「……井戸?」
『へい。昔から古井戸は境目なんでさぁ。他には橋や、川。そういう場所が彼岸あっちと此岸こっちをつなぐ場所だったりするんですわ。上野こうずけや下野しもつけのあたりじゃ雪隠トイレもそういうもんだとみなしてたみたいでさぁ。まぁ、これはお館様からの受け売りですが』
どこだよ、『こうずけ』に『しもつけ』。
という、モンスターの使った言葉に対して疑問はあるものの……今、そこは大事ではない。
「古井戸を使えば、仙境に行けるってこと?」
『そういうことでさぁ。あっしが向こう側への入口を開ける。閂カンヌキか、あっしにしかできねぇ法術ですぜ』
「……ん」
『鬼腫キシュを祓っちまえば、仙境が釣り合いを取り戻す。そうすりゃこっちで人は死なねぇ。坊っちゃんも刀を手に入る。これが「うぃん-うぃん」ってやつでさぁ』
「…………」
モンスターがそう言いながら、古井戸に近づく。近づきながら『導糸シルベイト』を伸ばすと、そのままぐるりと古井戸を囲った。
俺は別に、妖刀を心の底から欲しいとは思っていない。
ただ、仙境にあるという桃。
それがあれば、ニーナちゃんの心が治るという。
どちらからというと、俺の用があるのはそっちなのだ。
『これで繋がった。ひへへ、滾たぎってきましたわ』
モンスターが不気味に笑う。
そんなモンスターを横に俺がその古井戸を覗き込むと、井戸の奥に別の景・色・が見えた。
真っ青な空。牧歌的に流れる白い雲。
そして、生い茂った植物たち。
「これ、飛び込めば良いの?」
『おっしゃるとおりでさぁ。ひとたびくぐれば、向こうは仙境だ』
1つ目のモンスターが、にまっと笑う。
あいも変わらず目が大きいから感情が分かりやすい。
俺はそんなモンスターに頷きを返した。
返しながら、晴永ハルナガが仙境への入り方を知るはずのないな……と思った。
井戸に魔法を張って、そこから出入りするなんて教えてもらわなければ知れるはずもない。
『さて、坊っちゃん。行きやしょうか』
「うん」
俺は頷くと、父親に視線を送る。
父親はその視線に深く頷くと、鍛冶師の身体を『導糸シルベイト』で持ち上げた。
「話は聞いた。にわかには信じられないが……しかし、仙境があると思えばこれまでのセンセイの行動にも辻・褄・が・合・う・。本当だったらパパも行きたいのだが、それは無理なのだろう?」
『へい。向こうに慣れていない大人が仙境に入れば、魔力にあてられて死んじまいますぜ』
「……分かった。それは、仕方あるまい。ここで待っていれば良いんだな」
父親は自分に納得させるようにそう言うと、
「何かあったらすぐに戻ってくるんだぞ、イツキ」
「うん。行ってくるよ、パパ」
そう言ってから俺は古井戸に視線を戻す。
戻すなり隣にいたモンスターが口を開いた。
『じゃあ、坊っちゃん。あっしが先に行きますから、続いてくだせぇ』
そういって、モンスターが飛び込む。
その姿が消えるのを待ってから、俺も古井戸の淵に足をかける。
眼下に広がる全く別の世界。
「…………うん」
誰に聞かせるわけでもない決意を一人こぼす。
そして俺はいざというときのために後ろに『導糸シルベイト』だけ伸ばし、重力に身を任せて古井戸に向かって飛び込んだ。
どぷん、と身体が水に沈み込んだような感覚が全身を襲う。
だが、水ではない。息ができる。眼の前が真っ白になって前後左右が分からなくなる。
その瞬間、遥か頭上から声が聞こえた。
『坊っちゃん。こっちでさぁ』
声の方向に身体を向けると、何かに引っ張られるようにして全身が浮き上がる。
浮き上がった途端、急に真っ白い光が目を指した。
『着きやしたぜ』
その言葉に誘われるようにして目を開く。
強い太陽の日差しに目がゆっくりと慣れていく。
『ここが仙境でさぁ』
その瞬間、俺の目に入ってきた景色は『神在月』家で見た掛け軸の水墨画にとても似ていた。
「……日本じゃないみたい」
まるで中国の仙人が住んでいそうな光景と言えば良いだろうか。
深く木々の生い茂った谷の向こうには、同じように緑に覆われた岩が山のようにいくつも生えている。
俺たちが立っているのは、そんな岩山の1つ。
俺たちの地面にはわずかばかりの草が広がり、遥か眼下は木々で覆われており谷底を見ることはできなかった。
そんな緑ばかりの景色からぱっと後ろを振り向くと、俺たちのすぐ後ろには不自然な穴がぽっかりと空いており、そこから古井戸の内壁が見えた。多分、さっき俺が出てきた穴がこれなんだろうな。
