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雨は嫌いじゃなかった。
世界の輪郭を曖昧にしてくれるから。
アスファルトを叩く音も、屋根を滑る水の気配も、全部が同じ速さで落ちていく。誰かの感情みたいに、行き先を決められないまま。
今日も、雨が降っていた。
傘を持つのを忘れたわけじゃない。
最初から、持つ気がなかった。
制服の肩がじわじわと濡れて、白いシャツが肌に貼りつく。冷たいはずなのに、不思議と何も感じなかった。
たぶん、もうずっと前から、感覚が追いついていなかったんだと思う。
「終夜」
名前を呼ばれて、振り返る。
クラスメイトの声だった。
心配そうな顔。
優しい声色。
「大丈夫? 顔色悪いけど」
大丈夫、って言おうとした。
いつも通りの返事を、反射みたいに。
「うん、大丈夫」
ほらね。
ちゃんと言えた。
相手は少しだけ安心したように頷いて、また日常に戻っていく。その背中を見送って、僕はひとりになった。
誰も悪くない。
誰も間違っていない。
それが、いちばん苦しかった。
家に帰っても、雨は止まなかった。
玄関に並んだ靴。
テレビの音。
母の「おかえり」。
「ただいま」
声はちゃんと出た。
笑顔も、作れた。
部屋に戻って、鞄を床に置く。
机の上には、提出期限の赤字が踊るプリント。
スマホには、返していないメッセージ。
全部、見えているのに。
全部、遠い。
ベッドに腰を下ろして、天井を見つめた。
白くて、何も書いていない。
まるで、これから先の自分みたいだと思った。
逃げたい。
その言葉が浮かんだ瞬間、胸が少しだけ軽くなった。
逃げる場所がある、と思えたから。
夜になっても、雨は止まなかった。
窓を開けると、冷たい空気が流れ込む。
街灯の光が、雨粒を照らしていた。
きれいだな、と思った。
この景色を、誰かに教えたいとも、写真に残したいとも思わなかった。ただ、きれいだと感じた。それだけで、十分だった。
机の引き出しを開ける。
中にしまっていたものを、取り出す。
震えはなかった。
迷いも、たぶん。
「ごめん」
誰に向けた言葉か、自分でもわからないまま、呟いた。
窓の外で、雨が強くなる。
まるで急かすみたいに。
階段を上がって、屋上へ向かう。
非常扉は、思ったより軽く開いた。
屋上は、夜と雨で満ちていた。
風が強くて、制服がはためく。
フェンスの向こうに、街が広がっている。
無数の灯り。
それぞれの生活。
あそこに、自分の居場所はなかった。
少なくとも、そう思ってしまうくらいには、疲れていた。
フェンスに手をかける。
冷たい金属の感触。
この先に何があるか、知らなかった。
でも、今より楽になれる気がした。
「……もう、いいよな」
誰かが止めてくれることを、ほんの少しだけ期待していた。
でも、雨の音しか返ってこなかった。
足を踏み出す。
一瞬、視界が反転して、
次の瞬間。
強い衝撃と、
息が詰まる感覚。
そして。
音が、遠ざかっていった。
暗闇の中で、
最後に聞こえたのは、雨の音だった。
それだけが、やけに鮮明で。
まるで、世界がそれを覚えておけと、言っているみたいだった。