大和が先頭に立ち、二人はゆっくりと外へ出た。大和は振り返り、一瞬悩んだが、リョージの部屋の扉に手をかけると、扉を慎重に押し閉めた。クソッタレの扉は、また忌々しい音を鳴らしたが、大和は構わず扉を締め切った。二つ隣のデブの寝息が止まった。大和は手を振り、リョージに促した。二人は鉄格子に体を張り付けた。ムニャムニャという音が聞こえ少しすると、デブの寝息が再び聞こえ始めた。 大和達は鉄格子から体を剥がすと、ゆっくりと歩き始めた。
「どこから出るの?」
リョージの質問に、大和は指で答えた。大和の指は屠殺場を指していた。リョージのため息が大和の背中にかかった。
大和は身をかがめたまま屠殺場に近づくと、そっと扉を少しだけ開き、中の様子を伺った。血生臭い匂いが大和の鼻を衝く。部屋の中は薄暗く、窓から射す日の光が、丸いまな板に刺された包丁に反射している。手前には首を落とすための無慈悲な丸鋸が置かれ、右側には、とても開ける気にはならない業務用の冷蔵庫が並んでいる。天上から垂れる鎖に死体は一体もかけられていない。コンクリートの床には怨念のようなドス黒いシミが付いている。ヤツらの気配はない。左端にある水道からシンクへと落ちる水滴の音以外何も音を発していない。
大和は目と耳で安全を確認すると、慎重に扉を開いていった。ゴロンゴロンと扉は静かに音を立てた。大和は小太りなリョージが余裕ですり抜けられるほどのスペースを確保すると、扉から手を放した。
「行くぞ」大和は前を見ながら言った。リョージは返事をしなかった。大和は構わず部屋へと入って行った。大和が振り向くと、リョージは渋々とした様子で体を動かした。大和が前を向くと、バゴン! という音が大和の後ろで鳴った。大和の心臓が飛び出しそうになる。大和は、すぐさま振り向いた。リョージが片目を瞑り、膝をさすっていた。扉に膝をぶつけたようだった。
「このバカ!」大和は声を押さえながら言った。外から目を覚ましたデブの声が聞こえる。
「なんだよ? うるさいな」
大和は扉のそばにいたリョージの手をつかみ、部屋の中へと力いっぱいに引き入れた。大和は倒れたリョージの肩を押さえ、人差し指を口の前に立てた。
大和は部屋の奥にある、茶色い木製の扉を固唾を飲んで見つめた。かきたくもない汗が大和の額に流れる。
しばらくしても、奥の扉は開かなかった。大和はホッと息を吐いた。
「よかったね」軽々しい口をきくリョージの頬を大和は左手で挟んだ。
「てめー、今度ドジしやがったら首絞めて殺してやんぞ」大和は静かな声で言った。
お決まりの脅し文句ではあったが、気持ちは本気だった。こいつのドジのおかげで、ユキジイは一緒に逃げることが出来なくなり、自分は足を引っ張られ肝を冷やしている。ユキジイがお前の部屋の鍵を自分に託してさえいなければ・・・、大和は込み上げる怒りを必死に抑え、吐き出しそうになった怒号を飲み込んだ。
「わかったよ、気を付けるよ」
リョージのふてぶてしい態度に大和は思わず手が出そうになった。だが、今ここで仲間割れをしている場合ではない。大和は冷たくリョージを睨むと「ドジすんなよ」と念を押し、部屋の奥へと進んだ。
大和は、厨房器具のようなステンレス製の台の間をゆっくりとすり抜け、奥にある表面がささくれた扉に付けられたくすんだ真鋳のノブに手をかけた。
大和は身をかがめ、ゆっくりとノブを回し、扉を引いた。開いた隙間から中を覗き込む。どうやらここは更衣室のようだ。六畳間ほどの部屋の両脇にネズミ色の所々錆の浮かんだロッカーが並び、窓は半分ロッカーに埋もれていて、光があまり差し込まない。カビとホコリが混じったような匂いがする。床は汚いフローリングで、サイズの合わない汚れた安っぽいベージュの絨毯が敷かれている。部屋の奥には似た扉が一つ。ここにもヤツらの気配は無い。
