水×赤
月が満ちるまで
―吸血鬼と人間の、終わることを知った恋の話
この町に来て、三度目の月が満ちようとしていた。
俺は吸血鬼だ。
昼を嫌い、夜を愛し、血を糧に生きる。
それだけの存在。心があるかどうかなんて、俺自身もわからない。
だが、あの夜、お前に出会ってから、俺は……心なんて要らないと思っていた自分が、変わり始めていた。
町の片隅、古びた図書館の裏路地。
そこに、灯りもろくに届かない寂れた石段がある。夜になると、人の気配は消える。俺のようなものにとって、居心地のいい場所だった。
その石段に座っていたのが、お前だった。
人間。
なのに、妙に静かで、やけに無防備で。
俺はただの興味で声をかけたのだと思う。
「……おい、ここは夜になると危ないぞ」
「そうかな。僕は静かでいいと思ったんだけど」
「吸血鬼が出るぞ」
「それは怖いね。でも、会ってみたいな」
お前は俺を見もせず、空を見上げて言った。
吸血鬼に興味がある人間なんて、だいたいロクなもんじゃない。
けど、なぜか俺は、そのまま隣に座っていた。
「君は?」
「ん?」
「君は……人間?」
「……さあな」
そう言うと、お前は初めて俺の方を見た。
水色の瞳が、夜のなかでほんのり光を帯びていた。人間のくせに、妙に透き通った目をしていた。
このときの俺は、まだ気づいていなかったんだ。
この出会いが、終わりを連れてくることに。
「名前は?」
「……りうら」
「そっか。僕はほとけ」
それ以来、夜ごと、俺たちは顔を合わせるようになった。
ほとけは大学の近くに住んでいて、夜中にふらっとひとりで出歩くことが多いらしかった。
正直、無防備すぎる。
けれど、俺の中で奇妙な変化が起きていた。
吸血鬼にとって、人間とは“食料”でしかない。
けれど、ほとけの前に立つと、妙に喉の渇きが和らぐ。
あるいは、心が落ち着く。
そんな感覚に、俺は戸惑いながらも惹かれていった。
「君、よく人に話しかける?」
「ううん、むしろ苦手なほう」
「じゃあ、なんで俺には平気なんだ?」
「……君は、僕に似てる気がしたから」
似てる?
俺と? この、人間が?
それは到底理解できる言葉じゃなかった。でも、同時に、妙に納得できた。
孤独。
ひとり。
静けさを愛し、誰にも心を明け渡さない、そんな佇まい。
ほとけの瞳は、俺のものに似ていた。
何も求めていないようでいて、実は誰かにそっと触れてほしいと、そう願っているような――。
「吸血鬼ってさ、人間の血、どんなふうに飲むの?」
「……興味あるのか?」
「うん」
「俺の前で、そんなこと言うの、あんまりよ くないよ」
「……でも、君は僕のこと、噛まないでしょ?」
俺は返事をしなかった。
その自信は、なかった。
喉が渇く夜もあった。
目の前にいるほとけの血の香りが、鼻をかすめるたび、指先が疼いた。
だけど、怖かった。
それを越えたら、もう――ただの獣だ。
「……俺は、もう何人も喰ってきた」
「うん」
「迷いもなかった。血を吸う。それが本能だから。けど、お前にだけは、そうなりたくないと思った」
ほとけは、微笑んだ。
何も言わずに、そっと俺の手に触れてきた。
冷たい俺の指先に、あたたかな人間のぬくもりが伝わる。
「ありがとう、りうちゃん」
その言葉は、血よりも甘かった。
ある夜、ほとけは体調を崩していた。
咳き込みながらも、いつもの石段に来たのを、俺は咎めた。
「来んなって言っただろ」
「……でも、君に、会いたかったから」
「馬鹿か。風邪ひいたまま夜に出るやつがあるか」
「……りうちゃんは、怒ってくれるんだね」
怒ってるんじゃない。
心配してるんだよ。
それがなんなのか、自分でもわからなくて、ただ苛立っていた。
ほとけの頬は赤く、微熱があった。
俺はため息をつき、仕方なく、抱えるようにして人の気配のない廃屋へ連れて行った。
そこで、ほとけはぽつりと呟いた。
「僕、あまり長くないかもしれないんだ」
「……は?」
「持病があってね。もう薬も、あんまり効かない」
まるで――さよならを言うみたいに、優しく笑っていた。
「だからさ、最後に……お願いがあるんだ」
ほとけが差し出したのは、白い首筋。
「僕の血を、君にあげる。……僕を、吸って」
「僕の血を、君にあげる。……僕を、吸って」
その言葉が、空気を凍らせた。
まるで、冗談のようだった。
けれど――お前の瞳は、冗談を言えるほどの余裕すら持っていなかった。
