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───
「……おい、木兎」
部屋の中に、黒尾の低くてやや押し殺したような声が響く。ほんの少しだけ、語尾に鋭さが滲んでいた。
その声に反応して、ベッドの反対側で緊張感まる出しの背中がびくんと跳ねる。数秒の間をおいて、ぎこちない返事が返ってきた。
「な、なんでしょ〜……か……?」
その声はまるで小学生のいたずらがバレた時のような、後ろめたさとビビりが混ざったような響きで。黒尾はしばらく無言で木兎の背中を見つめていたが、次の瞬間、ベッドの上に身を乗り出し、思い切り木兎の頭をはたいた。
「“何でしょうか”じゃねェだろ!!」
「いっっっってぇぇぇ!!!!!」
バチン!という小気味良い音が部屋に響き、木兎は頭を抱えてのたうった。だが黒尾は全く気にした様子もなく、むしろ無表情のまま、淡々と、けれど確実に怒気を含んだ口調で続けた。
「俺もお前も全裸なのに、ここまで来て何もしねぇ奴がいるかよ……!! バカか!!!」
言い終わると同時に、黒尾は横にあった枕を手に取り、全力で木兎の顔にぶん投げた。もろに顔面に直撃し、木兎は布団にのしかかるように倒れ込んだ。
そのまま黒尾は、背中を向けて布団の中に潜り込んでしまう。口調は荒かったが、その表情には怒りだけではなく、どこか寂しさや諦めのような色が混ざっていた。
「……だって黒尾が、触んなって言ったじゃん……」
木兎の声は、普段の明るさがすっかり抜け落ちて、まるで子供が叱られた後のようにしょげている。
黒尾は顔を上げず、布団の中から声だけを返し
「はぁ? ……何マジになってんだよ」
呆れ返ったような吐息とともに、再び頭を出す。眉間に深くシワを寄せている。数秒黙ってから、短く一言
「バカ?」
「なにをを!!!!!!!」
その言葉が木兎の自尊心に火をつけたのか、顔を真っ赤にしてベッドに手をついて跳ね起きた。肩が怒っていて、鼻息も荒い。まるで戦闘態勢に入ったかのような勢い。
「急に乗って来んなよ!! 何だテメェ!!」
黒尾も負けじと叫ぶ。だがその視線の先にあった木兎の顔は、さっきまでの怒りを引っ込めたように、ほんの少し拗ねたような、どこか寂しげな顔だった。眉を寄せ、口を小さく尖らせ、目線は黒尾の足元を泳いでいる。
「……だって、俺だって、我慢してんの……」
その呟きは、不意に黒尾の胸の奥をひっかくように刺さった。
「は?……何にだよ」
怒りは消えきらないまま、黒尾は目を細めて木兎を睨む。その理由が全くわからなかった。全裸で、しかも同じベッドで、何もせずに寝ようとしている状況は黒尾にとって理解不能だ。
でも、木兎は眉を下げ、真剣に、むしろどこか苦しそうな声で言った。
「……黒尾の初めて、大事にしてぇの……」
静かに、ぽつりと、だけどその一言はしっかりと黒尾の鼓膜に、心に、届いていた。
その場の空気が変わった気がした。
黒尾は反射的に出そうになったため息を、一度飲み込む。普段なら笑い飛ばしてしまいそうな言葉だった。だけど、木兎の声には茶化す余地がないほどの真剣さがあった。
「……今ここでやっちまったら、その……黒尾が嫌がっても、乱暴になりそうっていうか……扱い、雑になりそうっていうか……」
その言葉を聞いて、ようやく黒尾は理解する。木兎は「やる気がない」んじゃない。「やりたいのに、怖くて踏み出せない」んだ。自分が相手だから、慎重になってる。雑にしたくないから、手を出せない。そんなことあるか、と正直呆れる気持ちもあったが、それ以上に、その気持ちが重たくて、真っ直ぐすぎて。
「……アホか」
「いでっ!! だから本気で───」
木兎の反論は、またもや黒尾の手によって遮られた。今度は軽く額を小突かれる。
「今更お前が俺にゴリラ化したって、何とも思わねぇよ」
「ごっ、ごりっ!!?」
その言葉に、木兎は耳まで真っ赤にして口を開けたが、その反論も黒尾が被せてくる。
「お前に小動物は似合わねぇよ。気に食わねぇならチンパンジーでもいいケド?」
「……じゃあ、シていいってこ──」
「いちいち言葉にすんじゃねぇよ、小っ恥ずかしい!! アホフクロウ!!!」
「いでぇっっ!!!!! ゴリラか小動物かフクロウどれなの!? 結局どれなの!!!!」
「ンなことどうでもいいでしょーが!!!! じゃーゴリラな!!!」
「やだならフクロウがいい!!!!」
言い合いはいつものように、収拾のつかない方向へと進んだが、それが終わった時には、なぜか二人とも深く息をついていた。言葉を尽くし、感情をぶつけ合った後のような、何かの決着がついたような疲労感だけが、そこに残っていた。
ベッドの上。重なり合っていないはずの身体が、やけに近い。
木兎の手は、黒尾の顔の横に、左右ぴったりと置かれていた。もう逃げ道はないと、無言で示すように。
「……やんの、やんねぇの……」
黒尾の声は小さいけど、目だけは真剣で、熱がこもっていた。
そしてほんの少し視線をそらしながら、ぼそりと再び呟く。
「これで“やらない”って答えたら、ぶっ飛ばすけどな……」
「…やる」
そう呟いたあと、木兎はおそるおそる黒尾の頬に手を伸ばした。その手は熱を帯びていて、けれどそっと、優しく、黒尾の顔を自分の方へ向ける。
唇と唇が、重なった。
強くない、けれど決して迷いのないキス。黒尾は目を閉じて、その温度に全身を預けた。口の力が自然と抜けて、身体から余計な力も落ちていく。
ベッドの上、静かに空気が満ちていく。
──そして、その夜がようやく、始まった。