大和は扉を開け、そっと部屋へと入った。とりあえずここまでは順調だった。だが、気を抜く事は出来ない。突然あの扉が開いて、ヤツらがいつ姿を現すかわからない。
大和は足を止めると、後ろにいたリョージの体を交わし屠殺場へと戻った。
「どうしたの? やめるの?」
リョージが言うと、大和はまな板に刺さっていた中華包丁を手にした。まな板から抜いた包丁はズッシリと重く、現場で鍛えた大和の腕に太い血管を浮かび上がらせた。
「お前もいるか?」
大和は左手で傍にあった出刃包丁をつかんだ。
「俺はいい」
リョージが答えると、大和は出刃包丁を置いた。何か武器を持っていた方がとは思ったが、下手に武器を持たせてまたドジられては困ると思った大和は、そままリョージの前へと進んだ。
大和は、ゆっくりと慎重に奥にある扉へと足を進める。大和の左手が扉のノブを握ろうとすると、後ろで鳴り響いた床鳴りが、大和の動きを止めた。大和は振り向きリョージを睨んだ。
「だって・・・」リョージは眉を八の字にして悲しげな表情で大和の顔を見つめた。大和は頬を痙攣させ、威嚇するように鼻から大きく息を吐くと、前に直り、ノブを握った。
大和は音を出さないように慎重にノブを回した。また少しだけ扉を押し開けると、扉の隙間から明るい蛍光灯の光が差し込んできた。大和は右目を細め、中の様子を伺った。
左手に、胸の高さほどあるカウンターが見える。右手の手前には腰の高さほどの木製の台が置かれ、その上には紫のバラに似た花束が白い花瓶に活けられている。その向こうにはガラス張りの両開きの扉が見える。自動ドアではなく、押して開ける扉だ。手前の扉は開け放してある。そして、その扉の向こうには街灯に照らされた街路樹と舗装された道路が見える。
──何故だ?
そう思うと同時に、大和の胸が高鳴った。扉の外の世界は夜だった。
大和は気持ちを落ち着かせ、扉が邪魔をする左にあるカウンターの中を確かめようと、慎重に扉をまた少し押し開けた。
──まずい!
カウンターの中にチビスケの頭が見えた。大和は頭を引き、扉を戻した。大和は扉の陰に隠れながら、早まる鼓動と息を抑えた。
「どうしたの?」のんきな口調でリョージが言った。大和はノミがささやくような声で「黙れ」と言うと、リョージを横目で睨んだ。
大和は大きく息を吸うと、再び扉を開けた。息を殺しながらカウンターのほうを覗くと、チビスケの頭は向こうを向いていた。大和はそのまましばらく様子を見ていたが、チビスケはテレビにでも見入っているのか、全く頭を動かさなかった。大和はノブをつかんだまま頭を引くと、顔を横に向けた。
「いいか、俺が扉を開けたら向こうへ出るから、体を低くして静かに俺の後ろに付いてこい。いいか、絶対に音を出すなよ。それから絶対に立ち上がるな。カウンターの向こうにチビスケがいるからな」
大和は横目でリョージの顔を見ながら静かな声で言った。リョージは声を出さずに二回うなずいた。
「それと、右側の台に体をぶつけないように注意しろ。外の世界は夜みたいだ。闇に乗じて逃げるからな。ただし、外に出ても姿勢を低くしたまま付いてこいよ。いいな、わかったな」
大和が念を押すと、リョージはまた二回うなずいた。大和は慎重に扉を開き、チビスケの様子を伺う。チビスケは向こうを向いたまま動かない。大和は扉を開け、ゆっくりと体を前に進めた。腰を曲げ、中華包丁を胸の前に抱くように持ち、姿勢を低く保ちながら右側の開け放たれたドアへと近づいていく。三歩ほど進み、左の脇の下から後ろの様子を覗き込むと、リョージはまだ扉の内側にいた。大和と目が合うと、リョージは戸惑った様子を見せた。大和は前を向きゆっくりと足を前へ進ませた。
──あと少し、焦るな、慎重にいけ。
大和は自分に言い聞かせた。正直、リョージの事などどうでもよかった。来たくないのならばそれでもよかった。ただ、足だけは引っ張るな。そう思った時だった。
ガシャーン!
