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「……!」
あぁ、その子はどこかで道を間違えてしまったみたい。本来なら、決して踏み入ってはならない場所だったのに。
そもそもこの子は都市の住人じゃなかった。廊下の空間が不自然にねじれて、その扉が「向こう側」の入口と繋がってしまったのね。
すぐに引き返すべきだったけれど……ふふ、やっぱり。溢れ出る好奇心には勝てなかったみたい。
「ここは……一体……」
疑問を口にして歩き出すと、純白の廊下に足音が冷たく響く。
子供は興味津々に辺りを見回しているけれど……この子が見たいような「芸術」は、ここにはないわ。
一見、美術館のような静謐な空気が漂っているけれど、そこにはこの子にとってあまりに刺激の強いものが潜んでいるもの。
「美術館、ですかね? ここに飾られている絵画はどれも……個性的ですね」
どうやらこの子は、芸術に造詣が深いようね。
その純粋な瞳は、「翼が溶け落ちる絵画」の前で足を止め、しばらく魅入っていたわ。
実際、芸術家にとって「個性的」という言葉は、ある種の賛辞よ。
結局のところ、現代にはびこる芸術なんてものは、遥か昔に存在した傑作の模造品に過ぎない。在り来たりな感性は淘汰され、消えていく運命。だからこそ、狂気的なまでの視点、常軌を逸した技法で、自分だけの痕跡を残すしかないの。
その真理を、この幼い子供は本能的に理解していた。
けれど、この子が信じている「一般的」や「倫理」といった概念は、この世界じゃ何の意味も持たないのだけれど。
「お、お願いします……人生を賭けて、必死に作ったんです! どうか、どうか点数を……!!」
廊下の下層には、広大な審査会場が広がっていたの。
そこは都市で生き残るため、薬指の保護を求めて自身の価値を証明しようとする志願者たちの死地。
けれど、合格点なんて滅多に出るものじゃない。
ほら、あそこで叫んでいる彼。あれで確か……三度目の落第だったかしら。
「これ以上見る価値もない。落第点……これで三回目だったか」
審査を行っていた組織員――スチューデントの子供の一人が、事務的かつ冷徹に結果を告げる。その瞬間、痩せこけた男の顔が絶望に染まったわ。
「処刑される前に残す言葉はあるか?」
「い、今からでも上塗りを……!」
「完成した作品に手を加えると? 一抹の自尊心すら持ち合わせていないのか……これ以上耳を貸す必要もないな」
「……ぇ」
運悪く、見てしまったみたいね。
組織員が巨大な筆ごとき武器を振るい、泣き喚く男の胴体を一刺しにする瞬間を。 飛び散る鮮血と塗料。
その光景を上から覗き込んでいた子供は、腰を抜かしてその場にへたり込んでしまった。
「な、なんで? なんで? どうして……? 人を……」
言葉は形を成さず、ただ小刻みに震えている。
そして悟ったのね。ここは自分がいるべき場所じゃない、今すぐ逃げ出さなきゃいけないって。
けれど……面白いわね。
この子は必死に逃げようとしているけれど、その震えの理由。
人が容易くゴミのように死ぬ場所への「戦慄」が半分。そして――あの圧倒的な暴力という名の芸術に対する、自身の作品への「劣等感」が半分。
そんなねじれた感情が、私には手に取るようにわかるわ。
震える足を叱咤して立ち上がり、来た道を戻ろうとしたその時。視線の先に、さっき下で審査をしていた組織員と同じ制服を着た子供が立っていたの。
「ひぃっ……!?」
「ふぅむ……」
目の前に立つ少年の瞳は黒く沈んでいるけれど、確かに怯えるこの子を「観察」している。
手には巨大な筆。その穂先は、先ほどの少女と同じように鮮やかな赤色を吸っているわ。
ただものならない雰囲気を前に、大きな帽子を被った子供は嫌でも理解させられた。
「そな──」
「こ、来ないでぇっ!!!??」
「……っ!」
錯乱した叫びと共に、子供は懐からある物を取り出して銃口を向けた。
銃だなんて、珍しい。あっちの世界ではあんな物が学生にまで普及しているのね。野蛮で素敵だわ。
黒髪の少年は一瞬で状況を理解し、静かに、しかし疾風のように踏み込んだ。
「きゃあっ!?」
二人の戦闘経験の差は、雲泥の差。
白髪の子供が引き金を引くよりも速く、巨大な筆が銃を叩き落とし、転がった火器は無残に踏み砕かれてしまった。
