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恋に落ちる瞬間は、とてもあっけなくて、そして刺激的だった。たくさんのビー玉が頭のなかではじけるようで。カチンカチンという小さなガラスの音は、夏の日差しのまぶしさに似ていた。マーサの目の前にいる美しい後輩は、この美術室の偶像のように、浮世離れした容姿に憂いをおびせていた。
マーサは、ごくりと唾を飲みこむと、早鐘を打つ心臓のリズムにあわせ、そっと睡蓮のほうへ身を擦り寄せた。すると、果実のあまい香りが鼻をくすぐる。香水でも、お香でもない。睡蓮の香りだった。
もう、ずっと、このままでいたい。マーサは、どんどん苦しくなっていく胸を押さえながら、睡蓮の腕のなかで、猫のように丸くなった。
しばらくすると、訪問者の気配が遠ざかったからか、睡蓮が身を起こし、そっと離れていってしまった。さっきまで睡蓮がそばにいたという、甘やかな感触だけが、マーサに残る。
「部長、すみません。急に、こんなことをしてしまって」
いいながら、睡蓮はさっさと教卓から出ていってしまう。マーサは、残念に思いながらも、よろよろと立ちあがろうとしたとき。
目の前に、すっと、白くて透き通った手が差し出れた。睡蓮の手だ。美術室にあるどんな彫刻の手よりも、美しくてかんぺきな造形の手。触ったら、砂糖菓子のように崩れてしまうのではないかと思うほど、儚くて、やわらかそうだった。
どくどくと脈打つ胸のうちを悟られないように、こっそりと深呼吸をしながら、マーサはその手を取った。睡蓮の手は、想像していたよりもずっと心地よかった。この感触は生涯、忘れたくない。もう放したくない、とさえ思った。
引っぱりあげられながら教卓から出ると、睡蓮のほうから手を放されてしまった。
もう、下校時間はとっくに過ぎているけれど、あと少しだけいっしょにいたい。
「あ、あのさ、さっきの子って……」
「すみません。ちょっと、彼女とは、あまり顔を合わせたくなくて……」
「同じクラスの子なの?」
「はい」
「……お友達、じゃないってこと?」
「友達では、ないと思います」
「……ではないと思うって、あいまいないい方だね」
「はあ。向こうは、わたしと付きあってると思っているので……」
さらり、とそう答える睡蓮に、マーサは一気に、頭から冷水を浴びせられたような気分になった。
恋に気づいたとたんに、失恋してしまった。こんなにも早く、はじまったものが、終わってしまうだなんて。
震えそうになる手を、きゅと結び、マーサはゆっくりと息を吐いた。落ち着いて、話を続けたい。どうしても、気になることがあるから。
「それって、春待さんは……あの子と付きあいたいとは思っていないってこと?」
睡蓮が、長いまつ毛をふわりと伏せた。大きな丸い瞳に影が宿る。
マーサはつい、嬉しくなってしまいそうになるのを、必死でこらえた。
「あの子にいい寄られて、仕方なく付きあっているということ? そうなの?」
睡蓮よりも小さなマーサが、ぴょんと跳ねる。高校生にもなるというのに、マーサのしぐさは、ときおり小さな少女のように見えた。嬉しさをこらえても、全身から正直に漏れ出てしまっている。
そんなマーサを見て、睡蓮は、まるで子どもを相手にしている気分になった。
だが、そんなマーサであっても、実際は睡蓮よりも年上。見てきた景色も、吸収してきた知識も、感じてきた経験も、睡蓮よりはかくじつに多かった。
「部長。そろそろ……下校しないと、もうこんな時間で……」
「春待さん。部長、なんて呼ぶのは、やめてよ」
マーサは、握っていた睡蓮の彫刻のような手の甲を、自分の頬に当て、にっこりと目を細めた。
「真麻《マーサ》って、呼んで? わたしもスイレンちゃんって、呼びたい」
「でも、先輩ですし……」
