最寄りの整形外科で処置を受けて取調室に入ったときには、すでに日が傾いていた。
顎に巨大なテープを貼った琴子を、パイプ椅子にもたれかかったまま仰ぎ見ながら壱道が言う。
「三針も縫ったらしい。傷が残ったらどうしてくれるんだ」
全く感情の籠らない声だ。
相変わらずマスクに隠れた表情もわからない。
「まあ、お友だちは肘を脱臼したらしいがな。押し倒す相手さえ間違ってなかったら、誰も怪我せずに済んだかもしれないのに」
避けたくせに。
心の中でぼやく。当人は6、7メートルの高さから飛び降りて無傷である。
滝沢はというと、衝撃のせいで1度吐いたらしいが、思いのほか外傷は少なく、目の前に座っている。
正面から見ると、青年というより少年と呼んだほうがいいほど、細く頼りない印象だ。
青白い顔にうっすら汗を浮かべて机の端を見つめている。
「事件のことは何も知らないらしい」
壱道が机に片肘をつきながら言う。
「昨日は五時半までゼミで、そのまま同じメンバーで飲み会に参加、夜十一時まで一人にはなってない。そもそも先週の金曜日以降、櫻井とは会ってないし連絡もとっていない」
「じゃあ」
思わず顔をしかめる。口を開くと顎が痛む。
「なんで、逃げたりしたんですか」
やっと目線がこちらに向く。
「だって、純に逃げろって言われたし、追いかけてきたし、刑事って聞いたから怖くて・・・」
「なにも悪いことしていないのに、ですか?」
「だって、そっちの刑事さん、ものすごい目で走ってきたから」
「まあ百歩譲って、お前の行動には理解を示そう」
早速お前呼ばわりである。
「でもお友達の態度は解せないな」
「・・・純はどこにいるんですか」
「別の取調室にいる。まあ軽く話を聞いた感じだと、何も知らないくせに大層な妄想してお前を庇っているみたいだが」
彼の小さな目が、また机の方に落ち込んでいく。
「なぜあいつはお前を庇おうとする」
「僕にはわかりません」
何も語るまいとするように口をへの字に結んでしまった。
「じゃあ質問を変える」
壱道がのぞきこむ。
「この際はっきり断っておくが、俺には偏見は一切ない。お前はどっちなんだ」
「どっちって」
「ゲイなのか、ストレートなのか」
直球の質問に滝沢だけでなく琴子も固まる。
「……それって、咲楽先生の事件に関係ありますか?」
「大いに」
表情筋をピクリとも動かさないまま壱道が詰め寄る。
「正直、僕はどっちなのかわかりません。女の子をかわいいと思うときもあれば、男の人にドキドキすることもあって・・・」
「男女ともに経験は?」
滝沢が泣きそうな顔になる。
「事件に関係ありますか」
「大いに」
「・・・ない、です」
「咲楽とも体の関係はなかったのか」
「はい」
壱道がふうと息をつく。
「当然のように答えやがって。やっぱりお前らは、咲楽がゲイだと知ってたんだな」
「え。あっ!」
滝沢が赤面する。
「確かに、先生がゲイだとは知ってました。でもそれだけです」
「タチかネコかは知らないのか」
ブンブンと首を振る滝沢の顔は、もう梅干しのように真っ赤だ。
「タチとネコって何ですか」
琴子の質問に、壱道が目線だけこちらに戻して答える。
「アナルセックスのとき、男役か女役かってことだ」
「な、るほど」今度は琴子が青梅になる番だった。
「咲楽がゲイだといつ知った?」
「忘れました。教室の合間の雑談だったか、ご飯に連れていってもらったときかもしれないし。
僕らには前々からその予感があったので、ああやっぱりな、という感じで、とくに驚きもしなかったので、忘れてしまいました」
「それはおかしい。咲楽はプライベートのことは何も言わなかったんだろ、自分の本名さえも。
それなのにそんなデリケートな部分を、弟子であるお前たちに言うと思うか。
それにもしそうなら、青山純が必死で隠そうとしたのもおかしい」
滝沢が言葉に詰まる。
「なぁ、滝沢隼斗。青山純は、捜査一課の俺たちが動いていることを知り、もし咲楽が殺されたんだとしたら、犯人はお前なんじゃないかと思った。それは何でだと思う?」
「・・・わかりません」
「俺がカマかけたんだよ。櫻井にレイプされた奴を知らないかと。あいつはそれをお前だと思った。なんでだろうな?」
「そんなこと言ったって。わからないよ」
壱道がおもむろに胸ポケットから、レコーダーを取り出す。
「これは櫻井のパソコンに残っていたデータだ」
再生ボタンが押される。
気持ちの悪い囁く声。
隼人の顔がみるみる青くなる。
思わず耳を塞ごうとするのを、
「ちゃんと聞くんだ」
壱道が手首を掴んで制する。
嗚咽と悲鳴と、痛々しい行為の湿った音。苦しむ喘ぎ声と興奮した息遣い。
ーーー今日も中で出すからな。
ーーーもういやだ。こんなことやめてください。先生。
そこで止めた壱道がまた再生する。
「もう止めてください」
滝沢が呟く。
ーーーこんなことやめてください。先生。
また再生する。
ーーー今日も中で出すからな。
「やめてくれ!」
レコーダーオーブん取り壁に投げつける。
「これ以上は許さない!」
壱道が静かに立ち上がる。
「……滝沢隼斗」
レコーダーを拾いながら言った。
「何がなんだかわからず聞いている俺たちでさえ、胸糞が悪くなるんだ。お前はもっと辛いだろうな」
「このことが、今回の咲楽先生の事件と関係あるとは言い切れない」
膝の上の拳を握りしめながら泣きそうな顔で言う。
「もし関係なければ、いたずらに先生を辱しめることになる。僕は何も言わない」
「滝沢さん」
琴子が口を開く。
「櫻井さんは死の直前、ある女性に電話をしています。
愛の告白の電話です。
でもその女性は彼がゲイだと知っている、数少ない人間のうちの一人です。
彼女は言います。
彼からこんな電話がかかってくるのはおかしいと。
私たちは櫻井さんの死に不審な点がある限り、何としても真相をつきとめなければいけません。
伺ったことは、捜査にのみ参考にさせていただき、一切他言しません。教えていただけませんか」
しばらく無言だった滝沢が、短く息を吐いた後、言った。
「咲楽先生って櫻井さんっていうんですね。知らなかった。下の名前も聞いていいですか」
「…秀人さんです」
「ひでとさん」
僅かに微笑むと、滝沢は、壱道に向けて顔を上げた。
「不審な点ってことは、殺人の可能性があるということですか」
「そうだ」
驚いて琴子が壱道を見る。殺人の可能性?話を聞き出すために大げさに言っているのだろうか。
「そうなんだ。やっぱり。おかしいと思ったんですよ。
だって、来月フランスで開かれるグラスコンクールに出品予定の制作、本気で作っていたんです。
そんな人が、こんなタイミングで自殺なんてするわけないんだ」
手の甲で目をこすると、妙に納得した様子で滝沢は頷いた。
「刑事さん。咲楽先生を殺した犯人を絶対に捕まえて下さい」
「約束します」
答えない壱道の代わりに、琴子が頷くと、滝沢はすーっと息を吸い込み、一気に話しだした。
「咲楽先生に恨みのあった人物は知りません。ですが、先生が殺したいほど憎んでいた人がいたのは知っています」
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