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転機が訪れたのは、唐突だった。
学校から帰ると、リビングで母が泣き崩れていた。
「お父さんが―――亡くなったの……」
祐樹が中学2年生、14歳の冬だった。
勤務先の福岡で、暴力団との抗争に巻き込まれた孝作は、腹に2発の銃弾を受けて、あっけなく亡くなった。
試験をパスし続けてきた優秀な脳みそも、長年積み上げたキャリアも、アルマーニのスーツも、孝作の命を守ってはくれなかった。
式を福岡の警察署が管轄する葬儀場で盛大に上げてもらってから、孝作の遺骨と共に自宅に帰ってきた聡子と祐樹は、急遽設置してもらった仏壇の前で手を合わせていた。
「お父さんが残してくれたお金があるから、なんの心配もしなくていいのよ。殉職賞恤金も貰えるし、あなたは何の不自由もなく進学できるの」
聡子は泣きながら言った。
「だからこれから私たち、自由にのびのび生きて行こう?」
祐樹は単身赴任してからの十年間で、聡子の本当の笑顔を初めて見た気がした。
―――自由に?のびのび?
祐樹も笑おうとした。
でも、笑顔は出てこなかった。
祐樹はとっくに笑い方を忘れていた。
どうせ奪われるとわかっている友達を作らず、
楽しさもわからないまま、ピアノも水泳も闇雲に記録を伸ばし、
いつか、
いつか父親も母親も、
脳天から投げ落としてやるんだと、
首を締め上げてやるんだと、
柔道だけ躍起になって続けていた。
祐樹は立ち上がった。
よそ行きの黒いフォーマルスーツに身を包んだ母親の襟元を掴み上げると、リビングのフローリングの上に思い切り投げ落とした。
「――大丈夫?お母さん」
祐樹は、額から血が滴る彼女の髪の毛を吊り上げた。
仏壇に置かれた遺影の前にその血だらけの顔をつき出す。
「ーーーほら、お父さんに報告しなきゃね?」
◆◆◆
福岡警察署から電話がかかってきたのは、孝作の死から2週間が過ぎたころだった。
孝作が所持していたはずの警察手帳が、病院から戻ってきた所持物や、住んでいた職員宿舎からも見つからないという。
裕樹は母と一緒に宿舎から送られてきた孝作のバッグやら衣服をひっくり返して探した。
警察手帳は――――
孝作が愛用していたサイドバッグから出てきた。
祐樹はそれをポケットに入れ、額の汗を拭きながら聡子を振り返った。
「ないね。そう報告して?」
聡子は怯えた眼で祐樹を見つめ、静かに頷いた。
孝作が死んで、聡子は祐樹に暴力を振るうことは無くなった。
かわりにいつも祐樹の顔色を窺って、服でも金でも、祐樹が求めるものは何だって準備した。
しかしそれでも、祐樹の苛立ちが収まることはなかった。
学校の成績が下がるたび、聡子を殴った。
好きだった女子に彼氏ができると、聡子を蹴った。
警察採用試験に落ちた日には、雪の中、血だらけの聡子を引きずり回し、皮肉なことに警察に逮捕された。
孝作の命を奪った警察の象徴である手帳をポケットに入れ、聡子の腫れあがった顔を見て怯えた声を聞いていると、少しずつ気持ちが楽になった。
緊張の抜けた顔と、今までの人生で培った隙のない仕事で、採用された旅行代理店で頭角を現した祐樹は、主任、係長、課長と、出世街道を順調に歩いていた。
こうして自分も“普通の人間”として、“社会の型”にやっと嵌って生きていけるものだと思っていた。
あの日あそこで、彼に出会わなければ―――。
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ゲームが鬼ごっこだということは忘れていた。
祐樹は襲ってきた母親の姿をした何かに、拳を振るって殴り倒した。
手首ごと蹴り上げると、鈍い音がしてナイフはアスファルトの上を転がった。
それを拾い上げると、祐樹は母親の姿をした何かに跨り、両手でそれを振り落とした。
何かの胸から赤い液体が溢れ出してくる。
ドクドク。
ドクドクドクドク。
―――ああ。温かい。
刺すたびに弾ける液体を顔に浴びながら、祐樹は目を細めた。
――気が付くと赤い塊は動かなくなっていた。
「―――勝った……」
何に勝って、何が終わったか、わからなかった。
ただ射精するほどの達成感の元、祐樹は膝から崩れ落ちた。
「……フフ……ふふふふ……グフふふフ……」
身体ごと痙攣するような笑い声が昇ってくる。
視界に漆黒の喪服を着ている少年が入ってきた。
「アリス……」
祐樹は血だらけの顔で、無表情のまま近づいてくるアリスを睨んだ。
「――俺の勝ちだ。ざまあみろ……」
「いいえ」
アリスは人差し指を祐樹の顔に翳した。
その指を滑らせるように下ろしていく。
顔から首、胸、腹、そして―――
「……………」
祐樹は指さされるまま自分の膝を見下ろした。
そこには赤い塊から伸びた、不自然に白い手が自分の膝を掴んでいた。
赤い塊がこちらを見上げる。