一方、その穴のさらに後ろには雄大な自然がどこまでも広がっている。
まるで無限に続いているんじゃないかと思うほどの大自然から視線を外し、俺はぽっかりと空いた穴をまじまじと見つめた。
「帰る時はここに入れば良いの?」
『そういうことでさぁ』
随分と分かりやすい魔法である。
俺も練習したら出来るようにならないだろうか。
そんなことを思いながら、穴を覗いていると金色の何かが動いたのが見えた。
『さぁて、鬼腫キシュを探しやしょうぜ。なに、そう難しいことじゃありやせん。向こうはイカれちまったやつでさぁ。放っておいても向こうから……』
「ちょ、ちょっと待って!」
慌てて俺は『導糸シルベイト』を丸い穴に向かって伸ばす。
その瞬間、何かが糸の先端に引っかかった。
それを勢いよく引っ張り上げると、世界に空いた穴から飛び出したのはニーナちゃん……と、それにくっついたアヤちゃんだった。
『じょ、嬢ちゃんたち!?』
「あ、イツキくん!」
モンスターが驚いた声を出すのと、ニーナちゃんを抱きしめたアヤちゃんが俺を見つけるのは同時だった。
「なんで来ちゃったの!?」
「だ、だって……」
「……あ、あのね」
俺がそう問いかけると、バツの悪そうな表情を浮かべた二人は目を見合わせると先にニーナちゃんの方から口を開いた。
「……だって、私はまだイツキに価・値・を返せてないもの」
静かに。しかし、強い意思の滲む声でニーナちゃんが続けた。
「私に、適・性・があるんでしょう? だったら、仙境に入れば何か……イツキの役にたてるかもしれない。イツキが一緒にいてくれる価値を返せるかもしれないと、思って……」
段々と声量が尻すぼみになっていくニーナちゃん。
俺は彼女にどう言葉をかけるか、少し迷った。
再三、本人には言っているのだが俺は別にニーナちゃんに価値を感じたから一緒にいるわけではない。無いのだが彼女がそう思ってしまっている以上、多分このまま説得は無理である。
俺はそのまま視線をアヤちゃんに向ける。
「ち、違うの! 私はニーナちゃんを止めようと思って。でも、入っちゃって……。あ! あと、その氷雪公女の力があればイツキくんも楽になるかなとか、思って……」
俺に責められていると思ったのか、アヤちゃんがあやふやな口調でそんなことを言う。
いや、絶対その氷雪公女の理由はいま思いついたでしょ……。
『どうしやす、坊っちゃん。戻ってもらってもええですが』
「それは嫌!」
モンスターの言葉に、尻すぼみに小さくなっていたニーナちゃんの声量が戻った。
「私はイツキの役にたたないといけないの……!」
ニーナちゃんがそういうものだから、困ったようにモンスターが俺の方を見てくる。
だから俺はさっきまで思っていたことを続けた。
「こっちに来ちゃったんだから仕方ないよ。このまま鬼腫キシュを探しに行こう」
『ううむ。お優しい坊っちゃんだ』
優しい、のだろうか。
ニーナちゃんと祓除モンスターハントをやるのは1年前からずっと続けてきたことだ。場所が学校から仙境に変わったところで、やることは変わらない。
それに、祓除はアヤちゃんとも何度か一緒に行ったことがある。
そういうのが初めてじゃないから俺はそう言っただけなのだ。
そうやって俺が答えに困っていると、そんな沈黙を埋めるように、ざぁ、と木々が風に揺れた。
「……?」
「どうしたの、アヤちゃん」
その瞬間、アヤちゃんが奇妙なものを見たように首を傾げると辺りを見回しはじめた。
「イツキくん。さっき風吹いた?」
「吹いた……んじゃないかな。木が揺れてたし」
俺がそう答えると再び、ざぁざぁと木々が揺れ始める。
木々は揺れるのだが、不思議なことに風は吹いてこない。
全く無風のまま、木々が揺れている。
木々に視線を向ける。それじゃ上手く見えなかったから『視力強化』の魔法を使う。
揺れる木々をそうして見た瞬間、
「……っ!」
思わず、息を飲んでしまった。
木に見えているのは、木ではなく。
さっきから聞こえているのは、風に揺れる木の音なんかじゃない。
『坊っちゃん嬢ちゃん方。気をつけてくだせぇよ』
そこにいたのは、枯れきった老・人・たちだった。
シワがれて、体表にヒビが入り、樹木のようにただその場に音を張って、大きな声を開けて笑い続ける老爺たち。それが遠目に木のように見えている。
ざぁ、と音がした。ざぁざぁと連なる嵐のような音がした。
それは全・て・笑・い・声・だ・。
「……これって」
その音を破るようにして、1つ目のモンスターが言った。
『ここはもう仙・境・なんでさぁ』