大和の肩がすくんだ。その音が何の音なのか、大和には振り向かなくてもわかっていた。
──あの野郎。
大和は低い姿勢のまま走り出そうと太ももに力を入れた。右足で地面を蹴り、左足を踏ん張り、体を勢いよく前へ進めようとすると、大和の頭が後ろに引かれた。喉仏が締め付けられ、一瞬目の前が白くなった。
──ウソだろ。
大和は足を止め、首を左後ろにひねった。チビスケが大和の首輪をつかんでいる。チビスケの体が邪魔をしてリョージの姿は見えない。大和は左手で締め付ける首輪をつかみ、包丁を握っていた右手を振り上げ、力いっぱい体をひねった。大声を張り上げながら、振り上げた包丁を首輪をつかんでいるチビスケの左腕めがけて振り下ろす。
左耳の後ろに痛みを感じ、大和は目を覚ました。痛みを感じる所に手を当てると、大きなコブができていた。大和は体を起こし、周りを見回すと、大きく息を吐いた。右のオデコが痛み、手を当てると、そこにも新しいコブができていた。おそらく棍棒で左後頭部を殴られ、反動でカウンターに頭をぶつけたのだろうと大和は思った。どうやって部屋に戻されたのかはわからなかった。何故まだ生かされているのかもわからなかった。リョージがどうなったのかもわからなかった。大和は右側の壁を見つめたが、声をかけようとはしなかった。
大和はベットから降りると、ポケットに手を入れた。中には何も入ってはいなかった。
大和はベットの端にかけておいたタオルを手に取った。乾ききったタオルを濡らそうと、便器のほうへ向かうと、部屋の前にワゴンが止まった。デカオはいつもように餌を部屋に押し入れると、何事もなかったかのように左側へと姿を消した。大和はタオルを濡らし、左耳の後ろに当てると、そのまま鉄格子へと近づき、足元に置かれた餌を見つめた。
大和は無表情のままトレイを蹴り上げた。アルミの器が鉄格子にぶつかり、甲高い音を鳴らした。中身は部屋の外に飛び散った。大和は正面を見つめたまま左手でタオルを押さえ、重たい頭を右へ倒した。デカオはドスドスとのろまな足音をたてながら、注射器を片手に部屋の前へとやってきた。不器用に錠を外すデカオを大和は無表情のまま見つめていた。
デカオは錠を外すと扉を開け、部屋の中へ入って来た。デカオの顔が射程距離に入ると、大和は握り締めた拳をデカオの顔面に叩き込んだ。野球のミットに剛速球が収まる時のような音が鳴り響いた。大和の右手に激痛が走る。大和は少しだけ眉をひそめると、タオルを投げ捨て、左手でデカオの肩をつかみ、血のにじんだ右の拳でデカオの顔面を殴り続けた。何度も、何度も、殴り続けた。痛みなど感じてはいなかった。いや、痛みなどどうでもよかった。
デカオは、大きな木像のようにピクリとも動かなかった。殴り続ける大和の拳は血がにじみ、その血は殴った革のマスクにスタンプのように跡を残した。大和の拳は痛みが麻痺し、十倍に腫れ上がってしまったのかと思わせるような感覚になっていた。まるで見えない炭酸ゼリーの手袋を付けているかのような感覚だった。大和の息が荒くなり始めると、大和の右手は脳から出される指示についてこられなくなり始めた。大和は思い切り右肩を引くと、力を振り絞り、デカオの顔面の真ん中に拳をぶつけた。デカオの顔と拳の間にブヨブヨとした見えないバリアが張られているような感じがした。
大和が拳を止めると、デカオの目が動いた。瞬間、大和の体は後へと吹っ飛んだ。内臓が口から飛び出すような苦痛に襲われ、それがデカオの左手の仕業である事を大和は即座に理解した。
大和は便器の前に尻もちをついた。感覚の無い右手で腹を抑え、左手を後ろにつく。大和は終始デカオの顔を睨んでいた。
