テラーノベル
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あの日は、病院への搬送や警察での事情聴取などで、長い一日となった。
健治のケガは幸い軽傷で、神経には達しておらず、手のひらを数針縫うだけで済んだ。
当の健治は、「手相が変わるなら、良い手相になればいいな」なんて呑気なことを言っていたけれど、その軽口に少しだけホッとしたのを覚えている。
でも、それが彼なりに、私に心配をかけまいとするためのものだと気づいていた。
そう気づいても、もう遅い。
私たちは元には戻れないところまで来てしまったのだから。
夫婦とは、他人同士が家族になること。その芯にあるのは、やっぱり信頼だ。
でも、その信頼を私たちは失ってしまった。
一度壊れてしまった信頼を取り戻すことは、もうできない。
だけど、私は健治を憎んでいるわけじゃない。
これから裁判が始まり、顔を合わせる機会もあるだろう。その時は、お互い被害者として、また昔の友人として、きちんと話せるといいと思っている。
病院の帰りに健治と話す時間を取った。エントランスの近くの長椅子に並んで座った私たちは、しばらく無言だった。
沈黙が居心地悪いのか、健治が不意に口を開いた。
「美緒……」
その声は弱々しくて、今にも消え入りそうだった。私はしばらく返事ができなかったけれど、意を決して口を開いた。
「健治、私、あなたと結婚できて本当に幸せだった。これからは古き良き友人として、どこかで見かけたら、声を掛けてね」
健治は顔を俯け、唇を引きしめていた。その姿を見て、私も胸が締め付けられるような思いだったけれど、それでも言わなければならなかった。
「私……頑張るから」
健治はしばらく黙っていたが、深く息をついてから顔を上げた。その目には涙が滲んでいるように見えた。
「……分かった。美緒がそう決めたなら、それが一番なんだろうな」
その言葉を聞いて、私の中にわずかだけど安堵が広がった。これで良かったのだ、と自分に言い聞かせるように頷いた。
「今までありがとう、健治」
私はそう言って立ち上がり、その場を去った。冷たい風が吹く中、もう一度だけ振り返ると、健治はまだそこに座ったまま、じっと私の背中を見つめていた。
一方で、果歩は「殺してやる!」という言葉が決定的となり、傷害罪だけでなく殺人未遂の現行犯で逮捕され、起訴が確定した。
これから裁判でどのような判決が下るのかは、私には分からない。
でも、自分が犯した罪の重さを、一生後悔し続けることになるだろう。
いや、後悔せざるを得ないはずだ。
なぜなら、果歩が逮捕された際の様子を、近くにいた野次馬がスマホで撮影していた。その映像には、取り乱し、警察官に抵抗しながら叫ぶ果歩の姿が克明に映っていた。
「離してよ!私は悪くない!全部あの女のせいなんだから!殺してやる!」
警察官の制止にも構わず声を張り上げる果歩の姿は、まるで何かに取り憑かれたかのようだった。
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果歩の異様な様子は動画を見る人々に強烈な印象を与え、撮影者がSNSに投稿すると、瞬く間に拡散されていった。
果歩にとって、一生消えないデジタルタトゥーとなったのだ。
拡散された動画には、「閲覧注意!」「栢浜市マンションで傷害事件」「ヤバイ!加害者錯乱!」といったセンセーショナルなタイトルがつけられ、多くの人々の目に触れることになった。
それだけではなく、コメント欄には「この人、あの緑原総合病院の医院長の娘らしいよ」といった情報まで書き込まれ、そこから更に波紋が広がっていった。
インターネットの匿名性を利用して、果歩の名前、住所、経歴までもが次々と暴かれていった。
挙句の果てには、緑原総合病院の公式ホームページに「加害者の家族が医院長であることをどう説明するのか」「患者の安全を守れる病院なのか」といった書き込みが多数寄せられ、問い合わせの電話が殺到し、病院の業務に支障をきたす始末だった。
事件は瞬く間に世間の知るところとなり、病院内部でも大問題となった。
院内のスタッフからは「果歩さんの名前が表に出る前に手を打つべきだった」「病院の評判を傷つけた責任をどう取るのか」といった不満や批判の声が上がり、理事会は緊急会議を開かざるを得なかった。
一時的ではあったが、果歩は医院長である父・野々宮重則の独断で、緑原総合病院の薬局製剤責任者として名を連ねていた。
その責任を問われる形で、父親は理事会で解任が可決され、医院長の座を追われることになった。
その後、医局の推薦を受けて、果歩の元夫である成明先生が医院長の後任に就任した。
その話を聞いた時、野々宮果歩との結婚によって多くの犠牲を払った成明先生が、少しでも失ったものを取り戻せるようにと心から願った。
私はと言うと、やっと離婚届を提出し「菅生美緒」から「浅木美緒」になった。
昼休みになり、名札の付いた白衣をロッカーに仕舞うと、里美の声がする。
「美緒先輩、早く行きましょう」
「うん、|Café des Arcs 《カフェ デ ザーク》にね!」
店舗から徒歩2分ぐらいの所にある|Café des Arcs 《カフェ デ ザーク》は、セミオープンのカフェで新しく出来たタワーマンションの1階のカドにある。
弓型のアーチをくぐり店内に入ると、ダークブラウンの木目調の家具。センス良く置かれたグリーン、窓も大きく、マンションの提供敷地内に植えられた木々も良い借景となって落ち着いた雰囲気。贅沢な空間だ。
店内に入るとイケメン店員さんの三崎和成くんが笑顔で対応してくれる。
言わずもがな三崎君の甥っ子なのだ。
「こんにちはー」
「いらっしゃいませ、こんにちは。ご来店ありがとございます」
「和成くんのイケメンを見に来たんたよ」
と里美がおどけて言う。
和成くんもそんなやり取りには慣れたもので、笑顔の対応だ。
「ありがとうございます。仲良しのお2人に申し訳ございませんが、あそこで男1人あぶれていて、可愛そうなので仲間に入れてあげてくれませんか?」
窓際のいつもの席、三崎君が小さく手を振り、私を柔らかい声で呼ぶ。
「美緒さん」
「もう、三崎先生ってば、美緒先輩しか見えていないんだから!わたしも居るんです!」
そう言って、里美が頬を膨らませる。
三崎君がクスッと笑いながら返した。
「ごめん、ごめん」
「まあ、美緒先輩もフリーになって、浮かれるのもわかりますが、美緒先輩は渡しませんよ!」
「あはは、鉄壁のガードだな」
「まあ、美緒先輩が幸せになるなら、仕方がないんで三崎先生には特別にお譲りします」
鉄板ネタのように里美が言うから、自然と笑みがこぼれた。
この何気ない時間が、とても心地よい。苦しい時間も辛い出来事もあったけれど、こうして笑い合える今がある。それだけで十分だと思える。
「美緒さん」
ふと名前を呼ばれ、顔を上げると、三崎君のダークブラウンの瞳が優しく弧を描く。
「これから先、何かあったら遠慮なく頼って欲しい」
その言葉に、私は胸がじんわりと温かくなるのを感じた。
「ありがとう。……これからもよろしくね」
私は笑顔でそう答えた。大きな窓の外には青空が広がり、これからの未来を明るく照らしているようだった。
【おわり】
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