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部屋にひとり残されてから、どれくらい時間が経ったのか、ノワールにはわからなかった。窓から差し込む光は少しずつ角度を変えているのに、その変化を追いかける気力がない。
ベッドの上で膝を抱え、背中を丸めたまま、ただ外を眺めていた。
世界は動いている。
それなのに、自分だけが取り残されている気がして、胸の奥がひやりとする。
誰にも忘れられていないはずなのに、ここにいていいのかどうかが、わからなくなる。
聖堂へ行くかどうか。
その選択が、思っていた以上に重たかった。
扉の前に立ち、ノワールはしばらく動けずにいた。
行かなくてもいい、と言われている。
行ってもいい、とも言われている。
どちらも許されている。
それなのに、選ばなければならないこと自体が、怖かった。
(行かなかったら、どうなるんだろう)
(行ったら、何かを期待されるんだろうか)
足を一歩前に出す想像をしただけで、胸の奥がきゅっと縮む。
期待も、失望も、どちらも受け止める自信がなかった。
それでも気づけば、ノワールの手は扉にかかっていた。
理由ははっきりしない。
ただ、このまま部屋に閉じこもっているのも、違う気がした。
聖堂の中は、静まり返っていた。
祈りの声はなく、澄んだ空気だけが満ちている。
高い天井と、並んだ椅子。そのどれもが、過剰に主張することなく、そこに在った。
ノワールは端の席に腰を下ろす。
背筋を伸ばすでもなく、深く俯くでもない。
祈る理由も、考えたいことも見つからないまま、ただ座っていた。
「ここにいる」
それだけで、十分な気がした。
しばらくして、扉が開く音が響く。
ノワールの体が、反射的に強張った。
入ってきたのは、ステラだった。
声をかけられるかもしれない。
理由を聞かれるかもしれない。
そう思った瞬間、心臓が早鐘を打つ。
けれどステラは、ノワールを見ると、ほんのわずかに微笑んだだけで、何も言わなかった。
そのまま祭壇の方へ向かい、静かに自分の仕事を始める。
それだけだった。
気まずさが胸をよぎる。
何か言うべきなのか、立ち上がるべきなのか。
判断がつかないまま、ノワールは席に座り続けた。
ステラは振り返らない。
無関心とも違う、けれど踏み込まない距離。
その沈黙に、ノワールはほっとする。
同時に、胸の奥に小さな寂しさが生まれた。
指先が、無意識に膝を掴む。
(……話さなくていいのに)
(……でも、少しだけ、声をかけてほしかった)
相反する感情が、同時に胸に残る。
それを整理する言葉は見つからないまま、時間だけが過ぎていった。
夕方、部屋に戻ると、小さなテーブルの上にポットとティーカップが置かれていた。
その光景を目にした瞬間、足が止まる。
そばには、短い置き手紙。
――冷めてたら、温め直して飲んでね。
――夕飯は、一緒に作る?
たったそれだけの言葉。
けれど、胸の奥がじわりと熱くなる。
ノワールはポットを手に取り、カップに紅茶を注いだ。
湯気はほとんど立たず、指先に伝わる温度は少しぬるい。
それが、時間が確かに流れていた証みたいで、妙に現実的だった。
一口、口に含む。
やさしい味が、ゆっくりと広がる。
126
#(重度なるメタ発言)
苹果🍎
64
ゆ(旧「ゆゆゆゆ」)
503
その瞬間、喉の奥が詰まった。
飲み込もうとすると、うまくいかない。
気遣われたことが、どうしようもなく嬉しくて、苦しい。
涙が、静かに溢れた。
カップを持ったまま、ノワールはしばらく動けなかった。
夕方、台所から規則的な音が聞こえてくる。
鍋の触れ合う音、包丁がまな板に当たる音。
ステラは夕飯の支度をしていた。
その背後で、控えめな足音。
「……ステラ」
呼ばれて、ステラは振り返る。
その一言に、目を瞬かせた。
名前を呼ばれたのは、これが初めてだった。
そこに立っていたのは、ノワールだった。
少しだけ俯き、視線を逸らしながら、それでも逃げずに立っている。
「紅茶……ありがとう」
「夕飯の支度、手伝いたい」
声は小さく、震えていた。
けれど、言葉は途切れなかった。
別に、すべてを信用したわけじゃない。
安心したと、言い切れるほどでもない。
ただ、あのとき、名前を呼びたくなった。
それだけだった。
ステラは一瞬だけ驚いた顔をしてから、穏やかに微笑む。
「うん。お願いしようかな」
理由も、評価も、求めない。
それが、今のノワールには何よりありがたかった。
ノワールは、その隣に立つ。
まだぎこちない距離。
それでも、確かに並んでいる。
この日、ノワールは初めて、
「呼びたい名前を呼ぶ」という選択をした。
それは小さく、頼りない一歩だったけれど、
確かに、自分で踏み出した一歩だった。