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<前回までのあらすじ>
藤澤は、若井と元貴の共依存を薄めさせようと元貴に近づく。連絡先を交換し、ご飯に行ったりと、少しずつ仲良くなってきた二人。
元貴は藤澤に褒められたことから、声を出して話すことを練習するが、それが若井の嫉妬心を膨らませてしまった。
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「……なるほどねぇ」
藤澤はテーブルに肘をつき、ティーカップの中のスプーンをゆっくりと回した。金属が陶器に当たる微かな音が、カフェの喧騒に紛れて消えていく。
今日は二人で、何度目かのお茶をしに来ている。元貴が泣きそうな顔で、若井を怒らせたというものだから何事かと思って聞いてみればこの有様。
まさか、あの時の何気ない一言が、これほど大きな波紋を呼ぶとは思っていなかった。元貴が「話す練習をしてみようかな」と冗談めかして言ったとき、藤澤はただ純粋にその背中を押しただけだった。
それだけのことが、若井の独占欲を刺激するとは夢にも思わなかった。
元貴に対する執着の範囲を見くびっていた。
自分の読みの甘さを静かに恨む。
「そうなの、どうしよう涼ちゃん……」
元貴の眉は八の字に下がり、その瞳には明確な不安の色が滲んでいる。
つい最近、藤澤から「敬語は使わなくていいよ、あと涼ちゃんって呼んでほしいな」と言われたばかり。元貴は最初こそ戸惑っていたものの、驚くほどすぐにタメ口で話すようになっていた。それどころか、呼び捨てで良いとまで言ってくれた。藤澤の方が年齢は上だったが、敬語のままではどうしても心の距離が縮まらない。こうして懐に飛び込んできてくれる方が、こちらとしても話しやすかった。
元貴から、縋るような視線を感じる。
「元貴はどうしたいの? それでも続けたい?」
藤澤は、元貴の目を見つめて問いかけた。でも、何となく答えはわかっていた。
「……うーん……若井が嫌がるなら、やめようかな」
元貴はそう言って、力なく視線を落とした。
やっぱり。自分の意志よりも、若井の機嫌を最優先にする。その徹底された思考回路に、藤澤は内心小さくため息をついた。
「……そっか。でもさ、」
藤澤はここで、一歩踏み込んでみることにした。このまま若井の顔色を伺って遠慮するだけではダメだ。若井への過剰な依存を打破するためには、今が絶好の機会かもしれないと考えた。
「今後、手話が分からない人と話す時に、声で話せると便利じゃない?」
「……え?」
元貴は弾かれたように顔を上げた。予想外の角度からの問いかけに、丸い瞳がさらに丸くなる。
「別に、声以外でもいいと思うけどさ。手話以外に人と繋がれる手段を持つのは大事なんじゃないかな」
藤澤は慎重に言葉を選んだ。元貴が文字を読んでいる間、机の下で握った手が汗ばむ。
目指すべきは、元貴の完全な自立だ。若井がいなくても、自分の力で生きていけるという自信をつけさせたい。もちろん、その過程で若井の怒りや嫉妬の矛先が自分に向かないよう、細心の注意を払う必要はある。
だが、若井だって鬼ではないはずだ。元貴がただ「他の男に乗り換える」というような話ではなく、主体的に「自立したい、成長したい」と願うのであれば、最終的には応援してくれるのではないか。藤澤はそう信じたかった。別に二人を今すぐ絶縁させたいわけではない。ただ、もう少し健全で、適切な距離感を持った関係性になって欲しかった。
しかし、元貴の反応は藤澤の予想よりも遥かに頑なだった。
「うーん……でも、買い物する時とか、ご飯行く時とかも、全部若井がやってくれるから、別にそれは……」
元貴は困ったように首を傾げた。その仕草には、悪びれる様子が一切ない。
「あー……なるほど、ね…」
思わず声を漏らし、額に手を当てそうになるのを堪えた。