「ふっ! ……悪戯なる抵抗はやめよ」
「あっ……ああぁ……っ!」
あっという間に、子供は制圧されてしまったわね。
恐怖で体が動かなくなった隙を突かれ、仰向けの状態で喉元に筆先を突きつけられている。
子供は自身の死を悟り、さっきの志願者のように涙を流して懇願を始めたわ。
「ごっ……ごめんな、ざいっ。まだじにだぐないんでずっ……まだ、わだじだげのげいじゅづずらっ……!」
「……」
子供の泣きじゃくる顔に何かを感じたのか、あるいはその言葉が琴線に触れたのか。
少年はすぐに処刑を行わず、ただ静かに、黒曜石のような瞳で見下ろしていたの。
「そなた、芸術家を志す者なりや?」
「……えっ?」
「……問うておるなり。かの時、我が絵画を凝視せしが……あの翼、如何に映りしか?」
唐突な講評の始まり。
子供は涙目で戸惑った後、震える声で正直に答えたの。
「とっ、溶け落ちる翼が……退廃的だけど……綺麗、でした」
どうやら子供の回答は彼の気に召したみたいだね。
場所は打って変わって作品展示会場。ここも同様に子供にとって非常に刺激が強い芸術がたくさん飾られているの。
「いかでここへ来たり?」
「えっ、えっと……扉を開けたら……ここに」
「……さりや」
男の背中をついていく子供の視線はその側で設置された様々な芸術作品に都度止まっていた。
人の形を保ちながらも、花瓶のように変形させられた彫刻。絶叫の一瞬を永遠に閉じ込めたような。極彩色のキャンバス。
どれも子供の常識では測れなかった物なのは確かね。この子はそう実感するたびに腹の奥がキリキリと痛んでいるみたい。
それは恐怖による痛みだけじゃなくて……圧倒的な才能を見せつけられた時に感じる、嫉妬に近い渇き。
すると、何を思ってか。
子供は目の前のスチューデントの背中に問いかけた。
「貴方も……芸術家、なんですよね?」
「されど……何か問うたいことでも?」
振り返った黒曜石の瞳に貫かれて子供は一瞬身じろぎするんだけど……勇気を出して、ずっと喉につかえていた疑問を口にしたの。
「……何を捨てれば、あんな風に……迷いなく、綺麗に描けるんですか?」
聞いてしまったわね。
この子はあの凄惨な光景を「綺麗」だと肯定した上で、その領域に達するための代償を聞いてしまったのね。自分の心か、倫理観か、それとも人間性か。一体何を犠牲にすればその筆を持てるのかと。
黒髪の子供の足が止まる。
彼はゆっくりと向き直り、今までで一番興味深そうに目を細めたわ。
「捨てる、とぞ?……ふむ、其は違えり」
「えっ……違、うんですか?だって、普通じゃ……」
「芸術とは、砕け散りし鏡の欠片の上に乱反射する色彩が如きもの」
その男は近くにあった「作品」──元々あった顔写真に、それぞれの顔を乱雑に黒く塗りたくった絵画を愛おしそうに筆先で撫でた。
「難解にして予測不可能、不規則なれど……麗し。いかなるものにも描き出すべけれど故に、思いやり得る全てを創りいだすべし」
「……想像すら、できなかったこと」
「然り。かつて我も、予想可能な範疇の機械部品を弄り、無為な時を過ごせり。されど、この筆を執りて心得きなり」
彼は静かに子供へ歩み寄り、彼女の目を覗き込んだ。
その瞳の奥には、狂気的なまでの「自由」が渦巻いている。
「無駄なりし過去も、価値なきガラクタも、筆を通せば忽ち芸術へと昇華せん……そなたが抱宇るその『迷い』や『常識』すらも、カンバスの上では麗式絵の具とならん」
トン、と。
巨大な筆の柄が、子供の胸元――心臓の上を軽く叩く。まるで、そこに眠る可能性をノックするように。
「見よ。点一つに込められし無限の天を。そしてその点が集いて成す、更なる天を」
「……宇宙……」
「眺むるだけでも永遠に思索できよう?そなたにも……人工の翼を授けんや」
子供はもう震えていなかった。
彼の言葉が呪いのように、あるいは福音のように。
空っぽだった「描きたいもの」の器に、黒くてドロドロした何かが満たされていくのを感じていたから。 「人生において最高の選択」──そんな甘美な響きが、少女の脳髄を痺れさせている。
「……案内せん。此度は『課題評価』の日なり。我らと共に、その曇りなき眼で……真の芸術を深むべし」
さあ、どうするのかしら?
