コメント
0件
わたしが息を切らして夜の公園に辿り着くと、シューと。殺虫剤の音がした。
半袖短パンに汚れた帽子、Kがアリを皆殺しにしている。
こちらの様子に気づいても、Kはアリを殺すのをやめなかった。
なぜ殺すのと聞くと、Kは「かわいそうだったから?」と言った。わたしの胸中に道徳的なあれこれが渦巻いて、それでも口から出てきたのは「そう」なんて二文字だけ。
そうこうしているうちに、アリはすべて死に絶えた。
アリの死の行軍は最初に見た時より随分大きくなっていて、早い段階で皆殺しにしていれば、ここまで大きな被害にはならなかったことが容易に想像できた。
Kは帽子を脱いで、髪をかきあげると、月明かりの下でこう言った。
「私、もう出て行くから。何でも聞いていいよ。」
ジュースを買って、二人で公園のベンチに座る。
「服? ああ、父さんが恥ずかしがって女のを買わないだけだよ。ワンピースは捨てられた。ていうか、あの日すごいお腹殴られたんだよね。人から物を貰うなって。お姉さんたちは良いことしたつもりだったかもしれないけど。こっちは良い迷惑だよ。」
これまでのKとは思えないほどの饒舌さに、まず驚いた。
Kはしゃべることが苦手だと思っていたけれど、実際には不都合なことを言わないだけだった。
「そもそもさ。お姉さんたちが通報したから、私出てかなきゃいけなくなったんだけど。どうしてくれんの? ねえ、どうするの?」
……すみません。
そんな言葉しか出てこない。情けない限りだ。
最初はKをどうにか説き伏せて、児童相談所に保護してもらおうと思っていたものの、すぐにそんなことは無理だとわかった。
「これまで勉強とか全然してこなかったのに、今更じゃん。みんなが何年もかけて学んだことを、一気に勉強しなきゃいけないんでしょ? ヤダ。それに私のせいじゃないし。面倒くさい。」
Kは学ぶ気がないのだ。
Kの父親も学ばせる気がない。
勉強嫌いな子供はいくらでもいるけど、それでも学校に通うことで学びの機会を得る。本来あるべき機会が与えられないと、こうなるのか。
学校に行っていないと将来大変だよ。なんて言葉はKに通じなかった。将来なんて遠い先のことはわからない、そんなことより今の方がずっと大事なのだそうだ。
「あんまりしつこいと、帰るよ。」
そう言われると、強く出られなくなってしまう。
Kを変えてやろうと思うこと自体が間違いなのかもしれない。
「もう、質問はいいから。黙って聞いて。」
「はい。」
そう言ってKが語り出したのは、とある男の子の話だった。
近所の小学生の男子らしく、夏休み初日から一週間ほど一緒に遊んでいたのだそうだ。
遊びの内容は他愛もないことだ。公園の蛇口をつかって水をひっかけ合ったり、マヨネーズの容器に水を入れで水鉄砲にしたり、コーラの空き缶でサッカーをして破裂させたり。
Kは彼のことを本当に楽しそうに話した。
これまで笑うことのなかったKが始めて笑っていた。
どうやら自覚していないようだけど、きっとこれは恋なのだろう。
でも、その恋には終わりが来る。
「あの、ごめんね。わたしのせいで。」
「いや、これは違うやつ。もう二度と会うなって、私が父さんに殴られてそれっきりだから。お姉さんに会う前に終わってるんだよ。なんなの? 私の人生ずっとこんなんかよ。」
「セミがすごいうるさくてさ。で、あの子がうちのピンポン押しまくるわけ。Kちゃんあそびましょーって。何度も何度も言うの。でも、私は父さんに殴られるから出られないでしょ。すぐ近くにいるのにごめんねも言えないんだよ。そんで、すごくセミがうるさいんだ。」
うなだれるKは泣いていた。
なんてことはない。この子にとっては学校に行くことよりも、字を覚えることよりも、計算ができるようになることよりも、たった数日一緒に遊んだ友達との別れの方が、失われた恋の方が、ずっとずっと一大事だったのだ。
今回だって、誰かに聞いて欲しかっただけなのだ。
わたしは何もわかっていなかった。
今思えば、出会った当初元気がなかったのも当然だ。Kはその時、ちょうど失恋直後だったのだから。
その話をきっかけに、わたしとKは仲良くなった。
あまりにも遅い進展だけれど、何もないよりマシだ。
わたしはKを騙して警察に引き渡すつもりでいたのだけれど、そんな気はもうなくなってしまった。
わたしはKと間違えることに決めた。
本当に行きたい場所がそこでなくても、この先にある未来がロクなものでないとわかっていても、今この時を共に過ごすことに決めた。
きっと未来のKは後悔するだろう。
わたしも後悔するだろう。
問題に気づきながら、気づかないフリをしている。
教師を目指す者としても最低だ。
でも、それでもいいと思った。
わたしのとっておきの恋の話や、どうしようもなかった失恋の話をした。Kは興味津々になって、互いの苦しみを共有した。
それは甘い棘となって、わたしたちの心を傷つけ。傷口からは黒いタールのようなものが流れた。醜くも愛おしいその時間は何にも代えがたいもののように思えた。
でも、これは二人だけの秘密だ。
Kの抱える事情についても話してくれたけど、どこまでが真実でどこまでが嘘なのか、判然としない。
言葉のままに捉えるなら、今の「父さん」の前に何人も父親がいることになるし、最初の両親は何らかの事件に巻き込まれて死亡している上に、犯人が捕まっていないことになる。
しばらくどこかの大学生と同棲していたり、高齢のタクシードライバーと生活していたようだけど。それって普通に拉致だ。
よく今まで生きてこれたね。
「なんだよ。さわ、さわんな。」
なでようとしたら、払いのけられた。
捨て猫のように警戒されて、少し笑ってしまった。
気がつくと。空が白んで朝になっていた。
夜通し話をしていたらしい。
「まぁ、そんなわけだから。私は大丈夫。」
一体何が大丈夫なのか。
そんなことを思いながら、でも口には出さずに。わたしは手を振った。
Kとはそれきり会っていない。
二度と会うことはなかった。