「やだなあ、スイレンちゃん。うちの部、とってもお気楽な部活なんだよ。そんなの、誰も気にしないって」
「……わかりました。じゃあ、マーサ先輩」
「あれえ。もっとフランクでいいのに……まあ、仕方ないか。じゃあ、それでいいよ」
マーサは、にこにこと笑いながら、ぎゅう、と睡蓮の腕に抱きつくと、上目遣いで見あげた。
マーサのセーラー服姿は、彼女の幼さも手伝って、どこか着せられている感が否めない。先輩なのに、守ってあげなければ、と思わせる魅力があった。
「ねえ、スイレンちゃん。わたし、先輩だからさ。スイレンちゃんのこと、守ってあげたいんだ。何かあったら、相談して? 部活の先輩だし、いちおう人生の先輩でもあるんだから。もっと、頼ってよ。どんなことからも、守ってあげるから」
マーサは太陽のような晴れ晴れとした笑顔を見せたあと、ぐっと背伸びをした。小さなマーサの精一杯の背伸びに、睡蓮が思わず屈むと、マーサの顔が近づいてきた。
真綿のようなマーサのくちびるは、子どものような瑞々しさがあった。
「くちにしたのって、初めて。こんな気持ちになるんだね」
幼いマーサの表情は、夕日のなかで、少しだけ大人びて見えた。橙色の光に染まって、赤らんで見えるマーサの頬は、どんな絵の具を混ぜたら作れるんだろう。ぼんやりと考えながら、睡蓮はそっと自分のくちびるに触れた。
■
いつから、校門の前で彼女のことを待っているだろう。
いくら校舎の中を探しても睡蓮が見つからない。しかし、靴箱には、まだ彼女のローファーが残っている。
夜桜は、昇降口を振り返る。これも、もう何度目になるだろう。何十回としているかもしれない。
あいだを置くことなく、また昇降口を振り返ったとき、ようやく待ち焦がれていた睡蓮が現れた。歓喜に胸が震える――と同時に、嫉妬が沸騰したお湯のように沸き起こる。
なぜ? なぜ睡蓮の隣に、女がいる? そいつは誰? そうだ、美術部の部長だ。まさかもう、たぶらかした? あたしの春待さんを!
沸々とあふれ出る怒りに、頭のなかが真っ赤に染まる。しかし夜桜は、暴走しそうになる感情を必死で抑えた。
動物園の資料館で、睡蓮にいわれたことを、懸命に思い出していた。
「あなたって、どうして、すぐに怒るの? わたし、怒るひとは、いや。だって、こわいでしょ……」
「じゃ、じゃあ、怒らなければ、すきになってくれる?」
「まあ……すき……。そう、かもね」
睡蓮のくちびるから紡がれた「すき」という言葉。それは、夜桜にとって、なにものにも変えがたい響きだった。ささくれ立った感情をそっと撫でてくれる。
それは、あの資料館で、睡蓮がやさしく頭を撫でてくれた、あの感触と全く同じだった。ベンチで膝枕をしてくれていた睡蓮の細い腰に、夜桜はぎゅう、とすがりつき、必死に気持ちを伝えたのだ。
「春待さん、すきなの。だいすきなの……あなたのいう通りにするから……。あたし、がんばるから。お願い、どこにも行かないで……見捨てないで」
だから、夜桜は我慢しなければならなかった。心臓がはち切れそうなほどに暴れていても。例え、睡蓮の隣を見知らぬ女が独占していても。
おしゃべりなマーサを見おろしながら、校門へと歩く、睡蓮。ざあ、と強い風が吹き、青く色づきはじめた桜の葉が校庭を舞ったとき、ようやく門のそばにいる、夜桜の存在に気づいた。
「夜桜さん」
ずっと待っていた自分を見ても、つねに落ち着いている睡蓮の声色に、カッと血の気がのぼる、夜桜。
いけない。怒ってはいけない。彼女に嫌われてしまう。おとなにならなくちゃ。睡蓮に捨てられる。
「うん。だって、あたしは、春待さんの恋人だから」
「――待ったでしょ。そんなに、待たなくてもいいのに」
「いいの! あたし、春待さんのことなら、いつまででも待てるから」
「……そうなの」
「ねえ、あたし、たくさん待ったでしょ? いい子でしょ? ねっ。ほら、いっしょに帰ろう」
