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編集長達と別れたあと、印刷所の方へと足を運んだオレと雅子さん。無事に原稿を届けたオレ達は、そこで別れる事になった。
ちなみに雅子さんは、このまま会社の方へ出社するという。完徹状態なのに、アグレッシブというかエネルギッシュというか……
対してオレはというと、一度自宅のアパートに戻って気替えとシャワーを済ませ、再び駅へと戻って来ていた。
通勤ラッシュを過ぎた山手線に乗り、電車に揺られること数十分。上野駅で一度電車を降りたオレは、乗り換えのため東北本線のホームへと向った。
そう、これから向かう工藤先生の自宅は東京ではない。いわゆる地方作家なのだ。
まあ、地方と言っても快速なら一時間半。普通列車でも二時間程度ないので、そう遠くはない。
実際、東京への通勤圏内だし、ベッドタウンとしても開けている場所だ。
「智紀くぅ~ん!」
連絡橋の階段を小走りに降りて行くと、階下のホームで大きく手を振りオレの名を呼ぶ女性を発見。
ゆったりとしたワンピースにカーディガンを羽織った、少々お腹の目立つその女性。会社の先輩にして雅子さんの同期でもある、堀川歩美さんである。
オレが担当する事となった工藤先生の前任担当者で、今日は引き継ぎも兼ね、先生への挨拶に同行してくれる事になっているのだ。
「すみません、遅くなりました」
「大丈夫よぉ、まだ電車きてないからぁ~」
張り出したお腹に手を当てて、間延びした返事を返す歩美さん。
本人の名誉の為に言っておくが、お腹が出ているのは決して太っているからという訳ではない。お腹に子供がいるからなのである。
そう、新人のオレが担当編集になれたのは、歩美さんが産休を取る事になったからなのだ。
「それに、話は聞いてますぅ。まったくぅ~、富樫先生にも困った時ものですねぇ~?」
「あは……ははは……そ、そうですね……」
ゆったりと、独特の口調で話す歩美さんに、引きつった笑いで応えるオレ。
そんなオレの苦笑いに対して歩美さんは、ニッコリと満面の笑みを見せた。
「でも、安心して下さい~。メグちゃんはぁ、今まで原稿を遅らせた事なんてない、まじめな優等生さんですからぁ~」
その言葉に、苦笑いだったオレの表情も一転。期待に胸がドンドン膨らんでいく。
ちなみにメグちゃんとは、工藤先生の下の名前である『|愛《めぐみ》』から来ていると思われる。
ひと昔――いや、ふた昔前に放送していた人気ドラマの三人娘を思い出させて、ちょっとレトロな気もするが……
『愛情の愛と書いて、めぐみ』
愛情に恵まれていそうな、なんて女性らしくて、いい響きの名前だろう。きっと、父親はニュースキャスターに違いない。
まあ、それは冗談として。あんな純愛ストーリーを創る、真面目な優等生漫画家。そんな女性と恋が出来たら、どんなに素晴らしい事だろう……
バラ色の未来予想図に妄想を膨らませるオレ。
そんなはやる気持ちへ応えるように、程なくして目の前の線路へ下り線の電車が滑り込んで来た。
「じゃあ、智紀くぅ~ん。いきましょうかぁ~」
「はいっ!」
気合いの入った返事を返して、歩美さんに続き電車へ乗り込んで行く。
幸い通勤時間は過ぎているので、車内は比較的|空《す》いており、オレ達は苦もなくドア近くのシートを確保できた。
「通勤時間帯以外にも、快速があれば便利なんですけどね」
「あぁ~、そういえば智紀くんって、アッチが地元だもんねぇ~」
そう、この電車の終着駅にして本日の目的地は、なんとオレの地元だったりする。
まあ、当然地理にも詳しいし、その辺も含めてオレが新しい担当に選ばれたわけなのだが……正直、少し不安だったりもする。
なぜかと言えば、オレは地元じゃあソコソコの有名人なのだ。
そして、社内ではその事を隠しているし、バレるのはあまり歓迎出来る事ではない。
とはいえ、工藤先生が真面目な優等生だと言うのなら、まったく縁のない世界の話。多分、大丈夫だろう。きっと大丈夫だ。
と、自己完結して、一人でウンウン頷いていると、歩美さんがオレの顔を下から覗き込んできた。
「だけどぉ~、ちょうどいいんじゃないかしらぁ~。各駅停車なら到着まで二時間あるしぃ~。智紀くん、少し仮眠を取ったらどうかなぁ~?」
「えっ? いえいえ、大丈夫ですよ」
徹夜明けのオレとしては、ありがたい申し出ではあったけど、上司を残して――しかも身重の女性を残して、一人でグースカ寝る訳にはいかんだろ。
が、しかし――
「でもぉ~、目の下にクマが出来てるわよぉ~。着いたら起こしてあげるからぁ、少しやすみなさいな」
「いや、でも……」
「デモもテロもありません、先輩命令ですぅ。編集の世界は縦社会、先輩の言う事は絶対なんですよぉ~」
おっとりしてる様に見えて、中々に押しの強い歩美さん。
バッグの中をガサゴソと漁って何かを取り出すと、それをオレの方へと差し出した。
「これ、貸してあげますからぁ。少し寝て下さい」
歩美さんの手の中にあったのは、大きめのアイマスク……
ここまでされて断るのは、逆に申し訳ない。
「じ、じゃあ、お言葉に甘えて、少しだけ……」
「はい」
ニッコリ微笑む歩美さんからアイマスクを受け取ると、それを目の上に被せて装着した。
とはいえ、こんな気持ちの昂ぶった状態で眠れるのか?
――なんて事を思っていたけど、思っていたより身体の疲労は大きかったようだ。
アイマスクの下で静かに目を閉じると、オレの意識はすぐに深い闇へと落ちていった。