デカオはゆっくりと腹を抑え苦しむ大和に近づくと、大和の頬をゴツイ左手で挟んだ。無理やりこじ開けられた口にゴムのチューブを入れられそうになった大和は、無理やり顔を背け、腹に当てていた右手でゴムのチューブをつかんだ。
「ざけんなコノヤロー。そんなもん二度と食わねえからな!」
大和は吐き捨てるように言った。人の肉や内臓が入っていると思われる餌を胃に収める理由が、今の大和にはノミの糞ほどもなかったからだ。
デカオは注射器を床に置くと、棍棒をつかみ振りかぶった。大和はデカオを睨み歯を食いしばった。左に衝撃を感じると、大和の魂が右へと飛び出しそうなった。だが、大和は必死に意識を保った。デカオは、朦朧とする大和の口に再びゴムのチューブを入れようとしたが、大和は歯を食いしばったままそれを拒んだ。
「ブオォ」
デカオはため息のように低い声を吐き出した。生臭い息が大和の顔にかかった。
デカオは諦めたのか注射器を持って部屋の外に出た。デカオはワゴンに注射器を戻すと、雄叫びを上げた。ドスドスという重い足音と共に、違うデカオが大和の部屋の前に現れた。もう一人のデカオがコクリとうなずくと、デカオはワゴンを押して人間小屋のほうに歩いて行った。もう一人のデカオは大和の部屋へ入ると、大和に近づき、その大きな手で大和の髪を鷲づかみにした。デカオは大和の体を引きずり始めた。
「やめろ! どこに連れて行く気だ!」
デカオは答えなかったが、答えを聞かなくても大和にはわかっていた。屠殺場へ連れて行かれるのだ。
大和は必死に抵抗したが、ブルドザーのように進むデカオを止める術はなかった。
大和は部屋の外へと引きずり出された。鉄格子を握った右手には力が入らず、ろくに役には立たなかった。ゆっくりと引きずられる大和は足をジタバタさせた。
「おい! 助けてくれ!」
大和は必死にリョージに助けを求めた。ベットから起き上がったリョージの顔を見て、大和は眉をしかめた。
「おい、何でお前は殴られてないんだ?」
リョージの顔は、いつも通りの丸い顔だった。コブもアザも何もなかった。
リョージは静かに微笑んだ。
「俺はそいつらと同じ、管理システムの一部だから、殴られたりしない」
大和はデカオに引きずられながら、遠ざかるリョージを見つめた。
「管理システム? どういう意味だ? おい!」
リョージは微笑んだまま右手を振った。
屠殺場へと引きずりこまれた大和は、デカオに押さえつけられ、チビスケに両手を後ろで縛られた。デカオが大和の髪を再びつかみ、大和の体を持ち上げると、チビスケは天上から下がっていた鎖を大和の両足に巻き付けた。
チュウタが黄色いリモコンのボタンを押すと、大和の足は天上へと上がっていった。
逆さになった大和の隣には、首を落とされた裸の女の死体がぶら下っている。首元からは、ダラダラと血が滴っていた。
チビスケは床に転がっている女の物と思われる頭を拾い上げるとまな板の上に置いた。光を失った女の目が、大和の目を見つめた。大和の背筋が凍りついた。
チュウタが丸鋸のスイッチに手をかけると、大和は蜘蛛の巣に絡みいた獲物のように体をくねらせもがき始めた。
「やめろ! やめてくれ! 女房がいるんだよ、子供が生まれるんだよ。頼むよ、頼むから」
大和が涙目になり嘆願すると、化け物たちは手を止め、肩を揺らし始めた。
「お前、何を言ってるんだ?」
傍にいたデカオが喋った。大和はギョッとして唾を飲んだ。
チュウタがスイッチを入れると、血の付いた丸鋸の歯が冷たい音を出して回り始めた。大和の体は足に引っ張られ高速で回転する丸鋸へと近づいていく。
「や、やめろ! やめてくれー!」