このまま逃げ帰ることもできる。
でも、今のこの子の目には……白い廊下の出口よりも、彼が指し示す血と絵の具に塗れた道の方が、遥かに魅力的に映ってしまっているみたいね。
どうやら、話はまとまったみたい。
子供とはいえ、別に自由に過ごせるわけではなかったけど、彼は子供の意思を汲み取って「見込みがある」と判断し試験の機会を与えることにしたの。
「三日後の同じ刻、再び扉を開くがよい」
「三日後……」
「然り。其の手で『点』打ち、そなたばかりの天描き出して持参せよ。……合格ならば、我が点描派の一員にて迎え入れん」
期限はたったの三日。
普通なら諦める時間だけど、子供の目は輝いている。でも、ふと彼女は視線を自身の掌──絵の具のシミ一つない綺麗な手に落として、不安げに呟いたの。
「でも、私に描けるでしょうか。貴方たちのような、あんなに鮮烈で……魂に焼き付くような『赤』が」
そう、そこが問題。
彼女は気づいていたの。自分が今まで使っていたチューブの赤色と、この回廊を彩る赤色は、根本的に成分が違うのだと。
その問いに、スチューデントの少年は、まるで幼子に真理を教える教師のように優しく微笑んだわ。
「そなたの用いる絵の具は、何で作られておる?」
「え? それは……顔料と、展色材と……」
「故に、軽いのなり」
彼は近くの壁に飾られた、大小様々な赤い点が渦巻く絵画を指先でなぞった。
「我らの『点』は其の如き模造品ならず。赤は熱を持って脈打つ動脈より。白は絶叫を上げて砕けうつろう骨より。……本物の心地、本物の時間、本物の命。それらをカンバスに定着させこそ、初めて天は生まる」
「本物の……命……」
「模造品の日常で満足するなら、さりとて良からん。されど、そなたは言いたぞ。『無駄だった過去を昇華したい』と。ならば探すべし。そなたの周りに転がれる、凡俗で、徒然に……されど『中身』ばかり極上の色彩を秘めし、手頃なる過去を」
──ガチャン。
重厚な扉が閉ざされ、子供は元の世界へ戻っていったの。
帰り際の手持ちは一見何もないように見えたけど……その頭の中には恐ろしいほどのインスピレーションが渦巻いていたわね。
これ以上、向こうの世界での子供の行いを見ることは叶わないけれど……えぇ、分かるわ。
子供の静かな日常という水面に、一つの赤い雫がぽたりと落ちた音が聞こえた気がしたから。
──とある白い部屋で。
巨大なキャンバスに熱心に向き合う、あの時の子供がいたの。
だけど、純白だった頃とは随分と様変わりしたものね。
大きな帽子の代わりに、塗料と血液で汚れたベレー帽を目深に被り、服装も赤黒く染まった白のエプロン。そして手には、乾ききらない鮮血が滲む大きな筆が握られていた。
どうやら子供は無事に、薬指の試験に合格したみたいだね。
あの時とは違って、今は憑き物が落ちたような、心安らかな顔をしている。
だけど、子供はあの世界から何を持ってきたのかな?
あの時のような純白さもなければ、大事にしていた常識もない。
失ったものが多すぎて空っぽに見えるけど……唯一、持ってきたものがあるわ。
子供の足元には、かつて人間だったものが詰められた塗料缶が、いくつか置かれているの。
中身はどれも同じ「赤」に見えるけど、バケツの側面には、几帳面な文字でラベルが貼られていた。
『板垣カノエ』
『椎名ツムギ』
『衣斐レナ』
きっと、子供が大切にしていた友人の名前でしょうね。
一抹の善性が残っていたのか、それとも「素材」の出処を忘れないための管理タグなのか。
感謝の気持ちを込めて彼女たちの名前を残したようだけれど……悲しいかな。消耗品になってしまった以上、そのインクが尽きれば、記憶からも揮発してしまうでしょうね。
「ふむ、あれが例の新人か? なんというか……第一印象とはかけ離れているな」
「異常なりや?」
子供が一心不乱に筆を走らせている背後で、野次馬たちが囁き合っていた。
そこに佇む組織員の視線はどれも、子供が描く絵画へ釘付けになっていたの。
「点描派に新人が来たと聞いて覗いてみたが……本当に点描派なのか?」
「どちらかというと、身体派のようにも見えるが……」
どうやら子供の技法について議論を広げているようね。
確かに子供は点描派に所属したけれど、その筆致は教義とは少し異なるみたい。
「……あっ、す、すみません! どうしても完成させたい絵画なんです。これが終わったら、名に恥じぬように基本の技法に戻りますので……!」
疑念の声に気づいた子供は、ハッとして振り返り、申し訳なさそうに弁明した。
その絵画というのは、あの世界の頃からずっと描きたかった景色みたいだね。
「いや、憂うる要はあらず。少なくとも、そなたの描く其れは……真の芸術ならん」
「ありがとうございます……!」
あぁ、なんて晴れやかな笑顔。
同じ派閥の人も、その他の派閥の人をも魅了する、狂気の才能が開花した瞬間ね。
ところで、その絵画はなんなんでしょうね?
見たところ、下部に血が流れ続ける死体をコラージュのように貼り付けて、上部を鮮血や塗料で、天へ伸びるように描いているようだけど……。
……なるほどね。
この絵画の題名は──
『 屍が創る歴史 』
無駄だった過去を礎に、彼女は新しい歴史を歩み始めた自身と、子供が憧れていた絵画からリスペクトして創った名前だね。
本当に……素敵なハッピーエンドだね?
コメント
3件
何処ぞの眼鏡警察:…おっとぉ?塗料缶にお友達の名前を書かれるとは…、妙ですねぇ…