「……わかった」
睡蓮は、マーサを見おろすと、小さく会釈をした。マーサの肩が、ぴくりと震えたのを夜桜は見逃さなかった。
「マーサ先輩。それじゃあ、失礼します」
「……うん。またね。スイレンちゃん」
ニッコリと微笑み、ひらひらと手を振るマーサ。それを夜桜は、激しく睨みつけた。全力の威嚇だったが、マーサは毛ほども気にしていないようだった。
並んで、帰路につくふたりの背中をマーサは黙って見送った。
夜桜に対する睡蓮の態度を見て、悟ったのだ――勝てる、と。
ふたりで歩いているあいだも、夜桜は怒りで暴れ出しそうだった。今すぐにでも抱き締めて、膝枕をして貰いながら、甘やかしてもらいたかった。でも、ここは外だし、通行人がいつ来るかもわからない。つまり、ふたりっきりではない。ふたりっきりでなければ、睡蓮に甘やかしてもらえない。睡蓮は、人目を気にするから。
動物園の資料館で甘えていたときも、誰かがやって来ると、睡蓮は頭を撫でるのをやめてしまった。そいつがいなくなると、また撫でてくれた。
自分と睡蓮以外の人間たちが、わずらわしかった。みんな死ねばいいのに、と思った。そうなれば、いつでも睡蓮に膝枕をしてもらえるのに。
「椎名さん。えらかったわね」
「え……っ?」
聞こえた言葉が信じられなくて、つい勢いよく顔をあげてしまう。睡蓮が、自分を褒めてくれるなんて。いままで胸のうちで暴れていたものが一気に浄化され、喜びがあふれだしてくる。
「さっき、怒りそうになるのを、必死に我慢しているように見えたから。わたしがいったこと、ちゃんと覚えて、それを守ってくれたんでしょう。すごいじゃない」
「あ、あ……。う、ん……」
「ふふ。こんなことなら、隠れる必要なんてなか……」
「春待さんっ!」
夕日は、とうの昔に沈んでいた。電灯が明るい薄暗がりのなか、夜桜は睡蓮を抱きしめた。
「ねえ、週末……あたしの家に泊まりに来て?」
「え……いや、それは……」
「お願い、断らないで」
いい終わると、夜桜はさらに強く、睡蓮を抱き締めた。
あれからというもの、マーサは部活中でも腕を組んできた。廊下ですれ違うと側に寄り添って来たり、一緒に帰ろうと誘ってきた。そのたびに睡蓮は、帰りは夜桜が校門の前で待っているから、と断っていた。
夜桜は、歓喜に打ち震えた。睡蓮が校門へひとりで来てくれるたび、あの女よりも、自分を選んでくれたのだと、優越感に浸った。
睡蓮が、自分を選んでくれる。あのとき感じた怒りは、もう今後、感じることはないんだろうと、確信した。もう、睡蓮を困った表情にさせることはないのだ。これからは、穏やかな気持ちで睡蓮と過ごせることが、このうえなく嬉しかった。
■
金曜日。
杠葉は今日も、食事を用意して家で待っていた。睡蓮は帰宅早々、かばんを床に放り投げ、ソファに沈みこんだ。
杠葉が、かばんを拾い、ダイニングテーブルのイスに置く。すると、ソファでまどろむ睡蓮を、両腕で縫いつけるようにして、顔を近づけた。
「スイ、行儀が悪いぞ」
「ただいま……」
「挨拶がほしいんじゃない。ぼくにかばんを片付けてほしいなら、ぼくにちゃんと言葉で伝えるんだ。そのくちで」
「明日、お泊まりをすることになったの」
「は?」
とたん、杠葉の声色が、変わった。低く、凍りつきそうになるほどの低い声だが、睡蓮は気にしていない。
「だから、明日はごはん……いらない」
「……誰の家」
その目は、睡蓮を凝視している。逃がさない、とでもいわんばかりに。
「椎名夜桜さんの家」
「……ああ。あの子か」
杠葉はそれだけいうと、さっさとキッチンの奥に引っこんでいった。睡蓮は不思議に思いながらも、ソファに身をゆだねた。
すると、杠葉はトレイを持って、すぐにキッチンから出て来た。
「……食事にしよう」