根が深い。元貴は、若井に依存すること、全てを頼り切ることに、細胞の隅々まで慣れきってしまっている。若井がいない不便さを想像することすら、彼にとってはリアリティのない絵空事ということなのだろう。
「でもほら。この前、温泉いいなって言ってたじゃん。自分だけで行ってみたいなーとか思ったりしないの?」
そう言って、かつて元貴が目を輝かせて話していた話題を引き合いに出した。どうにかこうにか無理やりにでも、自主性を持たせたい。
「うん、……でも、それは若井とか、涼ちゃんと一緒に行きたいな」
元貴は、照れくさそうにふにゃりと笑って、両手の指先を合わせた。目尻が下がった可愛らしいその笑みに、藤澤は何も言えなくなる。
「あー……。嬉しいなぁ、ありがとね」
藤澤も笑みを浮かべ、感謝を伝えた。しかし内心では、途方もない手強さに頭を抱える。
(嬉しいけど……そうじゃないんだよなぁ…)
どれだけ外に連れ出そうとしても、元貴は「若井(あるいは藤澤)が一緒であること」を大前提としてしまう。自分が困った時、不安な時、常に誰かが一緒にいて助けてほしい。そう思うのだろう。
(まぁ、まだ精神的に不安定ってこともあるし、そこは仕方ないね)
藤澤は、ティーカップに残った冷めた紅茶を飲み干した。
若井の不機嫌の理由は、単なる独占欲の暴走だ。そして元貴は、その暴走に怯えながらも、檻の居心地の良さから抜け出す方法を知らない。
「あのさ、元貴。ゆっくりでいいからさ」
そう言いながら元貴の強張った手をテーブル越しにそっと包み込む。
「若井を安心させるためにも、少しずつ『一人でできること』を増やしていくのは、悪いことじゃないと思うよ。俺も、手伝えることがあれば何でもするから」
我ながらいい誘導だ、と思った。
若井のために、という目的は一見自立とは遠い献身に見える。だが、その過程で若井から距離を置けるのではないかと考えた。
しかし。
「……安心? どういうこと?今のおれは、若井を不安にさせてるの…?」
元貴の目線がピタリと止まった。少し怪訝そうに眉を寄せ、丸い瞳でじっとこちらを見つめてくる。その純粋ゆえの鋭さに、藤澤は内心で冷や汗が流れるのを感じた。
(しまった、ちょっと急ぎすぎた)
若井との関係性を疑うようなニュアンスは、今の元貴にとっては最大のタブーに近い。藤澤は机の下で軽く拳を握り、頭の中で瞬時に言葉を組み立て直す。元貴を警戒させず、かつ自分の意図する方向へ導くための、最も自然で、最も痛みの少ない嘘を探す。
「ううん。そんなことないよ。けど…」
藤澤は困ったように眉を下げ、ティーカップの縁を指先でなぞった。
「……あんまりこういうこと、言いたくないんだけどさ。前に若井が倒れたこと、あったじゃん」
その言葉が出た瞬間、元貴の表情が凍りついた。
それは、元貴にとって一生消えない記憶だった。若井が自分の世話をする日々に摩耗し、限界を迎えて倒れてしまったあの日のこと。元貴はその時の光景を思い出したのか、目に見えて肩を小さく窄め、自分の腕のあたりを無意識にさすり始めた。
「うん」
元貴の反応は、先ほどまでの勢いを完全に失い、酷く小さく、弱々しいものになっていた。
「……だから、……ね?」
藤澤はあえて言葉を濁し、遠回しに結論へと繋げようと迷う素振りを見せた。元貴自身に、その先を想像させ、自発的に気づかせた方がこちらの意図が深く浸透するからだ。
「……おれのせいってことは、分かってる」
元貴はぽつりと、スマートフォンの画面に文字を打ち込んだ。その指先は微かに震えている。
「いや、元貴のせいってわけじゃ」
「ううん、若井が疲れてたの気づいてたのに、何も出来なかったし。さっきも言ってたけど、おれ、頼りすぎなのかなぁ……。変かな、」
元貴は俯いたまま、絞り出すようにそう零した。
当たり前に二人三脚で生きてきた。若井が右足なら、自分が左足。そう信じて疑わなかった若井との関係性を、「変かもしれない」「歪かもしれない」と疑うことは、元貴にとって自分の世界の土台を揺るがされるほどの苦痛を伴うはずだ。 それでも、目の前の青年は、藤澤の差し出した小さな疑問の種を、自分の胸の中に受け入れてくれた。
