テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
父が亡くなった日の事は、今でもよく憶えてる。
6年ほど前。交通事故だった。
母は、自分が幼い頃に既に病気で亡くなっていた。
以来、一人っ子の自分と父の二人きりで暮らしてきた。
もともと画家だった父は、小さな画廊を経営しながら懸命に自分を育ててくれた。
手があたたかくて、優しい人だった。
あの日いつものように、「行ってきます」と。
笑顔で家を出て仕事に向かった父が、帰らぬ人になった。
その喪失感を、なんと表現すればよいだろう。
急に自分の足元がパカリと開いて、深い、深い、途方もなく深くて暗い落とし穴に。
音も無く、すうっと落ちていくような。
自分は既にその時、成人していたし、衣食住に困る訳でもない。
男二人で暮らして来たから料理も掃除も、ある程度の家事は勿論、出来る。
父の仕事は時々手伝っていて、だから画廊を継ぐことは問題無いし、自分一人が生きていくのに困らない程度には父が遺してくれたものもある。
不自由はない。
なにひとつ。
一人で生きていける。なのに。
ただ、虚しい。
あの時自分が落ちた、底の見えない深い落とし穴は、そのまま自分の心にぽっかり空いた「穴」になった。
何を見ても何を食べても、埋まらない。
寝ても、悪夢で目が覚める。
ただいま、と帰って来ると当たり前に思っていた人が帰って来ない。
そのなんて冷たい、恐怖。
心まで凍りつきそうな恐怖で。
父の遺品を整理しながら、どこか現実じゃないみたいな日々。
自宅の一室にあった、画家だった父の小さなアトリエ。
時々、気が向くとキャンバスに向かって筆を走らせていた父の背中を思い出しながら、その日も朝から部屋を片付けていたら、まだ何も描かれていない、A4ノートくらいの大きさのキャンバスが出てきた。
ふと、絵筆をとってみたくなった。
経験なんてない。
せいぜい、学校の授業でやった程度。
でも父が描いてるのは幼い頃から隣で見ていたから、手順は分かる。
父が使っていた油絵の具もまだ残っている。
主を失ったアトリエの中心に置かれたイーゼル。
立てかけられた、小さな白いキャンバス。
父がしていたように、木の丸椅子に座って向き合ったら、手が自然に動き出した。
絵の具を出して。
油で溶いて。
ただただ、無心に。
何度も何度も、色を重ねて。
……ふと。
気が付いたら、外はもう暗くなっていた。
何時間、こうしていたのだろう。
食べることも飲むことも忘れて。
……そして、気付く。
どれほど久しぶりだろうか。
こんなにも長い時間、父のことを考えなかったのは。
子供のように夢中になって。
集中して。
何も考えず、ただ手を動かした。
「何も考えずにいること」が、出来た。
本当に久しぶりに。
出来上がった絵を眺める。
まるで波の無い、冬の海のような、つめたくて深い静かな青色が塗り重ねられただけの絵。
きっと誰も見向きもしない。
飾りたいとは思われない。
面白味も華やかさも美しさも無く。
平凡で退屈な、小さな絵画。
でも。
心の中が、少しだけ、軽くなった気がした。
少しだけ、淋しさを絵画に移せたような気がした。
涙も出ない程の悲しみを、青い絵の具に変えて。
ひと筆ひと筆、塗り重ねた時間。
きっと、その時の自分には、必要な時間だった。
(……あれから……)
あの日から。
タイトルも作者名も、勿論値札も付けず。
何年間もひっそりと飾っていたその絵を。
欲しい、と言う人が現れるなんて。
その人は、お日様みたいに優しく笑う。
日向が良く似合う。
綺麗な色の髪がひかりに透ける。
心が安らぐ匂いがする。
行ってきます、と言ったきり帰らなかった父。
あの日以来、誰かを「待つ」のが嫌い。
震えるほど怖くなるから。
なのに、太陽みたいなその人を待ってしまうのは。
思い出してしまったからだ。
待っていた人が現れた時の、歓びを。
心が跳ねるような嬉しさを。
止まっていた時間が動き出すような。
胸につかえた氷のかたまりが、じわっと溶け出していくような。
