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エリカという花の名はおろか、彼に会うまでその存在さえ知らなかった。
球体に閉じ込められたその花を見る。
五ミリほどの小さなボンボリ調の白い花が、枝からこぼれ落ちんばかりに、たくさんついている。
不思議なことに、このガラスでできているはずの花は、両手で包み込みながら少し左右に振ると、それに合わせて揺れた。
実際には鳴るはずないのだが、その花の形状から、まるで鈴のような音が聞こえる気がする。
朝食が終わり、10時からのレクリエーションまでの空き時間を利用して、看護師の監視のもと陽菜はこの不思議なガラスのボールに触れることを許されている。
何も刺激のない毎日の中では唯一の楽しみだ。
「なんで、私だけ!!どうして!!!!」
「ワタナベさん!待ちなさい!」
陽菜のささやかな幸せの時間は、ワタナベさんの叫び声と何かを破壊する音と共に終焉を迎えた。
付き添いの看護師が「ごめんね、行かなきゃ」と立ち上がる。
ガラスのボールは、看護師と共にいってしまう。
わずかに開いたドアの隙間から、ものすごい勢いで右から左へ抜けていくピンク色のパジャマが見えた。ワタナベさんだ。
精神病棟に移って10日経つが、絶えず聞こえてくる罵声と泣き声、職員の緊迫した表情には慣れることができない。
陽菜は一人になった部屋で、1日数百回繰り返すため息を、今日も吐き出した。
彼に会ったのは、東の水平線から朝日が上った数分後だった。
幼いとき、よく両親と兄と遊びに来ていた萬座岬。思い付く場所がここしかなかった。
冬の日の出は遅く、やっと赤い太陽が顔を出した頃にはすっかり体は冷えきっていた。昇る太陽を見ながら、特に美しいとも思えなくなった自分は、生きる屍のように空っぽだ。
朝日が水平線を離れ、空が黄色くなってきた頃、不意に後ろから声をかけられた。
「君、戸塚山中学出身だろ」
振り向くと、小綺麗な男が立っ
ていた。殴られたのだろうか。口の端が僅かに黒い。
自分も同じような顔をしているかもしれない。陽菜は思わず手で口元を覆った。
「ほら、やっぱり。そうだよね」
嬉しそうに微笑むその顔には、ほんの少し見覚えがあった。
誰だろう。
同級生にしては大人びている。
先生?こんな若くて美形の教師いただろうか。
「覚えてないよね」
彼はどちらでもいいというように軽く笑うと陽菜の隣に立った。
「こんな風の強い日に岬に立つなんて危ないよ。いたずらに発生した上昇気流にさらわれてしまうかもしれない」
なんだか気恥ずかしくなるような台詞を嫌味なく吐く彼のせいで、陽菜は現実感のない、夢でも見ているような不思議な感覚に陥った。
「とりあえず今日は帰りなよ。深く考えずにさ。帰ってゆっくり眠るんだ」
事情を知らないはずの男の声が、胸に染みこむ。
陽菜はなんだか良い香りのする男の脇を抜けると、まるで催眠術にでもかかったように岬を後にした。
「あの人、岡崎組の人らしいよ」
初めは好奇心からだった。
転勤族で子供を置いて、全国を飛び回っている両親や、思春期にはもう働いていた年の離れた兄とは何となく疎遠で、半ば強制的に押し込まれた大学にも退屈していた時期だった。
そんなとき、塩野卓巳に出会った。
「ねー、この子、陽菜。かわいいでしょ?大学生なんだよ。よろしくね」
入り浸っていたショットバーで、そう紹介してくれたのは誰だったか、もう思い出せない。
だが塩野は顔をあげると意外なほど真顔で「JDってやつだな」と言い、周囲を湧かせた。
聞いてみると、大人っぽく見えた塩野は陽菜と同い年だった。
彼はニコニコ笑うわけではないが、たまに見える表情の綻びがかわいらしく、不思議と守ってあげたくなるのだった。
連絡先を交換し、何度か二人で会い、付き合い出すのにそう時間はかからなかった。
兄と住んでいた窮屈な社宅を抜け出し、塩野のマンションに入り浸った。
恋人になると彼の態度は少し変わった。
ものすごく嫉妬深くて、ゼミが同じ男子とのLINEを見ただけで膨れ、籍だけおいてたサークルの飲み会が入ると、あからさまに不機嫌になった。
今までろくに恋愛経験もなかった陽菜にとっては、嫉妬されることが嬉しくて、つい調子に乗ってしまった。
いつもは参加しないゼミの飲み会に行き、わざと男たちと写メを撮ってLINEで送った。
だがいつまで経っても既読にはなっているが、返信がこない。
さすがに怒ったかな、と思っていると、入口付近の女子たちが窓の外を見ながら色めきだっていた。
「うわー。こんな細い路地にベンツ横付けなんだけど」
「絶対あの人、そっち系でしょ」
その次の瞬間、両開きの入り口が勢いよく開けられた。
明るいグレーの光沢のあるスーツは、角度によってシルバーに見え、中にベストも合わせて、一目で上等なものとわかる。
黒い髪をぎりっとオールバックに固め、顎を軽くつきだして入ってきたのは、塩野だった。
あっけにとられた大学生で溢れた居酒屋をぐるりと見回し、ものの数秒で陽菜を見つけると、一直線に畳とテーブルを交互に踏みつけ、料理を落とし、ジョッキを倒しながら向かってきた。
陽菜も含めた全員が呆然と見守るなか、ノースリーブを着た陽菜の細い腕をとり、一言口にした。
「上等だ、アバズレ」
その日、初めて塩野に殴られた。
一度たがが外れると、彼は頻繁に陽菜を殴るようになり、その後決まって酷く抱いた。
だが耐えきれなくなった陽菜が、電話帳から男の名前を消し、ゼミもサークルも顔を出さなくなったことで、少しずつ暴力は収まっていった。
年が明け一ヶ月が経とうとしたある日、降り続いた雪の晴れ間を見つけて、気まぐれに社宅に帰ると、家を空けることの多かった兄が、珍しくいた。
「夜勤明け?」
頬の腫れは引いていたが、警察に所属している兄の手前、岡崎組の男と付き合っていることに引け目を感じ、ごまかすように自分から話しかけてしまった。
「俺はもう派出所勤務じゃねーよ」
風呂上がりなのか上半身裸でパックごと牛乳を飲んでいる兄の体は、どう鍛えているのか引き締まっていた。
マンツーマンなら塩野に勝てるだろうか。
「じゃあ今はどこにいるの?」
「刑事課」
刑事?聞いてない。
「殺人犯とか捕まえちゃうわけ?」
「今は二課。詐欺や暴力団関係」
ーーーー何それ、もっと聞いてない。
「お、岡崎組とか?」
兄の目つきが変わる。そんな固有名詞を唐突に出したら不自然かもしれない。
だが兄はふっと息を吐き、
「お前でさえ知ってるんだから、奴らもでかくなったもんだよな」
また牛乳を飲み始めた。
ゴキュッ、ゴキュッ、ゴキュッ、ゴキュッ。
喉をならす音がカウントダウンに聞こえる。
ばれたら、殺されるかもしれない。
塩野に?