「お前、なにを……」
「ずっと前から、考えてたんだ。……君に、何を遺せるだろうって」
「遺す?」
その響きが、胸に刺さった。
「僕はもう、そんなに長く生きられない。体も、少しずつ壊れてきてる。食べても、眠っても、なんか……全部、霞んでくるみたいで」
「そんなの、俺には関係ない」
「ううん。関係ある。……君が、初めて僕にくれた“温度”だったから」
人間が、吸血鬼に温度を求めるなど滑稽だ。
でも、ほとけは真剣だった。
震える手で、自らの首元のシャツを緩める。
青白い肌の下で、細く脈打つ血管。
香りが、甘く立ち昇った。
その瞬間、俺の喉が、酷く渇いた。
頭の奥で、獣が目を覚ます。
「……やめろ。そんなことしても、お前は救われない」
「わかってる。でも――僕が死んだら、何も残らない。それなら、君の中に少しでも、僕が残ってくれたら、それで……」
その声が、あまりにも優しくて。
その姿が、あまりにも綺麗で。
俺は、抗えなかった。
「……後悔、するなよ」
「しないよ」
その瞬間、唇が、首筋に触れた。
そして――牙が、肌を裂いた。
あたたかい。
血の味は、想像していた以上だった。
甘く、苦く、切なくて、優しかった。
喉を通って体中を巡るその流れは、まるでお前の想いがそのまま液体になったみたいだった。
「……っ、ぅ……」
「我慢しろ、少しだけ……」
お前の身体が細かく震える。
俺の手が背中を支え、呼吸を誘うように撫でる。
口づけのように首筋に触れながら、俺は、ただ願っていた。
奪いたくない。けど、繋がりたい。
ほんのわずかな血をもらい、俺はようやく牙を引いた。
お前は、ぼんやりと目を開けたまま、俺に微笑んだ。
「……ありがとう。すごく、不思議だった」
「何がだ」
「痛いのに、君がそこにいるって思うだけで、少し、あったかかった」
「……馬鹿」
肩を抱きしめた。
血の跡を拭って、そっと額をくっつけた。
「お前は、こんなことして……俺に、死ねって言ってるのと同じだぞ」
「それでも、いいんだよ。君と、ひとつになれたなら」
吸血鬼にとって、血を分け与えることは、魂を預かるに等しい。
もう、お前は俺の中に、ずっといる。
それが、終わりの予感だとしても。
ほとけの体は、徐々に弱っていった。
それでも、夜の石段には変わらずやってきた。
手を繋ぎ、額を寄せ、ただそこに在るだけで、夜がやさしくなった。
けれど、季節は残酷に巡る。
桜が散ったあと、ほとけはとうとう、夜の約束に現れなくなった。
連絡手段などない。
人間の暮らしに深入りしないのが、俺たちの掟だったから。
それでも、俺は探した。
町を彷徨い、気配を追い、ようやく辿り着いたのは、小さな病院の屋上だった。
「……りうら」
ベッドに横たわりながら、ほとけは微笑んだ。
細くなった身体。白くなった唇。
それでも、その瞳だけは、何も変わっていなかった。
「……勝手に、終わろうとすんなよ」
「終わりたくない。でも……時間は戻せないね」
俺は、お前の手を握った。
その手は、もう冷たくなりかけていた。
「なあ、りうちゃん」
「……ああ」
「また、会えると思う?」
「……わからねぇ。けど、俺の中に、お前は残ってる」
ほとけは、小さく笑って言った。
「じゃあ……君の夜のなかで、ずっと眠らせてよ」
その日の夜、月は満ちた。
俺は、ひとりになった。
静かな町。誰もいない石段。
耳元で、まだあの声がするようだった。
「りうら、寒いね」
「……ああ。寒いな」
「でも、君がいるから、大丈夫」
「……お前、勝手なことばっか言いやがって……」
俺は、額を手で覆った。
吸血鬼のくせに、涙なんて……。
けれど、止められなかった。
その後も、俺は生きた。
夜を歩き、血を吸い、孤独のなかに帰った。
けれど、誰の血も、もう“甘く”なかった。
誰の声も、心を揺らさなかった。
ほとけが俺にくれた温度だけが、まだ胸の奥で脈打っていた。
もう何十年経とうと、それだけは色あせない。
けれど、ある夜、夢のなかで見たんだ。
あの石段に、ひとりの少年が立っていた。
まるで、かつてのほとけのように。
彼は、こちらを振り向いて言った。
「君の中の“僕”が、また春を探してるんだね」
吸血鬼は、不老不死じゃない。
けれど、死ぬには――理由が要る。
今の俺には、ようやくそれができた気がする。
春の夜。
満月の下。
