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春の雨が止んだ午後、誠は久しぶりに父の住んでいた家を訪れた。
父は数年前に他界し、空き家になっていた家は、今ではすっかり静まり返っていた。
古びた畳の匂いと、軋む床の音が、子供の頃の記憶をゆっくりと蘇らせていく。
その日は、遺品の整理の続きをするつもりだった。
押し入れの奥にしまわれた段ボールの山の中から、誠はひとつ、見覚えのない箱を見つけた。
箱には何も書かれていない。ただ、角がすり減り、長い年月が経っていることだけがわかる。
恐る恐る蓋を開けると、中には古い日記帳が数冊と、写真、そして――
一冊の、茶色いノート。
それを手に取った瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
見覚えがあった。
そのノートには、幼いころ杏美がいつも使っていた、あの飾り気のない花柄のカバーが付いていたのだ。
中をめくると、淡いインクで書かれた日記のような文字。
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「ひま部、2回目。
今日は森崎くんがプリンをくれた。
本当は嬉しかったけど、ありがとうって言えなかった。
次は、ちゃんと言いたい。」
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ページをめくるたびに、誠の知らない杏美の心が、言葉としてそこにあった。
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「みんなの前では、笑っていないといけない。
家に帰ると、誰とも話せない。
でも、学校に“ひま部”があるから、明日もなんとか行ける。」
「森崎くんが、私の話をただ聞いてくれた。
それだけで、心が軽くなった。
人って、誰かに聞いてもらえるだけで、こんなに変われるんだ。」
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どのページも、杏美のやわらかい言葉で満たされていた。
ときには涙をにじませながら、ノートに書き込んだであろう痕跡もあった。
そして、最終ページにだけ、少し文字の濃さが違う、最近のインクがあった。
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「森崎くんが、まだ“ひま部”を覚えてくれているなら。
いつか、このノートが彼の手に渡るようにと、親戚の人に預けました。
私は、もうすぐ遠くへ行くけれど、心だけは残していきます。
森崎くんに伝えたいこと、それは――
“あなたがいてくれたから、私は生きられました”
それだけです。」
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誠は、ノートを胸に抱きしめた。
杏美は、最後の最後まで、“言葉”でつながっていてくれた。
このノートは、まさに彼女の“心そのもの”だった。
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その夜、誠は自宅で静かに杏美のノートをスキャンし、何も手を加えずに製本して一冊の小さな本にした。
タイトルは、彼女が一度も表紙に書かなかった言葉。
『ひま部ノート』
出版社の名前を使うことなく、自費出版という形で。
名前も作者も出さず、ただの“誰かの心”として、図書室や子どもたちの居場所へ、そっと置くために。
そうして始まった小さな本は、やがて「読んだら心が軽くなる本」として口コミで少しずつ広がり、SNSを通じて次第に人々の目に留まっていった。
そして、不思議なことに、その本を読んだ人々が、自分の“言葉”を誰かに届けたいと感じ始めた。
「ひま部」は、物語としても、居場所としても、形を変えて生き続けていた。