岡崎組に?
それとも兄に?
わからない。
いつの間にか、足がまた萬座岬に向いていた。
寄せては返す波の音が、今日は何だか拒絶するように冷たく聞こえる。
「さすがにいないか」
少しばかり、彼に会えることを期待していた。しかしこんな夜中に海なんか見ようとする人間などーーーー。
カシャッ。カシャシャシャッ。
崖下で、カメラのシャッターを切る音が聞こえる。
もしかして。
期待に胸を高まらせつつ、岩石に敷かれた階段を降りていくと、彼はまたそこにいた。
赤、青、緑に光るイルミネーションライトを、波の中に入れ、それをカメラに収めている。
「櫻井先生」
話しかけると男はさほど驚いた様子もなくゆっくり振り向いた。
「思い出してくれたんだ」
「松ヶ岬市、美形、先生で検索したら、ガラスアーティスト咲楽って出てきて、思い出したの。うちの中学校に、教育実習できた櫻井先生でしょ?」
彼は笑った。「そんな雑な検索ワードでよく出てきたね」
つられてこちらも笑う。
「松が岬市、美形、変態で検索しても出てきたかも」
「変態?ひどいなぁ」
「こんな夜中にそんなピカピカするもの沈めて写真取りまくってるなんて、通報されますよ。イカの密漁者がいるって」
彼はカメラを構えた両手を下ろし、確かに、ともう一度笑った。
「水を題材に製作してるんだけど、どうしても躍動感がたりなくて。夜の飛沫はどういう風に反射するのか写真に撮ってたところだよ」
話している間にも、イルミネーションは光り、岩壁に打ち付けられる波が、反射しあってキラキラと輝いている。
「きれい」
陽菜は水面に浮かぶ光の粒を見ながらしゃがみこんだ。
「ああ、美しいよね」
彼も隣に腰をおろし、仰々しいカメラを首から外した。
「やはり自然の造形は、僕の想像も創造も越えた、遥か高みにあることを思い知らされるよ。まだまだ僕はそれを表現出来ていない」
芸術家の言葉だと意識したとたん、それらは気恥ずかしいキザな台詞から、こちらの理解を超えた卓越した言葉に姿を変える。
だが、遠い昔、こんな風に、彼に誉められたことがある気がした。
色とりどりに光るその顔を見て、美しいものを美しいと素直に思える真っ直ぐなその瞳を見て、この人は大切な人を傷つけたりしないんだろうな、と思った。
「櫻井先生の恋人はきっと幸せでしょうね」
その気持ちが、自分でも信じられないほど幼稚な問いに姿を変え、言った直後に羞恥心と後悔が胸を襲った。
だが、彼はさほど気にする様子もなく、さらりと答えた。
「恋人はいないよ。愛している人ならいるけどね」
色とりどりの顔が驚くほど軽やかに言う。
「片想いなんだ」
片思い。その響きがやけに新鮮で、可愛らしくて、ついついもっと聞きたくなる。その純粋な気持ちに触れたくなる。
「その人には思いを伝えないの?」
言うと、今度は十分に考えてからうなじを掻いた。
「幸せにしてあげられる自信がないからね。僕は、誰かが幸せにしてくれているその人を見ているだけで十分さ」
「えー。人任せー」
そんなに面白いことでもないのに、二人は笑った。
「――――でもそれって悲しくないの?」
膝を抱えて座りながら顔を傾けると、彼もふざけてかまるで鏡のように同じ態勢をして、首を傾けた。
「僕は隣で愛する人が苦しんでいるのを見る方が辛いから」
突如大きな波が岩壁に打ち付けられ、二人にかかった。
ビショビショに濡れながら、ジーッと変な音を出し始めたカメラを彼が慌てていじっている。
陽菜はそれを見ながら、塩辛い口を大きく開けて、笑った。
笑ったふりをした。
心が決まった。
――――去ろう。塩野の元を。私では彼を幸せにしてあげられない。