「何回言わせるの!」
窓ガラスを打つ激しい雨音にもかき消させることなく、第一取調室にはヒステリックな怒号が響いている。
10cmほど開いたドアから軽く中を覗くと、太った女が狭間に食って掛かるように前のめりに叫んでいた。
「彼が自分の意志でそんな電話かけてくるわけないって言ってんの」
そのまま廊下に張り付いている二人を、刑事課内勤の浅倉が隣の取調室に手招きした。
「杉本鞠江(すぎもと まりえ)。29歳、しあわせ銀行の行員。
死んだ櫻井とは大学の同級生で、それから10年来の仲らしいわ。
今日の夕方、彼から電話がかかってきたんだって。彼女は仕事をしていて、電話に出られず、留守番電話に録音されていたらしいの。
それがおおよそ彼が言うはずのない内容だからおかしいって騒いでいるみたい。これ、データを聞きながら控えたものなんだけど」
几帳面な女性らしい字が並んでいた。
壱道の目線に合わせてあるメモを背伸びで覗き込む。
「そうだとして」
壱道が浅倉に向き直る。
「なんであの女はがなり立ててるんだ」
「彼女曰く、彼が自分に告白してくるなんてありえないって」
「ちょっと!いい加減、私の携帯返してよ!」
また女の叫び声がする。慌てて浅倉が取調室に戻っていく。
ついて行こうとすると二の腕をつかまれる。
「おい、何している」
「え、課長が代わってほしいって……」
「黙って見てろ」
浅倉の声が聞こえてくる。
「すみません、お待たせしました。音声データ、記録させていただきました。端末についても簡単にですが調べさせていただき、現場の警察官からも櫻井さんの携帯電話の履歴と一致しました。お返ししますね」
「その前にちょっといいですか」
狭間が口をはさむ。
壱道が音を忍ばせて取調室の前に立ち、琴子も倣う。
改めて見ると、鞠江は漆黒のショートカットで深紅のリップが映える色白で、鼻筋が通り、西洋人のような顔立ちをしている。
ただ、顎は小さな瘤を残して太い首と一体化しており、ハンプティダンプティのような体にはバストもウエストもなかった。
膝上のスカートから出た太い足に比べ、十五センチはあろうか、真っ赤なハイヒールが心細い。肉に窪んだ目の上にも下にも付け睫がびっしりで、白目がほとんど見えない。
「失礼ですが、櫻井さんとは、普段どの程度の付き合いをなさっていたのですか」
「大学卒業してから今まで何もなかったけど、半年くらい前に突然うちの銀行にお金のことで相談に来て。それから、数回電話した程度ですけど」
「プライベートでは会っていない?」
「冬に飲みに行こうと誘われましたが、ドタキャンされて」
「櫻井さんはお金に困ってたんですか」
「まさか。その逆です。溢れんばかりの財産をどう貯蓄するかのご相談でした」
「それであればね、彼から先ほどの内容の電話がこようが、全然不自然には思えないんですけどね、こちらからしたら。
むしろよくある話だ。
卒業してから暫く経って、あ、そういえばあいつ何してるかな?と会ってみたら、あれ!この子、こんなに可愛かったっけ?社会人としての常識や嗜みも身につけて、妙に色っぽい。
全然ありじゃん!!・・・みたいなね」
「それは・・・」
「まあ、あなたからしたら信じられなくても、本当の気持ちまではわからないのが男女であり、人間じゃないですかね。
そんな目くじら立てて感情的になる内容でもないと思いますよ」
「そうじゃなくて」
「それともあなたは自信がないのかな。そんなことない。あなたは魅力的ですよ。見る人によっては、ね」
鼻で笑う狭間に対し、鞠江の目に明らかに怒りの色が浮かぶ。
「櫻井さんの心中察しますね。今生の別れにずっと好きだった女性に告白したのに、信じてもらえないなんて」
「だから違うって言ってるでしょ!」
耳をつんざく声に琴子は思わず肩をすくめた。
「ほんと、警察はわかったような口をきいて!えらっそうに!」
「じゃあ、あなたね」狭間がため息をつきながら言う。
「自分が死んだあとのことを、アトリエの職員に指示していたことは知ってました?彼はもともと死ぬつもりだったんですよ。わかったような口を利いてるのはどちら?」
鞠江の顔が般若のように歪む。
「捜査はきちんとしますよ。それが僕らの仕事ですから。ただ」
そこで切って、息を吸い込むと、狭間が一気にたたみかけた。
「ただね、現場や遺体を見てきた僕らとしては、櫻井さんが他殺された可能性は相当低いと考えている。何の根拠もなく感情的に煽り立てる君の話を鵜呑みにして再捜査するつもりは、今のところない。ありがちな芸術家の自殺、それが僕の見解です」
それに、と言って狭間が椅子にもたれる。
「そもそもあなたと彼の間に何もなかったというのも怪しい話だ。学生時代、いや、最近でも何かあったんじゃないですか。逆にずっとあなたは片想いをしていたとか。振り向いてもらえないと諦めていたから最後の告白も信じられないだけじゃないんですか?」
睨み付けながら聞いていた鞠江の表情が一瞬で変わった。
「悲劇ですね。片や死ぬ間際に告白したのに受け入れてもらえない男と、片や本当の気持ちを伝えられずに終わった女。二人の思いが交差することは二度とない」
今度は鼻で笑っても鞠江は反応しなかった。
「…もういいです」
バッグを肩に掛けふらっと立ち上がると、もうその目は狭間を映していなかった。
カツンカツンとヒールの音が夜の署に響く。
「……なぁ、あんた」
廊下の角を曲がる手前で壱道が呼び止めた。
「話ならさっきの男にしたわ。それとも松が岬署は、“ありがちな芸術家の自殺”に時間をかけるほどお暇なのかしら」
「確かにそこまで暇じゃない」
鞠江が踵ん返して行こうとする。
「もし単なる自殺ならな」
「え?」その足が止まる。
「俺が見る限り、あの部屋には不審な点がいくつもある。自殺ときめつける理由は今の所みつからない」
鞠江は何も言わずに壱道を見つめた。
「そこで聞きたい。なんであそこまで頑なに、あの電話がおかしいと食ってかかったんだ」
鞠江はバッグを撫でると、何かを考えていたが、やがて顔をあげ、壱道に視線を戻した。
「どうせあの課長を名乗る刑事が牛耳る捜査一課なら、一生真相になんてたどり着けないだろうから、教えてあげるわ。
彼は同性愛者だったのよ」
同性愛者?
「ホモってことですか?」思わず口をついて出る。
「“ゲイ”よ。お嬢さん、若いのに時代遅れなのね。“ホモ”なんていうとその界隈の皆さんに怒られるわよ」
「あんたはそれを、いつ誰から聞いた」
壱道が一歩前に出る。
「大学時代に、本人から」
「彼の周りでは周知の事実か」
「たぶん知ってるのは私くらいだと思うわ」
「相手の名前は?今でも昔でもいい」
「さあ。個人名で聞いたこともなければ、彼の恋愛エピソードなども何も聞いたことないわね。はっきり言って聞きたくないし」
「それだけでは信憑性にかける」
「そうでしょ?そう言われると思ってたわ」
鞠江が弱く笑った。
窓から黒い雲を見上げる。
つけ睫の奥にある小さい目が一瞬震えた。
「もういいわよね」
鞠江はスプリングコートを翻し、歩き出した。
琴子はただ薄暗い廊下に響く彼女のピンヒールの音が遠ざかるのを、ただ見送っていた。
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