、痛みしか感じていなかった胸の奥に、かつてないほどの光が差し込んだ。あたたかくて、怖くて、懐かしくて、そして優しくて――
「……光、や……」
誰にも聞こえないほどの声で、彼はつぶやいた。
「俺、まだ……こんな風に、感じられるんや……?」
それが希望と呼べるものなのか、彼にはわからなかった。しかし、久しぶりに「生きたい」と、ほんの少しだけ、そう思った。
痛みと依存の螺旋
「なあ、今日もコンビニ寄ってこうぜ」
いつの間にか、そう声をかけてくれるようになっていた“その子”。明るく、少し不器用で、優しい。そして、どこか――君に似ていた。
彼は知らんふりをして、笑い返す。
「ええよ。どーせ暇やしな」
会話は弾み、共に過ごす時間は心地よい。ふいに肩が触れても、笑っていられるようになった。
しかし――缶コーヒーの選び方が違った。
「これうまいよな、あったかいのが好きでさ」
そう言うその子を見て、彼はふと思い出す。(あの人は……冷たい缶コーヒーしか飲まなかったな)
ふとした瞬間の手の置き方。笑い方のタイミング。人を見つめる瞳の奥。
すべてが「少し違う」。そしてその「少し」が、彼の胸にじわりと刺さってくる。
ある夜、別れ際に手を振られ、「また明日な!」と笑いかけられた時――彼の胸はきゅっと締めつけられた。
「……違うんだ……やっぱり……君じゃないんだな」
呟いた声は、風に流され、誰にも届かない。だが、それでも。違うと分かっていても、違っていても、「それでも今、ほんの少しだけ心があたたまるのは事実」で――だから、彼はまたその子に会いに行く。
あの人ではない。けれど、今ここにいてくれる“光”を、手放したくないと、そう思ってしまったのだ。
「クズ、今日も一緒に帰ろ」
その子が何気なく笑いかけてきた瞬間、彼の胸に、チクリと痛みが走った。
(まただ……その笑い方……)
毎日顔を合わせるたびに、彼は少しずつ壊れていった。最初は、救いだった。“あの人”に似ていたから。
優しくて、あたたかくて、「また優しさを知ってもいいのかもしれない」と、そう思えたから。
だが今は――違いばかりが目に付き、似ていると感じるたびに、
「でも違う」
という現実が押し寄せてくる。
「……もういいだろ、それ俺に似合わないって。そんなこと、あの人は言わなかった」
ぽろりと口からこぼれた「“あの人”」という言葉に、彼はハッとして、口を閉ざした。
(……またやってしまった……)
「え、あの人って……誰?」
問われても、彼は笑って誤魔化すしかなかった。だが、そのたびに、心が軋んだ。
『君に似ているだけで、俺は勝手に傷ついている』
『でも、それでも君に会いたくなる』
そんな矛盾が胸に渦巻き、どこにも逃げ場がなかった。ある夜、帰り道でぽつりと呟く。
「なあ……お前のこと、嫌いじゃないんだ……だけど、お前といると、俺……どんどん壊れていくんだ……」
「笑ってくれるたびに、“あの人”が重なって、でも違うことにまた気づいて……それが、痛いんだ……本当に……お前のこと、嫌いじゃないのに……なんで俺、こんな傷ついてるんだろうな……」
そしてまた、涙が滲む。
「会わない方がいいのかなって、思っても……やっぱり会いたくなるんだ……俺、どうしたらいいんだろう……?」
夜の公園。
ベンチに一人座っていた彼は、空を見上げてため息をついた。誰もいない、静かな風の音だけが流れる。
「……あーあ。1回でええから、会われへんかな……」
ぽつりと呟いた、その時だった。
「よ、会いにきたで」
その声に、彼は目を見開いた。横を見れば――そこに、あの人がいた。
君が。数年前、姿を消した、ずっと探し続けていた“あの人”が。
「……え……なんで……?」
「あかん、泣くなよ。来て早々に見られたくなかったんやけどな」
いつものように笑っていた。だが、風が吹いても、君の服は揺れない。
葉の影が落ちても、そこに影はなかった。彼は、すぐに悟った。
「……お前……もう、生きてへんのやな」
静かに告げられた声に、君は少しだけ、悲しそうに笑った。
「うん。ごめんな。ほんまはもう、お前に会ったらあかんのやろけど……でも、ずっと見てたで。お前がボロボロになっていくの、全部」
彼は目を伏せ、肩を震わせる。
「なんで……なんで、今さら出てくんねん……っ会いたかった……ずっと会いたかったのに……っでも、もう触られへんのやろ……?」
君は何も言わず、ただそっと彼の隣に座った。他の誰の目にも、そこには誰もいない。
「ずっと言いたかったんや」
「ごめんな。俺、お前のこと置いていってしもたな。ほんまは、最後まで守りたかったのに」
彼は、拳を握りしめたまま、震える声で応えた。
「……それでもええわ……たとえ幻でも、幽霊でも……今、お前が隣にいてくれるだけで……俺、救われたわ……」
その言葉に、君はかすかに微笑み、目を閉じた。
「それ聞けたら、もう未練ないかもなぁ……またどこかでな」
君の姿は、ゆっくりと、風に溶けるように消えていった。だが――彼の横には、ほんのりとしたぬくもりだけが、確かに残っていた。
目を閉じれば、そこは、あの日と寸分違わぬ夕暮れだった。
静寂の中、遠くで蝉の声が響き渡り、風が、彼のシャツをふわりと揺らす。
「あ、クズやん」
振り返った彼が、笑って手を振ってくれる。まるで何も変わらず、まるでまだ、そこに存在しているかのように。
彼は、言葉も出せないまま駆け寄ると、何も告げずに、そのまま抱きしめた。
「会いたかった……」
呟いた声に、
「また泣いてんのか、お前は」
と、優しく背中を撫でてくれる。それだけで、涙は止まらなかった。
「もうずっと見てへんのに……なんで、今日は出てきてくれたん……?」
「夢だからだろうな。お前が呼んだからだ。俺のことを、まだ忘れてないからだ」
彼は、俯いたまま、ぽつりとこぼす。
「……もう、忘れた方がいいのかなって思うこともある。現実で、あんたの声、聞けないし。誰に話しても、“過去に縛られるな”とか言われるし……けど……夢に出てきたら、もう全部ダメになる……」
君は、それを聞いて――何も言わずに、ただ一言だけ。
「それでもいいんだよ。お前は、お前のままでいいんだ」
その言葉に、彼はまた泣いた。
そして、目を覚ます。枕はわずかに湿り、喉は渇いている。部屋は薄暗く、時計は午前4時を示している。誰もいない。声も聞こえない。
「……また、夢か……」
呟き、ぎゅっと胸を押さえる。
「夢でいいんだ。……君に会えるなら、それで、いいんだ……」
そしてまた、朝が来る。彼は目の下にわずかなクマを作りながらも、きちんと服を着替え、外へと歩き出す。
―傷は消えない。だが、夢の中だけで、確かにあの人がそばにいてくれる。
END