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先生という存在
果たして、私が見ている物はあなたが見ている物と同じなのか。という思いは子供の頃からずっとそこにあって、今も少しある。大人になれば、大体の場合、同じものを見ているんだな。と思うことになるのだけれど、僅かばかり、でも実際はどうなのだろう。とも感じるわけで。
考え方は人によって、ならば、どうして見える者だけが同じだと考えるのか。という所になる。
表面上の部分は確かに見える。でもそれすらも実際はどうなのだろうか。とも感じるわけでして。
世界を構築している物には名前が付いていることが多いのだけれど、それは人目線の話で、別の目線になると話がうまくいかなくなる。
生産性の話をしてみると、実際、そういうのも良く分からなくて、どこからどう見たら生産性がどうなのかって言う話にもなってくる。
皆が皆、同じものを見ていて、同じものが好きで、同じように成りたい。のであればそれでいいのかもしれないけれど、必ず過去を見るとそうはなってないのも何となくわかる。
他人の成功していく姿を見ることも多くなった気がする。昨日知ったかと思えば、今日、すぐに成功している。というのは割とめずらしいものでもなくなったようで。
でも、それって本来は何か生長していくものが側にあって、初めて成立するというか、なんというか。
昔、人と言う字は人と人とが支え合って生きています。って言う言葉を知ったわけだけれど、ある大きな人や先生はそれをこう僕に教えてくれた。
人って言う字は何かに寄り添っている。で、その寄り添うものは人によって様々だから。
言われれば確かにその通りで、人っていう字に関して言えばそれは立体ではない。面に書かれた文字である。ということは支えは要らない。どっちかと言えば支えているのは紙とかそれを置いてある机なのだから。
となると、寄り添うというのが私の中で納得感が出てくる。
さて、何に寄り添うのかは様々である。と言う風に言われたように確かに様々。
型なのか、流行なのか。それとも自分に寄り添うのか。
自分の中を見つめなおすことが自分に寄り添うことなのであれば、それはいつだってできる。私はかつてそうやって常にやってきたような気もする。
答えは無し、けれど、答えは有るよ。と言われた日々。
何かしら新しい道へ足を進めていくと、どうにも目の前の景色が気に入らないときがやって来る。なんでこの風景を見ているのだろうか。って思う時がやって来る。
それをじっと見続ける毎日がやってきて、あるとき、気が付くのかもしれない。
というか、私がその風景を見続けている時、多分、それを見続けていた人が居る。
それを先に生きていた人。つまり先生と呼ぶのかもしれない。
コメント
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第5話、読み終えました。 「人」っていう字が支え合いじゃなくて「何かに寄り添う」っていう解釈、すごくしっくりきました。確かに、見え方って人それぞれなのに、同じものを見てるって思い込んでしまうこと、あるなって。 最後の「先に生きていた人が先生」っていう締めくくり、静かに響きました。松下一成さんのこういう哲学っぽい文章、好きです🌙