大和は必死に叫んだ。
「お前らが、俺達の命乞いに、一度でも耳を貸した事があるのか?」
デカオがマスクに手をかけると、化け物たちは一斉にマスクを脱いだ。
「ウソだろ・・・」
大和は唖然とした。それらの顔には見覚えがあった。牛、豚、鶏。皆大和が食べた事のある生き物たちだった。
大和の首筋に冷たい歯が当たった。大和はギュッと目を瞑った。ブシュッという音が耳の奥に聞こえると、逆さまの世界から落ちていくのがわかった。目を開いた大和の目の前にチュウタの長靴が見えると、視界は徐々に闇へと変わっていった。
大和は目を開いていた。だが、見えるものは闇しかなかった。機械的に喋る女の声が聞こえた。闇が遠ざかり、周りが明るくなり始めた。
「強制式食変プログラム及び、簡易式禁煙プログラム終了」
女の声は、その言葉を三度繰り返した。
大和の顔を白髪交じりのメガネを掛けた男
が覗き込んだ。
「お疲れ様でした。大丈夫ですか? 私が誰だかわかりますか?」
大和は体を起こし、周りを見回してから、男の顔を見つめた。
「先生・・・」
徐々に、大和の脳の空白部分に記憶が蘇り始める。
──そうだ、俺は朝起きて、病院に来たんだ。最新式の禁煙治療を受けに。受付にあった「強制食変プログラム」のポスターを見て、禁煙治療と共にそれを受けたんだ。
「お疲れ様です。こちらにお座りください」
若い看護師に促され、大和はベットから降りると、医師の座る肘掛のついた椅子の前に置かれた丸い黒い椅子に腰を下ろした。大和が体重をかけると、その椅子はシューと音を立てて少し沈んだ。
「どうですか松波さん。まだお肉が食べたいですか?」
その質問に肉を思い浮かべた大和の喉に胃液が込み上げた、大和は口を抑えながら首を振った。医師は大和の様子を見ると、椅子を回し、机のほうを向いた。
「タバコのほうはどうです? まだ吸いたいですか?」
医師は机に置かれたカルテに書きなぐる様に理解出来ない文字を書き込みながら尋ねた。
「いや、今のところ、特に吸いたいとは思わないです」
大和は壁に掛けられている丸い時計を見上げた。時計の針は午前十一時半を示していた。治療を始めてから、わずか三十分ほどしか経っていなかった。
「禁煙治療のほうは簡易式なものなので、一応お薬のほうをお出ししておきます。受診前に説明した通り、強制プログラムを二つ同時に受けることは出来ません。もしまたタバコを吸ってしまい、強制プログラムを受けたい場合は、三か月以上期間を置いてからでないと受診する事は出来ませんのでご了承下さい。それから、精神安定剤のほうも三日分だしておきます。夜眠れなかったり、夢にうなされてしまう場合に服用して下さい。ただし、お酒との併用はやめて下さい」
「わかりました」
大和は小刻みにうなずいた。
「あのう・・・」
大和は遠慮気味に言った。
「何ですか?」
医師はペンを置き、こちらを向いた。
「プログラムの中にいた人達って、実在するんですか? それとも、全員プログラムの一部なんですか?」
医師は「ああ」と言うように笑った。
「実在する人もいますよ」
大和はまた小刻みにうなずいた。
「なんか、刑務所の囚人みたいな人達がいたんですけど、あれは?」
医師は、また笑った。
「このシステムは、元々刑務所の囚人を更正させることを目的として作られた物ですから。大本のマザーコンピューターには、病院だけでなく、刑務所のコンピューターも繋がっているんです。マザーコンピューターが繋がれた人達をそれぞれに合った最適なプログラムに振り分けるんですよ。だから時には一般の人だけでなく囚人も一緒になるケースがあるんですよ」