藤澤は、その痛々しい姿に胸を痛めつつも、計画が確実に一歩前進したことに、大きな安堵を覚えた。
「……変、じゃないよ。しんどい時に、ずっと一緒にいてくれたんだもんね」
藤澤は、元貴の過去の傷を全肯定するように、優しく手話を紡ぐ。
「……うん。若井がいなかったら、僕いま生きてないと思う」
「そうだよね。……でも、さっき言ってくれた元貴の思いも、すごく大事だと思うんだ」
「思い?」
元貴が不思議そうに顔を上げた。涙で潤んだ瞳が、藤澤の唇の動きを追う。
「うん。若井が疲れてるのに頼りすぎかな、少し休ませてあげたいな、っていう……元貴の優しい気持ち」
「……うん」
藤澤は、元貴が口にしていない「休ませてあげたい」という言葉を、さも元貴自身が言ったかのようにしれっと付け加えた。しかし、罪悪感で視野が狭くなっている元貴は、そのすり替えに気づいていない。
よし、このままだ。藤澤は心の中で確信を得る。
「これは提案だから、最終的には元貴がどうしたいか決めてもらっていいんだけど」
「なに?」
「元貴が、若井のために出来ることを増やしていくのはどうかな?」
あえて「若井がいなくても生きていけるように」という言い方は避けた。それは若井への裏切りだと、元貴の防衛本能が拒絶するからだ。あくまでも「若井のために」という大義名分を掲げる。
「そんな、ちっちゃい子のお手伝いみたいな……」
元貴は恥ずかしそうに両手を組み、顔を真っ赤にして下を向いた。
「全然恥ずかしいことじゃないよ。若井、すっごい喜ぶと思う。ご飯作ったり、お買い物に行ってあげたりさ」
「………できるかなぁ、おれ」
「出来るよ。だって、ここまで俺と一緒にご飯に行ってくれたり、外に出られたりしてるじゃん。元貴は、自分が思っているよりずっと強いよ」
「うーん……」
それでも、元貴の歯切れは悪かった。若井のいない場所で何かをすることへの恐怖、そして、自分が変わることで若井との世界が崩れてしまうことへの、無意識の恐怖が彼を躊躇わせている。
藤澤は少しの間、沈黙した。
賑やかなカフェの音だけが二人の間に流れる。藤澤は、元貴の心を動かすための、最後の引き金を引くことにした。真剣な、少し冷徹な光を瞳に宿し、ゆっくりと口を開く。
「自分のせいで若井を疲れさせてると思うなら、なおさら動くべきなんじゃないかな」
「っ、」
元貴の身体が、電流が走ったように跳ねた。
彼は勢いよく顔を上げ、藤澤の目をまっすぐに見つめた。その瞳には、怯えと罪悪感が宿っていた。まるて心情を代弁したかのような口調にしつつ、こちらの意志を強く押す。すると元貴は徐々に顔つきが変わってくる。
「……わかった、やる。頑張る」
元貴の指先が、力強く文字を刻んだ。
その表情には、先ほどまでのオドオドとした弱さは消え、大好きな人を守るための、決然とした覚悟が満ちていた。
「元貴が決めたことなら、俺は全力で応援するよ。一緒に頑張ろうね」
藤澤は、聖人のような微笑みを浮かべ、元貴の手を優しく包み込んだ。半ば誘導だったが、何とか「元貴本人が決めたこと」と結論づけることが出来た。 藤澤がほっとしている中、確かな決意を込めて何度も頷く元貴。
気づかれないように、机の下で小さくガッツポーズをする。
このことが、これから二人をどれほど残酷な運命へ導くかも知らずに、藤澤はただ、若井を救い出せるという希望に胸を躍らせていた。
コメント
13件
更新ずっと待ってました!! このまま元貴くんがまともな人間になっていっちゃうのなんか解釈不一致だったので、すんなり行かなそうな雰囲気でちょっと安心しました(最悪でごめんなさい🙇) この話ほんとに最高です🫶大好きですありがとうございます😭
藤澤の手のひらの上で 遊ばされてるー!! 大森さんの純粋な心には 分からないか🥲
涼ちゃんの立場も辛いなぁ、残酷な運命、若井さんと大森さんは仲良いまま、幸せになってもらいたい。涼ちゃんも辛いし報われて欲しい。どうなっちゃうんだろう。