自分の中の何かが芽吹いて、暖かく色づいていくような。
あの人に出会った日から、
そんな予感がしていて、
少しだけ嬉しくて、
……そしてそれがひどく、怖い。
「そう言えばクリスマスなんですよね、もうすぐ」
12月も半ばに差し掛かった、ある日。
いつものようにやって来た若井さんが買ってくれた温かい紅茶を二人で飲んでいたら、何気ない口調で、若井さんがそう言った。
「あぁ、そうですね」
「大森さんは、あの、その日は何かご予定は……」
「いえ。普段通り仕事して、帰るだけです」
「……!そう、ですか」
一瞬、何故か嬉しそうな顔をした若井さんに、俺もつられて笑って、
「若井さんは?何か、ごよて」
「仕事です」
食い気味に、若井さんが即答した。
「…?あ、そうなんです、ね…?」
「仕事です。もちろんです。もちろんそうに決まってるじゃないですか、ねぇ?」
「いや、俺に訊かれても…」
「それ以外の予定は全く無いですし別にクリスマスだけじゃなく毎日仕事以外の予定は無いですし、なんなら休日もなんの予定も無いんです」
「…なるほど…」
何が「なるほど」なのか自分でも良く分からないまま、何やら物凄く鬼気迫る勢いの若井さんに圧倒されながら、俺は小さく頷いた。
「……まぁ、でも実際、クリスマスは繁忙期ってのも事実で。本当に仕事で終わっちゃいそうですね」
「仕事……あの。差し支えなければ、若井さんは、何のお仕事を?」
「え?」
若井さんは不思議そうに目を丸くして、
「言ってませんでした?」
「はい」
「そうか。言ってなかったか。あの、花屋なんです」
「あ、お花屋さん?」
「と言っても……」
若井さんがポケットから、名刺入れを取り出して一枚渡してくれた。
「銀座本店 フラワーデザイナー 若井滉斗」とあった。
これが、若井さんの下の名前。
「わかいひろと、さん…?」
「はい」
少し照れくさそうに、若井さんが微笑む。
「フラワーデザイナー……なんだか、凄いですね」
「別に凄くは無いんですよ。うちはプリザーブドフラワーを専門に取り扱っている花屋なんです」
「ああ、あの枯れないお花」
「はい。あとはアロマオイルとか。両親と、主に兄が経営しています。フラワーデザインのスクールもやっていて、俺もたまに講師をしたり、デパートにも何店舗か出店していて……そう、こないだも名古屋の百貨店に新しく店を出すことになったので。それで出張に」
「あ、こないだの、ういろうの時の」
「そうですそうです。今の時期はクリスマスのリースが沢山出るので、その製作に明け暮れてます」
言ってから、若井さんが腕時計に目をやって、
「あ、もう戻らないと。そろそろ行きますね」
「……あっ。あの!」
「はい?」
「……もとき、です」
「えっ?」
「元貴です。俺の名前……。元素の元に、貴重品の貴、で元貴です。すみません、名刺は作ってなくて……」
「あ……」
一瞬、驚いたように目を見開いてから。
若井さんが、くしゃっと顔を崩して笑った。
……あぁ、また。だ。
このお日様みたいな笑顔に触れるたび。
自分の中の何かが溶けてしまいそう。
「もときさん。もときさん。……元貴、さん」
まるで大切なものでも扱うみたいに、若井さんが俺の名前を何度も呟いて、
「きれいな名前、ですね」
「……」
「きれいなあなたにすごく、似合う」
独り言のように小さな声でそう言って、また明日、と若井さんが笑って手を振る。
ガラスの扉を押して、店を出て行く。
それからすぐに、入れ違いで、涼ちゃんが店に入ってくる。
「元貴ー!久しぶりー!」
「……うん。」
「元気だった?って一週間くらい前に会ったかー!今日も若井さん来てたの?」
「……うん。」
「そっか!ん?ていうか……ちょ……元貴?熱ある?風邪引いてない?なんか顔赤いけど!大丈夫?耳まで赤いけど!ちょっと元貴聞いてる?本当に大丈夫?元貴ー……おーい……ぉーぃ……」
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!