それから、杠葉はずっと黙ったままだった。睡蓮が入浴を終え、「おやすみなさい」といったときだけ、返事をしてくれた。
杠葉が、睡蓮にこんな態度をとったのは、過去に一度だけだ。
睡蓮は、小さなころからずっと、杠葉と一緒にいた。いや、杠葉が睡蓮の隣を誰にも譲らなかった、というほうが正しい。
十二歳になるまで、睡蓮は杠葉と寝ることを強いられていた。両親は、そんなふたりを、ただの仲のいい兄妹だと思っていた。たしかに、実際に仲は良かった。
睡蓮は、十三歳になると、ますます美しくなった。その甘い声には、思春期の不安定な色香を帯びはじめ、小さいころは、ただただ愛らしかった黒水晶の深い瞳は、より一層、妖艶さを増し、見つめられた者の心を虜にした。
白く滑らかな鎖骨から漂う、理性を揺さぶる芳香は、一番身近にいた杠葉の心をたやすく絡めとった。
杠葉は、睡蓮のことを、魂の底から愛した。
しかし、睡蓮が十三歳になって、しばらくたったある日。睡蓮は、杠葉に告げた。
「杠葉。わたし、もうひとりで眠れるから。今夜から、別々に寝よう」
とたん、杠葉は、絶望の淵に落とされたような心地になった。睡蓮がそんなことを考えているなど、微塵も思っていなかったのだ。
今までも、これからも、睡蓮と自分はいっしょだと思っていたのに。自分と同じくらい、睡蓮も自分を愛しているのだと思っていたのに。
「スイ。どうして、そんなことをいうんだ……?」
「えっ。だってもう、わたし十三歳だよ」
「お前は、ぼくを愛していないのか……?」
「愛してるに決まってるじゃない」
「それは、ぼくといっしょの愛なのか?」
「いっしょの愛ってどういうこと? へんな杠葉」
杠葉の瞳は、虚ろだった。睡蓮は、首を傾げるしかなかった。
睡蓮が杠葉の名前を呼ぶたび、至上の喜びといわんばかりに、自分を抱き締め、キスをしてきたのに。いまは、とても顔色がよくない。具合がわるそうだ。
「スイ。もう、ぼくといっしょに寝ないのか」
「杠葉ってば。なんでそんなに深刻そうにいうの? わたしたち、兄妹なんだから、別にいっしょに寝なくたって、ずっといっしょじゃない」
「ぼくは……お前がぼくから離れてしまうのが、こわいんだ。ぼくのこれまでの生活から、ひとつずつお前がいなくなるのが、こわいんだよ……」
杠葉は、その色素の薄い瞳から、ぼろぼろと涙を零していた。杠葉は、子どものころから睡蓮よりも、寂しがりで、泣き虫だった。それは、睡蓮が高校生になり、杠葉が社会人になった今でも変わらない。
嗚咽をあげながら、泣き続ける杠葉の背に、睡蓮はそっと腕を回した。それでも涙が止まらないようすの杠葉に、睡蓮は困ったようにたずねた。
「何か、わたしに、してほしいことはない?」
「スイ……ぼくの名前を呼んでくれ……杠葉って……」
「杠葉……」
「も、もっと……呼んでくれ…………」
「ゆずりは……ゆず、兄さん……」
「睡蓮……ぼくの、睡蓮……」
杠葉は、うわ言のように妹の名前を何度も呼び続けた。
その日から、睡蓮は杠葉と寝ることはなくなった。しかし、それまで以上に、杠葉は睡蓮に構うようになった。甲斐甲斐しく世話をし、送り迎えをなるべくしたがった。
杠葉はたまに、急に泣き出すことがある。睡蓮が、どうしたのかとたずねると、真っ青な顔をして、弱弱しく答えた。
「お前が、ぼくの作った料理を食べてくれなくなる日を想像して、こわくなったんだ……」
「もう。また、そんな妄想をしていたの?」
「妄想なんかじゃない! ぼくと寝てくれなくなったんだから、そういう日が来ることもあるかもしれないじゃないか!」
杠葉の『かもしれない妄想癖』は、いっしょに寝なくなった日から、定期的に起こるようになった。
今も、睡蓮が夜桜の家に泊まるといっただけで、黙りこんでしまった。また、変な妄想をしているのかもしれない。
どうしたものかと、睡蓮は頭を悩ませた。