大和はユキジイの事を思い出し、苦笑した。目を覚ましたユキジイは、出所したらきっとスリも酒もやめて真面目に甥っ子の工場で働く事だろう。フォックス兄弟も、二度と世間を騒がせる事は無いだろう。
「他に、何か気になる事はありますか?」
大和は「いいえ」と答え、医師に礼を言って部屋を出た。大和は受付で処方箋を受け取り、カードで医療費を支払うと、陽子への言い訳を考え始めた。
病院の敷地内にある薬局で薬を受け取ると、大和は駐車場に行き、止めてあった自分の車に乗り込んだ。バックミラーで自分の顔を見つめたが、普段通りの顔だった。ハンドルを握る右手も普段通りだった。
途中、コンビニで車を停め、野菜サンドとコーヒーを買った。
──与えらているものへの感謝の気持ち。か・・・。
大和は車を走らせながら窓を開けると、心地よい風を感じながら、サンドイッチの味を堪能した。
缶コーヒーを飲みながら、大和はジュースホルダーの前に置かれたタバコに目をやった。大和はコーヒーをジュースホルダーに置くと、タバコに手を伸ばした。まだ半分近く残っていたタバコを握り締めると、大和はシフトノブに掛けたゴミの入ったコンビニのビニール袋に捨てた。
家に帰ると、陽子の姿はなかった。大和は久しぶりに感じる我が家に安堵していた。腕時計を外し、財布や携帯と共にパソコンの置かれた机の上に並べると、テレビを点けてソファーに座った。テレビには、懐かしい昔の映画が流れていた。大和はソファーに横たわり映画を眺めた。ネタばれしている映画は最高の睡眠薬だった。大和の瞼は重く閉じられ、テレビに映る俳優たちは、構わず演技を続けていった。
「なんなんこれ!」
陽子の怒りの声に、大和は驚き目を覚ました。陽子は病院の領収書を見つめていた。
大和は起き上がり、慌てて陽子に説明した。陽子は終始眉間にしわを寄せていた。
「それで? タバコはやめたん?」
「うん、もう吸いたくない」
大和は両手を優しく陽子の顔に当て、親指で眉間に寄せられたシワを伸ばした。
「ちょう、やめえや。吸いたくないちゃうやろ、もう吸わへんやろ。言葉間違えたらあかんで」
手を跳ね除けられた大和は下唇を出し「はい」と答えた。
「せっかくフンパツして焼き鳥買うてきたったのに、どうするんこれ」
陽子は、スーパーの袋から、透明なプラ製の容器に入った焼き鳥を出した。それを見た大和は吐き気を催し、口に手を当てた。その様子を見た陽子は目を丸くした。
「凄い効果やな」
大和は目を逸らすと、点けっぱなしになっていたテレビを見た。いつの間にか映画は終わり、夕方のニュース番組が始まっていた。陽子は領収書を見つめながらまたブツブツと言い始めた。
「十二万て、ありえへんわ」
大和は肩を竦め、真っ直ぐにテレビを見つめた「速報」の文字が映し出されると、キャスターが横から渡された原稿を受け取り、眉を寄せると手元を見つめ、少し間を置いてから原稿を読みはじめた。
「速報です。只今入ってきたニュースをお伝えします。世界畜産研究チーム「WSIT」が、研究していた新しいワクチンの実用化に成功しました。このワクチンは新型鳥インフルエンザ、豚ペスト、スーパー狂牛病、その全てに有効な効果をもたらす画期的なワクチンであり、全世界を危機に陥れていた食肉問題は、このワクチンにより改善の道を進むことになると言う事です。繰り返し、お伝えします・・・」
大和は愕然とテレビを見つめた。
「そんな・・・」
「ありえへんわ・・・」
陽子の言葉が、大和の頭の中に、こだました。
完
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