俺は、最後に石段に腰を下ろし、空を見上げた。
胸元には、まだお前の血が流れている。
「ほとけ。……また、どっかで会えたらいいな」
そう呟いたそのとき、夜の風がそっと、頬を撫でた。
まるで、誰かが手を添えてくれたように。
月が満ちるまで、君を抱きしめた。
もう、二度と、目覚めないままでも構わないと思った――。
月が満ちるまで(終章)
― 永い夜の終わりに
春の夜は、やわらかい。
風が土の匂いを運び、遠くで猫が鳴いている。
月は変わらず高く、俺の影を細く伸ばしていた。
ほとけがいなくなってから、どれだけの季節を越えたのか、もう正確にはわからない。
この世界には、時間という名の“ただの飾り”しかなかった。
けれど。
俺のなかの時間は、あの春の夜で止まっている。
「なあ、ほとけ」
「……お前の声、もう、ちゃんとは思い出せないんだ」
それが、苦しかった。
泣きそうになるくらい、情けなかった。
俺は、お前を血に刻んだはずだったのに。
どうして、人の記憶ってやつは、こんなにも儚いんだろうな。
空に浮かぶ月が、ふと曇った。
まるで誰かが、そっと手で隠したように。
そして――一陣の風が吹いた。
その風の中に、声が混じった気がした。
『……君が忘れても、僕は、君を覚えているよ』
思い出の幻影か。
あるいは、血の奥に残る“かけら”が見せた幻か。
でも、その声に、俺は確かに震えた。
身体の芯が、ふと温もりに包まれる。
「……ああ。お前、まだここにいたんだな」
俺は、そう言って目を閉じた。
― 夢のなかの再会
闇の中、気配がある。
草のにおい。あたたかい風。足元の水たまりに、星が映っていた。
そこに、背を向けて立っている“誰か”がいた。
「……誰だ?」
「りうちゃん」
その名前の呼び方で、俺は一瞬で悟った。
「……ほとけ?」
振り返ったその人は、あの時のままの姿だった。
いや、少し幼くなっている気さえした。
声は透き通っていて、どこまでも優しかった。
「また、会えたね」
夢だとわかっていた。
けれど、俺は嬉しくて仕方なかった。
すぐに手を伸ばした。
でも、その指先は、触れられなかった。
「君は、まだ“こっち”には来られないよ」
「……そうか」
「でも、君が眠っている間だけなら、僕はずっとそばにいられる」
ほとけは微笑んだ。
風が通り過ぎ、頬に花びらがひとひら舞い落ちる。
「……夢でもいい。もう一度、お前に触れたい」
「ふふ、ほんとに欲張りだな、りうちゃんは」
ほとけがそっと目を閉じる。
その姿が、少しずつ近づいてくる。
そのとき、奇跡が起きた。
指先が、重なった。
ほんのわずか。ほんの一瞬。
でも、それは確かに――生きていた時よりも、深い繋がりだった。
「ねえ、りうちゃん。君は、何百年経っても、僕を忘れないでいてくれた?」
「……忘れるわけねぇだろ。お前の血は、ずっと俺の中に流れてるんだから」
その言葉に、ほとけは笑った。
今度は、ちゃんと触れられるように、手を伸ばしてくれた。
「じゃあ、また月が満ちる頃に、ここで会おう」
「……ああ。約束する」
そして、ほとけは月明かりのなかに、ゆっくりと溶けていった。
― 眠りのなかで
夜が明ける。
俺のまぶたは、ゆっくりと重くなる。
血を求める本能も、もう薄れていた。
長く生きすぎたせいだろうか。
いや――お前を失ったときから、もう俺は、生きてなどいなかったのかもしれない。
今日が、その“終わり”でいい。
俺は、静かに目を閉じた。
草の上に倒れ込むようにして、動かなくなった。
呼吸も、鼓動も、すべて止まり――ただ、眠るように。
けれど、その顔は穏やかだった。
ほんのかすかに、唇の端が上がっていた。
夢のなかで誰かと話している子供のように。
胸の奥に、あたたかい血の記憶を宿したまま。
【エピローグ】
町の片隅、古びた石段に、春が来る。
今年もまた、桜が咲いた。
夜の帳のなか、誰もいないはずの階段で、
ふたりの影が、確かに寄り添うのを見たと噂する者がいる。
影は何も語らない。
ただ、並んで夜空を見上げていたという。
月が満ちるまで、もうすぐだ。
ふたりは、また会える。
そう信じて。
終
「月が満ちるまで」
―終わりからはじまる、再会の夢―
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言葉遣いが美しい(?) ノベル練習しよ...w